第一章 七月二十一日 突然の別れ ◆田波侘一 ― 割れ目
「私、イギリスに引っ越すんだ」
幼なじみの告白に、俺は耳を疑った。いつからそんな、俺の寿命を縮める冗談を言うようになったんだよ。
「花、何言ってんの? 冗談だろ?」
一音一音、普段通りを装って声を出さないと裏返ってしまいそうだ。嘘だと信じたいのに、心臓が、これが紛れもない現実だと俺をあざ笑うかのように速度を上げる。
「ごめん、本当なの」
微かに震える唇を動かして申し訳なさそうに言う花は、とても嘘をついているようには見えなかったし、そもそも花はこうやって人に過度の衝撃を与える冗談を言う人間じゃない。七年間一緒にいるのだからよく知っている。俺は急いで視線を前に戻す。花の悲しそうな表情を見続けたら、嫌でも現実を受け入れた心臓が俺を置いて走り出し、車道に飛び込んでしまうかもしれないから。
「何で、いつ」
混乱がばれないよう言葉を短く切る。引っ越しの詳細を話したあと、花は絞り出したように「侘一たちとは、離れたくないよ」と言った。今度は心臓が異常に質量を増した感覚がし、膝を折ってアスファルトの地面に倒れ込みたくなった。やだ、花がいなくなるなんて、ずっと一緒だったのに、確かにこの町で出会えたのもおじさんの転勤のおかげだけど、また転勤なんて、こんな日が来るなんて思ってもみなかった。やだ、花がいなくなる、俺が悪いことしたのか、だから花は離れていってしまうのか、やだ、いやだ。
「俺だって離れたくないよ。でも、もう決まったことなんだろ?」
心臓の重みに負けないよう、ほとんど自分に言い聞かせるために言った。
鮮明に覚えている。小五のバーベキューの日、おばさんの後ろに隠れてもじもじしている花を見たとき、おとなしそうな子だという印象と同時に、素直に「かわいい」と思ったのだった。俺を男子というだけで怖がっていたから、女子と同じく友だちになれるんだよと伝えたくて話しかけ、色々な話をしてみると、それこそ花が咲いたみたいに笑顔になってくれた。さらに俺の絵を見て歓声まであげてくれたのだ。それから高校三年生になる今まで、俺はずっと、花の傍にいた。
引っ越しについて他に知っている人はいるのか訊くと、花はあろうことか俺の最も親しい、しかも花を好いている人間の名前を出した。佐山理久。入学式の翌日から気ままな格好をして教師に無茶なお願いをした俺に、そいつは「天才だ。巨匠だね」といった突飛な褒め言葉をかけてきた。清潔感の溢れる黒髪に、実力派俳優のような切れ長の目。穏やかな性格だが適度にふざけたところもあって、俺たちはすぐに仲良くなった。二年生の夏頃、理久は「俺、石井さんに告白するね」と打ち明けきて俺を驚かせた。どうやら一年の頃から俺の幼なじみとして視界に入っていた花を気になっており、二年で同じクラスになって好きになったとのことだった。告白を機に理久と花は仲良くなったし、俺から見ても理久の花への想いは丁寧で温かく、大きい。花が理久を恋愛対象として好きになる日が来てもおかしくはなかった。
しかし俺には、花の一番近くにいるのは田波侘一なのだという確信があった。
花は理久に告白された日、どう返事をするべきか、こっそり俺に相談してくれた。「理久くんのことは嫌いじゃなくて、でもまだお互いよく知らないし、お試し付き合いは怖くて」と口ごもる花に、俺は幼なじみとして助言した。その助言には、「花が」の他に、「俺が」というもう一つの主語があった。誰かの隣で無理して笑う花を見るなんて、辛くて虚しいから――俺が。あとは、理久が二回目の告白をしたり、花が理久と付き合おうか迷ったりしたら、俺に再び相談してもらえるようそれとなく念押しをしておいた。理久の恋を阻みたいわけではないし、俺が花と付き合いたいわけでもない。ただ、俺が花の一番近くにいたいだけなのだ。
でも、花がイギリスに行くことでその確信は崩れた。花の傍にいられなくなると考えるだけで、真夏の立ちくらみみたいに頭がぐらぐらする。悲しい。悲しい。悲しい。
引っ越しについて知った理久が花にかけた言葉はごく普通のものだった。気の利いたことを言えよ、いやそれは俺の方か、などと思って笑ってしまった。
校門をくぐると、花の親友の杏里ちゃんが手を振ってくる。彼女もまだイギリス行きのことは知らないらしい。そんな中、最初に知ったのは理久なのだと考えると、胸に灰色がかった靄が湧く。それはじわじわと胃や肺に充満し、体中を巡った。この靄がはらむのは、花と離れる悲しみだけではない。俺が最初に知りたかった、俺が誰よりも早く花が遠くに行ってしまうことを悲しみ、惜しみ、辛いと伝えたかった――そんな想いだった。
「侘一っ」
灰色が自分の中にどんどん広がるのを感じながら室内シューズを履いていると、花が言った。
「離れたくないって言ってくれてありがとう。私、侘一と離れるのすごく寂しい。もっと一緒にいたかった……あと少し、よろしくね」
灰色の靄はまだ俺から漏れ出ておらず、花には気付かれていないようだった。花は泣き笑いの表情を俺に向け、はっきりと言ってくれた。
「花」
俺は花に手を伸ばした。その髪か肩に触れて、「悲しかったら泣いていい」と抱き締めてもいい場面だった。だが、出来ない。俺の体はいつからか、花に触れようとするとぎしりと固まるようになっていた。昔は何も考えずに背中をぽんと叩いたり、いたずらで頬をつまんだりしていたのに、今は花の体に手をかざすだけで、そこから先が動かなくなる。昨年の夏頃にその事象を自覚し、原因が不明なまま数ヶ月が過ぎたが、理久が花の頭を優しく撫でたのを見た同年秋、突如として理解した。俺は既に花の一番近くにいるのに、腹の底にはそれ以上に近づきたいという欲求があり、それが露呈するのを体が無意識のうちに制御しているのだと。それに気付いた日の晩は、夕飯も食べずにベッドに潜り、足元からせり上がる冷たい恐怖から逃れようとタオルケットにくるまった。心のどこかでは、花が咲いたみたいに純粋に笑う、大切で清らかで綺麗な幼なじみの肌に手を滑らせたいと思っていたなんて、情けないにもほどがあった。男からそんなことをされれば花は驚き、困り、俺を怖がるだろう。そんな結末しか待っていない道を辿りたいと少しでも思っていた自分に失望するしかなかった。その翌日、花の頭を撫でている理久を見て、俺はこんなふうにはならないと固く誓った。花を驚かせ困らせ怖がらせてまで欲求をぶつけたいと思う男にはならない、と。
だから、抱き締めることなんてしない。伸ばしていた手を下げ、俺は言った。
「あと少しの時間……一緒にいようよ」
うんっと頷いた花は、俺の言葉を喜んでくれたのか、明るい笑顔になっていた。
残された時間が少ないのであれば、その間は出来るだけ長く、多く、花と一緒にいたい。触れられなくてもいい、花の傍にいたい。花の傍にいるべきは俺なのだ。
教室に入ろうとすると、前を歩く花が入り口でぴたりと静止した。不思議に思ったが、立つ位置をずらして教室内を確認すると、一直線に花に視線を注ぐ理久が見えた。理久は苦しそうに目を細めていて、二人が見つめ合っているのがわかったとき、昇降口で見た花の笑顔でいっとき収まっていた灰色の靄が、頭から噴き出していくような体感がした。俺は出来るだけ自然に声をかけ、二人を繋いでいた視線を切った。
朝のホームルームで担任が花のイギリス行きを告げ、教室は悲鳴に近いざわめきに包まれた。斜め向こうに座る理久を見ると、当然だが驚いている様子もなく教壇を見ていた。余裕ぶりやがって。
理久にいらつくなんて、俺らしくない。だが今は、花を最もよく知っているように振る舞われるのに耐えられない。
一限が始まる前に、クラスメイトが一斉に花の机に集まったので、俺もゆるゆるとその輪の外側にいた。「侘一は聞いてたのかよ」と隆行に言われ、今朝にとは言わずに曖昧に頷いた。少し離れたところに、俺と同じように輪の外に立つ理久がいた。口はきゅっと結ばれているが、魂が半分抜けたみたいにぼんやりしている。そりゃショックを受けるだろう、高校生活をかけて好きだった人がいなくなってしまうのだから。だが俺の喪失とは比べものにならないはずだ、なにせ七年間も共に過ごした人がいなくなってしまうのだから。
理久が俺に話しかけてこないのは珍しかったが、今そうされても無性にいらついてしまうのがわかっているので、俺たちはそのまま一定の距離を保ち、遠巻きに花を見ていた。
そうはしつつも理久は別に俺を避けているふうでもなく、昼飯はいつものメンバーで集まった。話題は花の転校から、ヨーロッパへ行ったことがあるかという話になり、誰もなく、最終的に行きたい国を言い合った。昼飯を食い終わると俺は一人離れて中庭に寝転んだ。七月にしてはからっとした天気で、木漏れ日の柔い眩しさも、視覚的には美しかった。しかし心でその美を感じる余裕はなく、胸中は靄により荒波のように揺れており、頭は一瞬でも長く花といるにはどうしたらいいかという考えでいっぱいだった。本当ならこの瞬間も、杏里ちゃんたちの間に割って入っていきたい。彼女たちは高校からの友だちなのだから……たかが高校からの。母さんと相談して、丸一日かけて石井家と田波家でお別れ会でも開こうか。それでも足りない、どうすれば花の傍に長くいられる?
寝返りを打った先で鼻をくすぐったのは、恐縮そうに咲いている黄色い小さな野花だった。体を起こしてみると、知ってはいたが、芝生の緑の合間からぽつぽつと黄色や白、ピンクが顔を出している。小さくて、控えめで、かわいらしい。その名前は、まったく花に合っている。
昼飯のサンドイッチが入っていた茶色い紙袋を開く。野花を傷付けないように引き抜き、紙袋に入れる。
もう一本、もう一本、もう一本。花、花、花、ああ、花。
ああ、ああ、なぜいなくなってしまう。胃ごとサンドイッチを吐いてしまいそうだ。
ふと後頭部が温かくなり、肌で「花がそこにいる」と感じると、胃がすとんと元の場所に収まった。顔を上げると、やはり花がいた。
「花ーっ」
手を振ると、振り返してくれた。嬉しい、花が俺を見ている。
衝動のまま引き抜いていた野花を咄嗟にスケッチの資料用だと言い、ハルジオンだけ名前がわかるねと笑い合った。今朝は速く重く滅茶苦茶な状態だった心臓が、今度は、描けたら見せるという二人きりの特別な約束を結べた喜びで跳ねる。
「花、侘一」
喜び強制的に途切れる。花の後ろに理久が立っていた。
「よう、理久」
返事をすると理久は今日初めて俺と目を合わせて、にっと笑った。そして花を見て、沈んだ息混じりに言う。
「昨日のメッセのこと、本当だったんだね」
「そうなの、ごめんね」
「侘一はいつ知ったの?」
次に目を合わせたとき、理久は薄く笑っていた。それがどことなく、勝ち誇っているように見えて、俺は靄の色が濃く黒に近づいていくのを感じる。胃が痺れる。お前は俺に何を言わせたいんだ?
「……俺は今朝聞いた」
そう答えるしかない。
「そっか、俺の方が先に知ったんだ」
俺は理久の、佇まいは大人っぽくても、素直で、ときに子どもらしく表情を弾けさせるところが好きだ。でも今は、その綻んだ顔を握り潰したい。こいつが俺よりも早く、花に、離れたくないという気持ちを伝えたのだ。靄は遂に俺の口からぶわりと出た。
「お前、そんなことで優越感抱いてんの?」
理久を見据える。この七年、俺がどれだけ花を大切にしてきたと思ってる? 二年やそこら、「好き」だなんてありきたりな感情を向けたくらいで、最後に傍にいられるのが自分だと思うなよ。
気がつくと理久は随分冷え切った目で俺を見ていた。まるで何回描いても上手くいかず、丸めて放り投げて紙屑にしてしまった絵を見るような。こいつ、こんな顔するやつだったっけ?
「侘一、理久……?」
花の恐々とした声で我に返った。眉をハの字にした顔が俺と理久に向けられる。どうしてそんな顔をしてるんだ、花。あ、今の理久、ちょっと怖いもんな。
花の呼びかけを合図にしたように、理久は打って変わっていつもの口調になり「侘一、花にすぐ教えてもらえなくて寂しかったんだろ」とからかってきたので、俺は半分正直に「バレた?」と大げさに拗ねてみた。
チャイムが鳴ってからもふざけ合っていると、俺たちにつられたのか花も笑っていた。別れの日が来てしまうまで、この笑顔を、出来るだけたくさん見たい。
五限目は空き時間だったが、自習にもスケッチにも身が入らないのはわかっていたので、屋上に寝そべって音楽を聴いていた。爽やかな青空に似つかわしくない、重いベースの音が鼓膜を震わせる。鳥の声よりこっちの方が今の俺には心地良い。しかしそれでも落ち着かず立ち上がり、校舎の周りをぐるぐると歩いて悲しみと焦燥と靄を少しでも薄めてやろうとした。一ヶ月前まで部活に励んでいた花の姿を思い起こすためにテニスコートに向かおうと思い立ち、三年生の教室の外に広がる中庭を二つに分けるように伸びている小道を歩いているときだった。
一組の教室に、人影が二つ見えた。一方の長身の影が、もう一方の華奢な影の肩に手を置いているのは明確であり、それが誰であるかも俺にはすぐにわかった。
理久は時折、花に触れる。それは理久にとっては好意と欲求の表現であっても、花にとっては友だち同士の取り留めのない戯れであり、花に「最も自分に近い人は理久だ」と思わせるきっかけにはなり得ないとわかっていた。だから阻みも止めもしなかったが、今、教室の窓越しにその光景を見た瞬間、俺の心には嫌悪ともいえる猛烈な苛立ちが込み上げ、歯をきつく食いしばり、絶叫のごとく思った。
花に触るな!
花はまだ、お前を本当に受け入れたわけじゃない。お前が花を好きなのは否定しないが、俺と花の間に入ってくるな。俺の方がずっと長く、花を大切にしてきたんだ。純粋で綺麗な、ありのままの花を。触れたいという欲求に身を任せるお前とは違う。
灰色だった靄が赤黒く染まり、体の中心から爪先と頭のてっぺんまで一気に広がった。額を切って血が眼球を染めたのかと思うくらい、視界も赤黒くなった。俺は小道に転がっていた拳大の石を引っ掴み、噴き出す靄の行道をかっぴらくように、右手を大きく反らせてからスイングした。
窓ガラスが派手に割れる音で、自分が何をやったかを知った。石を投げた反動でふらつく。この大切な時期に、意図的に器物を破損させたと知られたら内申点にどんな影響が出るだろうなんて考える隙もなく、俺は反射的にその場から離れ、屋上に続く東棟階段を駆け上った。急にガラスが割れて、花は怖かっただろう。イギリスに行くまでの間、出来るだけ楽しい思い出で埋めてあげたいのに、可哀想なことをした。
それでも、舌打ちをしてしまう。理久、そこは俺がいるべき場所なんだ。触る必要なんてないほど俺たちは繋がっているんだ。
どうすればいい。残りの時間、ずっと花の傍にいるには。
帰りのホームルームで担任が「窓が割られた件について、何か知っている人がいたら先生のところまで来てください」と言うのを他人事として聞き、沙也香ちゃんと教室を出て行く花の後ろ姿を見た。花と理久はあのとき教室にいなかったということになっている。二人の位置から俺が見えた可能性は低いため犯人を庇っているわけでもないだろうし、名乗り出ない意図はわからなかったが、花は正直で素直な性格なのでおおよそ理久の入れ知恵だろう。
俺だけが花と一緒にいるための策がないか机につっぷして頭を悩ませていると、「侘一、帰らないのか? 先帰るよ?」という理久の声が降ってきた。理久とは家が反対方向なので、いつも教室か校門で別れる。それでも律儀に先に帰ると伝えてくるきめ細やかさは、こいつの良いところの一つだ。俺は机から漂う使い古された木の匂いを感じながら、「おー、また」と手を振った。理久は「……花がいなくなる衝撃、大きいよね」と、共感を示すように言う。
「んー……」
大きいなんて単語で表せるわけがないだろという呆れから、はっきりとは答えずに手を降ろした。言うまでもないという返事だと理解したのか、「また明日」と肩を叩かれて、近くから人の気配が消えた。
あー、と声を漏らしつつ体を起こし、家で頭を整理した方が良いと思い、重い体を引きずって教室を出て校門をくぐった。すると、沙也香ちゃんと遊びに行ったのではなかったのか、百メートルほど前を歩く花の後ろ姿を見つけた。急に体が軽くなり、追いかける。
「はーなっ、一緒に帰ろ」
花のバッグには、俺が誕生日にあげたハムスターのキーホルダーがあった。これを渡したとき、「手作りなの⁉ 侘一はすごいねえ、すごいねえ」と感心し、「大切にする!」と見せてくれた満面の笑顔を、俺は一生覚えているだろう。
花はイギリスに送らねばならない荷物があると言う。俺も遊びに行ったことのある石井家がどんどん空っぽになっていくのかと思うと寂しいが、もう朝のように悲しい顔はさせたくないので、ごろごろしていたいと言う花を「おばさんに怒られちゃうぞー」と茶化してごまかした。
すると花から、思いがけない一言が飛び出した。家に誰もいない?
偶然だが、俺の家にも誰もいない。両親ともに出張中である。つまり、俺たちが今晩どこにいたか詮索する人は誰もいないのだ。二人きりでしたいこと――夜を過ごし、朝を迎えたい。これはもちろん俗にいう「男女で夜を共に過ごす」ことではなく、ただ一緒にいることを指す。だが「男女で夜を過ごすことではない」と考えた時点で花が嫌がるだろう想像に巻き込んだ気がして、いたたまれず反射的に花から距離を取った。
しかし思いは膨らみ、どこまで膨らんでも弾けて消えてくれはしない。夜を過ごし朝を共に迎え、朝になれば肩を並べて登校し、学校でも花の近くにいれば、俺が最も長く花の傍にいた人間になれる。誰より長く花を見てきたのだから、最後まで隣には俺がいるべきだ。いさせて、いさせてほしい、花の傍に。
花は、俺も家に一人だとは知らない。幼なじみとして大切に思う以上の感情はないとはいえ、俺たちはもう高校三年生の男女だ。さすがに親のいない家に泊まれと言えば、花は遠慮するだろう。それなら装えばいい。両親が二人とも常に仕事が忙しいのを花も知っているから、終電を逃して帰れなかったとか、俺たちが眠ってから帰宅して起きる前に出て行ったとか言えば、日々と変わらず両親が帰るはずだった家を装える。
「じゃあ、今日の夕飯、俺んちで食べたら?」
そう提案し、押し問答ののち花が「おじゃまします」と言ってくれたので、俺はガッツポーズをする。どこかのタイミングで泊まりまで提案し、両親が家にいる前提で「小学生の頃にも泊まってただろ」と言えば花は了承してくれるだろう。
「ちょっとごめんね」
着信があったのか、断りを入れた上で花はバッグからスマホを出した。すると急に隣から花の姿が消えたので驚き、振り向くと、花は足を止めて、右手に持ったスマホから顔を背けていた。普段見ることのない髪をぐしゃりと握る格好をしていて、強い不安に苛まれているのはすぐにわかる。俺は花の手には触れないよう気を付けて、許可をもらってからスマホを渡してもらう。
〈隣にt立つなhh花の消えろj潔癖すぎてよごれた目だdいかれている〉
「何だ、これ」
送信元は学校のアドレスだった。パソコン室に花を怖がらせている張本人がいるはずだが、俺が走って学校に戻ったとしてもそいつはもう逃げおおせているだろう。
「まったく、こんないたずらするなんて、誰だろうね!」
花は気にしていないふうに言っているが声は上ずってしまっている。
「花はタチの悪いいたずらをされる人間じゃないだろ。しかももうすぐ転校するって時期に」
石井花という優しい人間にこんなメールを送れば、本気で受け取り悩んでしまうであろうことは、クラスどころか学年全員がわかるはずだ。だからこれは本物の愛憎だと考えて間違いはない。
そこでやっと気が付く。これは〈隣にt立つなhh花の〉までが一つの文章だ。つまりこのメールは、花の隣に立っている俺に向けられたものだ。花もそれに気が付いたらしい。
「侘一のファンが私に怒るならまだしも」
血の気が引いているだろう手を握ってあげるべきなのかもしれない。でもそうしたら俺はそこらの男と同じになってしまう。だからまた、スマホを右手に滑り込ませるだけで手を離した。
この送信者は、花と仲良く下校する俺に嫉妬して、怒りまかせにメールを送ってきたのか。自分のアドレスから送って来ないのは卑怯だが、学校のアドレスだということで送信者を国川高校の関係者に絞り込める。こっそり花を好きでいて、転校すると聞いて焦って行動に移したやつか? 〈潔癖すぎてよごれた目だdいかれている〉というのはどういう意味だ? いかれているのはお前の方だろ。
未だに自分の価値を認めず、俺を好きな人がやったのではなどと言う花に俺ははっきりと告げる。
「花には見られる素質が十分にあんだよ。隣の俺を憎むくらいのな」
「えっ。そんなのないよ」
「花を大切に思ってるやつはたくさんいるんだ」
俺がそうだから。そして、その次に浮かぶのは――いやまさか、穏やかで落ち着いた性格のあいつが、こんな衝動的なメールを送ってくるはずがない。そう思いながらも、昼休みのあの目を踏まえると、あいつじゃないとも言い切れない。
こんなことは早く忘れてもらおうと思い、背を押すように手を動かして帰路につき直す。
花が友だちでいてくれて良かった。俺も、ずっとそう思っている。
家に来てくれた花は昔と同じようにソファに座った。俺が入れた、といってもティーバッグだが、それでも俺が入れた紅茶を美味しそうに飲んでいる。花の大学卒業は俺より一年遅れるらしい。じゃあ俺がいる会社に来たら後輩になるのかと笑っていると、花は澄んだ声色で言う。
「でもそれはないよね、侘一は美術の分野に進むでしょ?」
どきりとした。花は俺が美大受験をするのも、絵に関わって生きていきたいのも知っているから、その発言は当然なのだが、俺は勝手にも二人が将来再会しまた隣同士でいる未来を拒絶された気がした。花にそんな意図があるはずもないとわかりながらも、縋りつきたい気分になる。傍にいさせて。
「迷ってるんだ」
湧き出た思いを押し込んで最近の悩みを素直に言うと、花は驚いていた。俺はソファに体を埋めるように体の力を抜く。
美大に進学し絵を描いて勉強もして、将来的には絵画に携わって食っていきたい。出来れば描く人間として。だが若くして作品を発表したり個展を開いたりしている人たちの実力を見ると、俺には突出した才能はないとまざまざと思い知らされるのだ。
「……私は美術に詳しくないから、軽くは言えないけど、今はまだ周りと比べるより侘一自身がどうしたいかが大切なんじゃないかな」
花は他者の意見を尊重する性格で、自らの考えを主張する場面はあまりない。しかし相手への励ましや肯定に繋がる言葉に関しては、こうしてきちんと伝えようとする。さっきの「それはないよね」も、行きたい、生きたい道を持つ俺を肯定する意味合いで言ったのだ。
「そうかな」
花は侘一が迷うの珍しいねと笑み、俺が入学して早々に起こした行動を口に出して鼓舞しようとしてくれた。しかしその中に窓ガラスという単語が出てきたので、お互いに教室の窓が割られた事件を思い出したのを勘付き合った。騙すようで可哀想だが、少々引っ掛けてみる。
「割られたとき、教室には誰にもいなかったんだろ? 早くから受験勉強に根詰めてるやつの八つ当たりかな」
「……そうかもね」
花は俺にすらあの場にいたと告白しない。七年間、おそらく大きな隠し事はされずに過ごせてきていたのに……今は、理久のせいで。
ブブーッ。
テーブルにある花のスマホが振動した。花は飛び上がり、おそるおそるスマホに手を伸ばす。しんとした家に、はっと息を飲む音が響いた。どうやらまた学校のアドレスからのメールだったようだ。
「俺が見ようか」
またあんな内容をたった一人で浴びたら、顔も頭もくしゃくしゃにして今度はうずくまってしまうかもしれない。そんな姿にさせたくない。
「お願いしてもいい?」
花にスマホを手渡され、躊躇わず画面を操作し文面を読んだ。
〈お前、まだ花の隣にいるのか? 隣にいればいるほど、本当にいかれてしまうんじゃないか?〉
また俺に宛てたものだ。なぜ花に送ってくる? いかれてしまうんじゃないかって、こんなメールを見境なく花を通して寄越すお前はもういかれてるだろ。
「怖がらなくて大丈夫だよ、花。こいつはやっぱり俺の方に執着してる。ばかばかしい。見られるか?」
花は薄目で文面を読んだ。顔をしかめ、心にかかった負荷が眉の角度に表れている。メールの保存を促すと、花はうんと答えたが、その返事があまりにも弱々しくて、花をこんなに不安にさせるこのいかれ野郎を呪った。その腹立ちに任せ、俺は本心をぶちまけた。
「こうやってさ、花自身はわかってなくても、花を大切に思ってるやつがいるんだよ。この場合『大切』を通り越してるけど。寄ってくる男には気をつけるんだぞ」
寄ってくる男――それには必然的にあいつも入ってくる。一通目はさすがに違うと思ったが、二通目の冷静な口調で、送信者があいつではないと言い切れなくなった。文面から感じる冷たさが、昼休みに寄越してきた目に似ている。さすがに深読みかと思うが、いつの間にか無くなっていた野花が入った紙袋を捨てたのもあいつかもしれない。
理久、お前は今まで、俺と花が二人でいても気にしなかったじゃないか。ああ、でも、俺だってあいつと花が二人でいても気にしなかったはずだ。突然課された期限が、俺たちを焦らせているのか。
ふと花が立ち上がり、俺を見下ろした。
「理久と、何かあった?」
顔が強張り、拳に力が入っているのがわかる。「寄ってくる男」の筆頭は理久だと俺が考えているのに気付いたのだろう。しかし、昼休みに少々険悪にはなったがあのあとの雰囲気からして理久も気にしていないし、ガラスも、メールも、まだあいつとの間で「何かあった」わけじゃない。
「何もないよー」
「嫌いとかもない?」
驚いた。俺が理久を嫌うはずがない。入学から今まで、趣味や嗜好は違っても、常に気の合う仲だったのだ。そりゃ日々本音で喋っているから今日みたいに空気がぴりつく日もあったけど、それで嫌いなんていう陳腐な感情は抱かない。
「ないってば、好きだよ。俺らの繋がりは花もよくわかってるだろ?」
花がほっと顔のこわばりを解いた。理久と俺の、理久と花と俺の関係はちょっとやそっとじゃ崩れないよと思って笑い返した。
「おばちゃんたち、何時に帰ってくるんだろう?」
花がそう言ったので、俺は「七時くらいかな」とごく自然に返事をした。あれっ帰ってくるんだっけと思いかけたが、本当は花と二人なのを再認識し、にやけそうになるのを抑える。
夕飯の話に移ったタイミングで俺のスマホが鳴り、画面に「母さん」と表示されたのを花に見られた。会話から、今日は帰ってこないと花に気付かれたくはない。廊下に出るにもリビングのドアは開け放たれていて、聞かれても構わないはずの電話のためにリビングを出てドアを閉めるのは不自然だ。待てよ、逆に会話を上手く成立させられたら、母さんたちが何時になっても帰ってこなくても、本来なら帰宅するはずだったと信じ込ませられるんじゃないか。
俺は慎重に頭を回しながら「もしもし」と電話に出た。
「侘一、もうご飯買っちゃった? 賞味期限が近いものがちらほらあったから、野菜は買わずにうちの食べてくれる?」
「はいはい、了解。いつ帰れそうなの?」
「え? 明後日だって言ったじゃない」
「あー、言ってたっけ。てか花のこと、うん、今日聞いた。知ってたんだろ?」
「うん、あんたには花ちゃんが直接言いたいって聞いてたから言わなかったけど……ショックね」
「花にも挨拶しなきゃいけないから早く帰って来て」
「そうしたいのは山々だけど、仕事がみっちりだから明後日の夜までかかりそう」
「そうか、ごめんごめん。遅くなるなら帰り道気を付けて」
「明後日の夜の心配なんて、良い息子じゃなーい」
「はは。会いたがってるって言っとく。じゃあ」
電話を切り、上手く会話を聞かせられたこと、自然な流れで泊まりを提案出来たことを、内心両手を上げて喜ぶ。
遠慮する花に、つい「男と二人きりになるなんて危ないって?」などと口走ってしまった。言ってすぐ後悔し、強張る顔を隠すため「なんてね」とごまかしキッチンに逃げる。花がそんなことを考えるはずがないのに。
「侘一だもん、そんなふうには思わないよ」
ほら、やっぱり。花に下品な発言をしたのを恥じた。
……待て、「侘一だもん」ということは、誰か違う人だったらそんなふうに思うのか。いやまさか。花は安易にそんな考えを抱く人間ではない。万が一あるのであれば、それは「誰か違う人」自身が花にそういう思考を持たせた、害のある人間だってことだ。例えば、あいつ。今日、教室に二人だけでいたとき、何を考えていたんだ? 残り少ない時間、花に余計な思考を持たせる隙があったらいけない。花自身が望んでいるわけではないんだから。何か間違いがあった結果、傷つくのは花なのだから。俺なら花を傷つけない、最後まで。
「最後くらいさ、ちょっとだけ、他のみんなより長く一緒にいさせてよ」
俺は絞り出した。離れてしまうのが辛いんだ。一緒にいたいんだ。
「ごめんね。すぐ帰ってくるよ」
「短くて四年だろ。大きいよ」
「あっという間かもしれないよ。メッセのやり取りも出来るし」
花はどこまでも謙虚だ。謙虚過ぎるほどに。
「花が思ってるより、花がいなくなるのは大きいことなんだ」
牛乳をしまったあとも無為に開けっ放しだった冷蔵庫を閉じ、振り向いて花を見た。花は綺麗で思いやり深くて透き通っていて、どう言えばいいのだろうか、他の人間とは違う、かけがえのない人間なのだ。
「そう言ってくれるのは、ありがたいよ……ごめんね」
避けられない別れに対して、まるで自分が悪いかのように謝る花は、やっぱり優しい。
「行かないで……」
無意識のうちに出た言葉を、慌てて口の中に収める。別れは決まっているのだ。受験を控えた時期の異国への旅立ちを、花は華奢な体できちんと受け止めているのに、俺が逃避してはいけない。
気持ちを切り替え、夕飯のメニューをパスタに決めつつクーラーをつけると、花は開け放たれていたリビングのドアを閉めに行った。花は小学生の頃から冷房や暖房を付けるとすぐにそうしており、母さんに小まめだねと褒められていた。
「侘一と離れるの、寂しいなあ」
ぽつりと花が言った。俺に聞かせるためではなく、自然と出てしまった様子で、つまり本音なのだろう。花はドアノブを握ったまま口をもごもご動かしており、踵を返して「それじゃ一度家に戻るねー」とバッグを取りに行っていた。俺と、俺と離れるのが寂しい――それを素直に伝えてくれたことが心臓に刺さる。どくどくと血が騒ぎ、全身がじわじわと温度を上げる。
「俺もだよ、花」
だから俺も、精いっぱい本心を伝えた。心臓が痛くて熱い。膨張した寂しさと高揚が行き場をなくし、俺は花が家からいなくなったあと一人で、意味のなさない文字を叫んだ。
花はちゃんと戻ってきてくれて、向かい合ってパスタを食べ、そのあとは他愛ない話やゲームで盛り上がった。明日からもこんな時間が続くみたいに、窓ガラスも不審なメールも必然的に来る別れも話題にせず笑い合った。花が母さんたちの帰りが遅いのを心配してくれたが、その必要はないとはもちろん言わない。このまま夜通し二人で語り合いたいが、残念ながら明日も学校だ。0時をまわったあたりで就寝の準備をする。ベッド仕様に組み換えたソファに寝転ぶ花を見下ろして気がついた。この風向きだと寝ている花にクーラーの風が直撃してしまうから、変えておかないと――その瞬間、俺の頭は閃光が駆け巡ったように痛み、ある一連の考えが生まれた。すぐに「そんなバカな計画があるものか」と思うが、またすぐに「それが上手くいけば、俺の願いが叶う」と思い直す。一度浮かんでしまうともう引き返せなかった。それに俺の計画で、あんなメールを送っておきながら何食わぬ顔をして花に視線を寄越す人間――おそらくあいつから花を守ることも出来る。そうだ、わかった――好きという感情と欲求を向けるあいつこそが最も、花を傷つける害となり得る人間なのだ。
俺はクーラーの温度を二十七度に、風向きを上に設定し、心地良く花が眠れるようにする。冷えた風が肌を滑るが、体温はまた上がっている。これが、恍惚と称される温度だろうか。
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
花。行かないでと願っても意味がないのはわかっている。避けられない現実に対し駄々をこねるほど、俺は子どもではない。だがその現実に飲み込まれるまで、傍にいさせて。俺たちの七年間を忘れないで。
花が眠ってから、俺はクーラーの温度を十八度まで下げ、風向きを元に戻した。スマホのライトを頼りに、花が被っているタオルケットを剥がすと、きんと冷えた風がすやすやと眠る花に当たる。三時間後にクーラーが自動的に切れるよう設定し、リモコンを握りしめて自室に戻り、一度眠る。
四時間後に起き上がり、リビングに行ってクーラーが切れているのを確認した。既に息苦しくなる暑さが充満している。花のスマホを手に取り、側面の音量ボタンを押してサイレントモードにする。抑えきれない期待から、ちょっとだけと思ってライトで花を照らしてみると、その額には寝汗がぐっしょりと浮かんでいた。俺の胸は、生まれてこの方味わった経験のない高鳴りに打ち震えている。
<第一章 花/侘一パート 試し読み>壊れないから傍にいて 青葉える @matanelemon
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