<第一章試し読み>壊れないから傍にいて

青葉える

第一章 七月二十一日 突然の別れ ◆石井花 ― 軸

「私、イギリスに引っ越すんだ」

 言えた、言ってしまった。アスファルトから立ち上る夏の熱と緊張が混ざってかいた汗で、キャミソールが背に貼り付く。隣を歩く幼なじみの横顔をちらと伺うと、彼も同時に、見開かれた目でこちらを見た。

「花、何言ってんの? 冗談だろ?」

 登校中の生徒たちが織り成すざわめきの中、侘一(たいち)の張り詰めた声が耳に入ってくる。

「ごめん、本当なの」

 おどおどする私をよそに、侘一はすっと視線を前に戻した。いつもは賑やかな人なのに、高校受験の日や表彰される壇上といった場では落ち着いていたのを思い出す。もっとも私の引っ越しをそれらと同じにするのはおこがましいけれど。

 今日を合わせてあと四日で終業式。学校に向かう一、二年生には期末試験を終え三日間の応用問題演習期間さえ乗り切れば夏休みだという開放感が、三年生には来たる勉強地獄への憂鬱感が漂っている。

そんな中、私と侘一の間に流れる空気は周囲と色が違い、固い。しばらくは蝉の鳴き声が沈黙をごまかしてくれていた。

「何で、いつ」

 怒っているんじゃないかと思うほど平静に、侘一が訊いた。

「あと一週間後……お父さんの仕事の都合で。うちは元々転勤族だから、ここに七年住めたのが長い方だったみたい。私が知ったのは二週間前で、向こうでの家や高校の編入が確定したのは三日前。だから伝えるのが直前になっちゃった。お父さんは単身赴任でもいいって言ってくれてたけど、私も前から英語を喋れるようになりたかったから、付いていくことにしたの」

 心苦しさから一気に喋ってしまう。

「侘一たちとは、離れたくないよ」

 離れるという言葉に、自分で言ったのに、慣れ切った通学路を歩く足が重くなる。七年間を共に過ごした侘一と離れるのは本当に辛い。

 小学五年生の二学期、石井家はこの町に引っ越してきた。学校でも地区の子ども会でも数人の友だちが出来たけれど、全員女の子だった。引っ込み思案で男の子には話しかけられないし、男の子も、おとなしくて可愛くもない私には積極的に話しかけてこなかったのだ。そんな折、お母さんのPTAの繋がりで、近所の田波さんと田波家の庭でバーベキューをすることになった。田波くんは転校してきたばかりの私でも知っていた、五年三組の、声が大きくて運動神経の良い男の子だった。そんな子と一日中接するなんて想像しただけで気が引けて、実際に田波家に着いてもお母さんの陰にいたばかりの私に、トングを持った田波くんは「俺、怖くないよ。大丈夫だよ」と話しかけてくれたのだった。おずおずと「石井花です」と言うと、彼は「知ってるよ。転校生が来たってうちのクラスでも騒いだもん。ご近所さんだったんだな」と、並びの揃った歯を見せて笑った。それから色々な話をした。町のこと、学校のこと、流行っていること、アニメのこと。びっくりしたのは、田波くんが絵を描くのが好きということで、商店街や公園など町の至る場所を描いた水彩画はそれまでに見た誰のものより上手で繊細で、私は「わあ! すごい!」と絵を掲げてはしゃいだのだった。「大きな声も出せんじゃん」と、田波くんはからかいつつもはにかんでいた。そんな彼とは中学も高校も同じで、長く仲良くしてもらっている。

 それが、隣を歩く田波侘一だ。

「俺だって離れたくないよ。でも、もう決まったことなんだろ?」

声色が一段下がり、海に石が沈んでいく光景を想像させる言い方だった。

「うん……」

沈ませているのは自分なのだと思うと胸が痛む。

「この話、誰が知ってるの?」

「今日からみんなに話そうとしてて……あっ、理久(りく)には、昨日メッセしてて、その流れで言ったよ」

 侘一は空を見やり、「そっか」と俯いた。空の色が、夏の到来を知らせる濃い青なのはわかっていたけれど、今の私には見上げられない。

「あいつは何て?」

「急すぎるってちょっと怒られた。寂しいって、もっと一緒にいたかったって言ってくれたよ」

 ぎゅっと拳を握る。佐山理久は、私と侘一と同じ国川高校三年一組の男子だ。他の男子と違うのは、私のことを……好きだと言ってくれる人だということ。

「そう」

侘一はそれだけ言い、不意に吹き出した。

「はっ、ははは。びっくりしすぎて何も言えねえ」

「いきなりでごめんね。でも何年かしたら戻ってこられると思うよ! 就職は日本になるはず」

「本当に? ここに戻ってくるのか⁉」

「あっ……ここにかどうかは、わからないんだけれど」

「そうか」

表情を明るくしかけた侘一は、また目を伏せてしまった。

 校門をくぐると、生徒たちの視線がこちらに集まるのがわかった。もちろん私にではなくて侘一に。

 侘一は目立つ容姿をしている。オレンジに近い茶髪が似合う、少年らしさを残した顔立ち。人当たりが良く誰とでも仲良くなれるし、女子に告白されたと噂を聞いたのも一度や二度じゃないのに、恋人は私の知る限りいたことがない。運動神経が良いのに美術部だというギャップも人気を呼んでいる。侘一と登校すると私はもれなく、なぜあんな釣り合わない女子が隣に、という怪訝な視線を向けられる。居たたまれなさには慣れたし、当然だと思う。それにたとえあと数日後にはそんな日もなくなるのだと思うと、もはや寂しい。

「花! 侘一くんと登校、うらやましいぞー!」

 数メートル先からわざわざ振り向き、ぶんぶんと手を振ってきたのは仲良しの杏里だった。彼女は侘一のファンだと公言している。侘一はへらっと笑って手を振り返した。きゃーと大げさに飛び上がって、杏里は先に校舎に入っていった。

「杏里ちゃんも知らないの?」

「うん」

「そっか。はは、俺、さっきから『そっか』しか言ってないね」

 緩く笑んでいてもまだ沈んでいる侘一の調子に、心の底から悲しくなる。こんなふうに惜しんでくれるのがありがたくて、寂しくて、泣きそうだ。でも泣いたらだめだ。別れを選んだのは私なのだから、侘一に気を遣わせたらいけない。

「侘一っ」

 室内シューズを履いていた侘一は、私の呼び掛けに顔を上げた。良かった、大きく名前を呼ばれた驚きで、表情から悲しそうな色が消えている。私自身は、声を張ったはいいものの、へなへなとした情けない顔をしているのだけれど。でもそれすらありがたい。侘一の前ではいつも、私は包み隠さず私でいられる。七年間もそんな存在でいてくれて、感謝しかない。

「離れたくないって言ってくれてありがとう。私、侘一と離れるのすごく寂しい。もっと一緒にいたかった……あと少し、よろしくね」

「花」

 侘一の手が伸ばされ、宙を掻くように動いたあと、元あった場所に戻った。

「あと少しの時間……一緒にいようよ」

 寂しいけれど嬉しくて、自然と笑えて、頷けた。

 教室のドアを開けて、最初に目が合ったのは席に座っている理久だった。黒髪が開け放たれた窓から吹き込む風に揺れていて、視線が交わったとき、彼は息を飲みそうになるほど切なく目を細めた。

 ちょうど一年前の夏、その年初めての入道雲の写真を撮った日の放課後、同じクラスだった理久は――そのときはまだ理久くんと呼んでいた彼は、私に「好きです」と言ってくれた。「付き合ってくれませんか」とも。でも当時の私は理久について「侘一と仲が良く、陸上部で、成績上位の人だけ掲示されるリストによく名前がある人」という情報しか認識しておらず、会話をしたのも数えるほどだった。「とりあえず了承してお試しで付き合ってみる」という手段があるのは知っていたけど、相手の気持ちに応えられるかわからないのに隣に留めさせ時間や気を遣わせる罪悪感は想像するだけで大きく、返事は一日待ってもらうことにした。侘一は告白するのを知っていると理久から聞いていたため、その日のうちにこっそり相談をしたら、「好きじゃない人と付き合ったって、お互い辛いというか、虚しいだけだよ。また理久に何か言われたり、花自身が迷ったりしたら、俺に相談するんだぞ」とアドバイスをくれたので、私は翌日理久に「友だちでいてください」と告げたのだった。理久は「ありがとう。急に告白してごめんね」と私を優しく見下ろして、「でも俺、少なくとも高校生の間は石井さんを好きでいるから、そっちもごめん」と謝った。私が「私、理久くんに何もしてあげられていないのに」と驚いていると、理久は私の間抜けな顔をじっと見て、噛み締めるがごとく「かわいいなあ」なんて言ったので、私は「えっ、わっ」と挙動不審になり、それをまたかわいいと言うのでまたまた私が慌てるというループが起きた。それから理久は私の部活の試合の結果を気に掛けてくれたり、私が数学で五十点を取って落ち込んでいると励ましてくれたりと、何かと話しかけてくれた。侘一と理久と三人でいる時間も多くなって、二人がお互いをからかい合っているのを見ていたり、漫画を回し読みしたりするのも楽しかった。そして三年生のクラス発表で理久とまた同じクラスだったのを喜んだとき、私は彼が、隣にいてくれるだけで胸がほんわかと温かいもので満たされる存在になっていると自覚した。今では、理久が私を好きだというのはいつの間にか周知となっており、みんなからも「両想いにしか見えない」「今度は花から言いなよ」「はよ付き合え」なんて言われている。理久が侘一に並ぶ、私にとって特別な男の子になったのは事実だ。でも人と付き合ったことのない私にはこの気持ちが「付き合う」に至るまでのものなのか、未だにわからない。

そんな理久とももうすぐお別れ。

自席に座る彼は、ドアの前に突っ立ったまま胸が締め付けられるほど切ない双眸に吸い込まれていた私に向かって口を開いた。

「何かあった?」

 理久が声を発する前に、私の背後の侘一が、頭上から顔を出して教室を覗いた。そのときチャイムが鳴り、理久が何かを喋っていたとしても聞こえなかった。

 三年一組の担任、森下先生が教壇に立つなり「残念なお知らせがあります」と肩を落として私の方を見たので、思わず背筋を伸ばす。

「実は、今学期をもって石井さんが転校することになりました。イギリスの日本人学校に編入して、現地の大学に入れるように頑張るそうです」

 教室に、波紋一つない水面のような沈黙が広がった。その一瞬あと、わっとどよめきが上がる。

「え? 急すぎる」

「イギリス⁉」

「嘘でしょ」

「お父さまの転勤だそうだ。石井さんもつい先日に知らされたらしいので、突然の知らせなのは仕方ない。でも石井さんは前から大学で英語圏に留学したいと言ってたし、良いチャンスだと思って応援してあげてほしい」

 ホームルームが終わると、ほとんどのクラスメイトが私の机に来て、転校についてあれこれ訊いてくれた。特に人を惹きつける能力も外見も持っていない私がいなくなるのを惜しんでくれるのは本当にありがたい。いつだったか、杏里が「花はよく自分に自信なさそうに言うけど、私はちゃんと花が好きだよ」と言ってくれて、それに仲良しのみんなが手を挙げて同意してくれたことがあり、その日は嬉しくてベッドに入ってもひとりでに笑ってしまったものだった。

みんなに「寂しい」「行かないで」と言ってもらい、杏里に「急すぎるよ、ばかー」とぽかぽか叩かれると、いよいよこの高校を卒業できない実感が湧いてきて、「私も寂しい」と背を丸めてしまう。理久と侘一は、みんなの輪の外に立っていた。見たところ珍しく彼らは言葉を交わしておらず、ただ賑わいを眺めていた。

授業中も、ここでの思い出が次々と頭に浮かんできて、演習問題を半分も解ききれなかった。これでは英語「で」勉強する日々が思いやられると苦笑する。昼休みになり、仲良しの四人と机をくっつけて菓子パンを食べる。

「イギリスって、すごいけど、全然会えないじゃん」

 杏里をしおしおとした姿にさせてしまい、「ごめんね」としか言えない。昌美も沙也香も亜紀もしょんぼりしてしまっていて、私は元気になってもらいたいと意味もなく手をばたばたさせる。

「一時帰国のときは連絡するし、就職はたぶん日本でするから、ねっ。だからこれからもよろしくね」

 私の気持ちは四人にも伝わったらしく、「繋がりがなくなるわけじゃないしね」「イギリス遊びに行くからもてなしてよ」「フィッシュアンドチップスとスコーンで花が何キロ太るか賭けよう」と気を取り直してくれた。みんなに明るさが戻り、「じゃあこの話は終わりっ」と私が言ったのを受けて、「そうそう」と杏里が切り出した。

「私、遂に侘一くんに似顔絵描いてもらいました!」

「えーっ、いいな!」

 ノートの一ページに鉛筆で描かれたそれは、そこにもう一人杏里がいるのかと思うほど写実的で、みんなよりは侘一の絵を見慣れている私でも歓声を上げた。杏里は「こんなちゃんと描いてもらえるんだったら上等な紙を用意しておけば良かった」とにやついている。

「杏里、アタックしてたもんねえ」

「へへへ、実は最終的には花にもプッシュしてもらいましたー」

「最後の切り札を使ったのか。侘一くん、花には甘いもんね。ねえ、花、今度花が描いてもらった似顔絵も見せてよ」

 そう言われて、私は卵焼きを口に運ぼうとしていた手を止めた。

「そういえば私、描いてもらったことないや」

 四人がぽかんとしていっせいにこちらを見る。

「うそ、幼なじみなのに? 一回も? もったいない!」

「侘一の手は侘一が描きたいと思った誰かや何かを表現するためのものだから、私自身を含めて、何かを描いてほしいとお願いしたことはなかったな。『描こうか』とも言われなかったし」

「意外。引っ越す前に描いてもらったら?」

「そうだよ、良い記念になるし。私から言っておこうか」

 杏里が俄然乗り気になったので、私は卵焼きを飲み込んで「いいよいいよ」と首を横に振る。七年間も一緒にいた人に、今さら自分自身を描き起こしてもらうなんてなんだか気恥ずかしい。

 すると杏里は「じゃあ、そのかわりに」と、人差し指を立てて振るというもったいぶったポーズをする。

「理久くんに告白したらどう」

唐突な話題に私は「ええ⁉」と素っ頓狂に言い、その勢いで摘まんでいたミニトマトのへたから実が飛んで行った。昌美が見事にキャッチし、その流れに五人で大笑いする。なんてしていてもこの話題は流れてくれず、杏里が「重要な話だよ」と同じポーズを取った。

「結末を作らないと、二人とももやもやしたままで、この先新たな出会いがあっても踏み出せないじゃない? あっちはまだ花を好きなの丸わかりだし、花だって理久くんといると楽しそう。物理的には離れてても、仲良くしていける二人だと思う」

「うんうん。イギリスの生活が大変でも、恋人がいたら心強いんじゃない?」

 沙也香も言う。私はうーんと首を傾げる。

「楽しいし、心強いかもしれないけど、んん」

 みんなは度々私と理久の関係性の進捗を訊き、私を置いて「理久くん今日花の肩触ってたよね」「花が理久くんに向けてた笑顔、自分で気づいてないだろうけど超可愛かったよ」「こんなふうに公言するって、よっぽど好きなんだろうね」とこの話題に熱中している。六割は、男子との接点が少ない私がクラス全体に周知されている恋愛事に巻き込まれているというミスマッチさを面白がっており、四割は私の幸せを本気で考えてくれているといった具合だ。毎回進捗はゼロで、「早く新展開迎えんかい!」と突っ込まれ、みんなで笑うところまでがワンセット。そんな日々は、大切だと考えたこともないくらい当然の景色で、思い返せば当然、大切な景色だった。

「私は、みんながずっと友だちでいてくれたらそれだけで嬉しいし心強いな。大好きだから」

 気がつけばそう呟いていた。みんなは意表を突かれたような顔をしてから、破顔した。

「私たちも、同じ気持ちだよ」

 杏里が頭をがしがしと撫でてくれて、昌美と沙也香はにこにこと笑ってくれて、亜紀は目尻を拭ってくれた。卒業は出来ないけれど、国川高校に入学して良かった。

 四人がそれぞれ委員会や職員室に呼ばれたりお手洗いに行ったりしている間、私はおもむろに窓に手を掛けた。三年生の教室は一階で、窓の外には中庭が広がっており、生徒たちが芝生でお喋りをしたりお菓子を食べたりしている。その奥に、木陰にしゃがみ込んで熱心に木の根元を覗き込んでいる侘一がいた。視線を感じたのか、侘一は振り向いて私を見つけ、「花ーっ」と手を振ってくれる。

「何してるの?」

「お花、摘んでる。資料用」

 侘一が歩いてきて、私たちは窓枠を挟んで向かい合う。彼は手に持っていた茶色い紙袋を広げ、中を見せてくれた。白や黄色、薄いピンクの野花が数本入っている。

「名前わかるの、ハルジオンだけだ」

「はは。俺も」

「スケッチするの?」

「うん。軽く色も着けようかと」

「見たいなあ」

「待ってろ、なるべく早く描いて見せるから」

 良かった、朝は突然の知らせで気を落とさせてしまったようだったけれど、今はいつも通りだ。そう安心して、二人で笑い合っていたとき。

「花、侘一」

 私の背後から呼びかけてきた人に、侘一は「よう、理久」と返事をした。理久は侘一に手を振ったあと、窓際の隆行くんの席に勝手に座り、振り向いていた私を見た。

「昨日のメッセのこと、本当だったんだね」

 理久は切れ長の目を伏せた。私が「そうなの、ごめんね」とあたふたしているうちに、理久は「侘一はいつ知ったの?」と、普段通り穏やかな口調で訊いた。あれっ、昨日のメッセで侘一には今朝伝えると送ったけれど、忘れてるのかな。

「……俺は今朝聞いた」

 少し不服そうに侘一は言った。昨日メッセで理久に「八月どこかに遊びに行かないか」と言われたからその流れで八月はもう日本にいないのだと告げたのだけど、やっぱり昔から一緒に過ごしてきた侘一に先に言うべきだったのかもしれない。さらにあたふたしながら二人を見ていると、理久がふわっと笑んだ。

「そっか、俺の方が先に知ったんだ」

 その、幸福を含んだ目尻の下がり方を、私はかわいいと思ってしまった――その瞬間。

「お前、そんなことで優越感抱いてんの?」

 そんな思いを凍らせる言葉が侘一から吐き捨てられた。もし私に向けられていたら失神していたかもというほど鋭く冷たい目が、理久をとらえている。その場の空気は凍りながらも、足元には、喩えるなら百度以上の熱湯が沸々と湧いているような振動を感じた。これは、侘一の怒りだ。彼が怒った姿は何度か見たことがあるけれど、それは燃え上がった炎にきちんと水を掛ければ、つまり言葉をかける余地が見え、話せば落ち着いてくれるようなものだった。今みたいに、どう声をかければいいのか全くわからないものではない。凍り付く冷たさを心臓に、煮えたぎる熱を脚に一度に浴びせられ、体が固まる。見えないけれど、理久は黙って侘一を見つめているようだった。

「侘一、理久……?」

 この時間が永遠に続くような感覚に耐え切れなくて、恐々と絞り出す。まさか二人に対してこんなふうに話しかけることがあるなんて。

 すると理久が冗談っぽく「侘一、花にすぐ教えてもらえなくて寂しかったんだろ」と言った。侘一も「バレた?」とふざけて唇を尖らせてみせ、張り詰めた空気は糸を切ったように消えた。

「やべ、チャイム鳴った」

 侘一はドアまで行かず、窓から教室に入ってこようとする。理久がふざけてバスケのディフェンスのような姿勢を取り邪魔をすると、窓のサッシに乗っかった侘一は「とりゃ」と理久の方に右足を突き出した。理久は「本気の蹴りじゃん」とその足を両手で受け止め、侘一が「うわ落ちる!」と暴れつつけらけらと笑った。良かった、やっぱりいつも通りだ。

 五限目は履修していない数学Ⅲの演習だったので、私は自習をするために図書室に向かう。しかし席に着くやいなや教室にペンケースを忘れたのに気づき、すごすごと来た道を戻る。まったく、私はちょっとのところで抜けている。イギリスでの生活は慣れないことが多いんだから、きちんとしなきゃ。

 この時間は使われていない一組の教室のドアは開けっ放しにされていたので、教室に入る前から、隅に立つ理久の後ろ姿が見えた。電気は点いておらず、午後の陽射しが彼の長身を照らしている。理久は何かをゴミ箱に捨てたあとに振り向き、私に気付いたらしく、特別どの感情も浮かんでいなかった顔が輝いた。

「花!」

 そんなふうに喜んでくれるのを見て私も嬉しくなってしまうのは、理久が好きだからなのか、分かりきらない。でも嬉しい。

「どうしたの?」

「ペンケース、忘れちゃって」

「うっかりさんだね」

「そうだよね。あっちでぼーっとして、物を盗まれたり誘拐されたりしないようにしなきゃ」

 自戒として言うと、理久はぽん、と私の肩に手を置く。

「そんなことがあったら俺が助けに行くから」

 焦げ茶がかった黒目に差し込む陽光がはっきりと見えるくらい、彼は私を見据えて言った。爪先から頭まで、じわじわと体温が上昇していく。体が熱い! 

「あ、りが、と」

 鼓動が速くなっている。理久といると時折こうやって、温度と速度に翻弄されるときがある――鼓膜がびりっと痛んだ。その痛みを追って、文字で表すなら「がっしゃああああん」になるだろう音が教室に響いて私は飛び上がった。外、つまり中庭から窓が割られたのだとわかったのは、理久の向こう側に粉々になったガラス片が広がり、大きな石が床に転がっているのを見たときだった。事態の把握と同時に肩に置かれていた理久の手に力が入り、あ、と思ったときにはもう、私は理久の体温の中にいた。背の後ろに回された腕が、私を強く抱き寄せる。

「花、大丈夫⁉」

「だ……大丈夫。理久こそ、ガラス当たってない?」

「俺は大丈夫。でも立つ位置がちょっと違ったらと思うとゾッとするね」

 そう言って彼は私から離れる。鼓動の速さの原因が、幸せなのか驚きなのかがわからなくなってしまった。

「外の様子見てくる。花は動かないで、危ないから」

 理久は窓側のドアから中庭に出ていった。私が放心状態で鼓動を鎮めているうちに彼は戻ってきて、「西棟の階段に女子のグループがいたけど、誰も見てないって」とため息をついた。

「行ってくれてありがとう」

「いいんだ。花に何もなくて良かった」

 顔が火照るような台詞をさらりと言うのだ、この人は。

「じっ、じゃあこれ、片付けよっか」

 おそらく赤くなっている顔を見られないためにも、私は理久の脇をすり抜けて掃除用具入れに向かおうとした――けれど出来なかった。右手を掴まれ引かれて立ち止まざるを得ず、その間に大きく踏み込んで私の前に回り込んできた理久が真正面にこちらを見た。表情にはさっきまでの柔和さとは程遠い凄みが込められており、立つ位置のせいか、陽が入っていない目は彼の髪と同じく真っ黒だった。

「ダメだ! 怪我したらどうする! ここでじっとしててっ」

 怒気をはらんだ太い声が、ガラスが割られた音と同じくらい耳に響く。あまりの迫力に、私はただ頷くことしか出来ない。理久は我に返ったのか幾度かまばたきをしてから、視線を落とした。

「傷ついてほしくないんだ……イギリスに行く前に何かあったら困るでしょ」

 ぼんやりと落ちた視線は、床ではなくもっと遠くに向けられているように見えた。割れたガラスで思い出す何かがあるのだろうかと思ったけれど、私が立ち入ることではないから、「ありがとう」とだけ言う。理久は「ごめんね」と、私の手を定位置に戻してから離した。ガラスの破片だらけの教室に、私たちは二人きりで立っていた。


 帰りのホームルーム後、私と同じくもう部活を引退した沙也香の「駅前にアイスを食べに行こう」という誘いを、今日中にイギリスに送らなければいけない荷物があるからと泣く泣く断った。沙也香は「明日は杏里たちも空いてるし、遊ぼうね!」と念を押してくれて、少しでも多く思い出を共有したいという気持ちが伝わってきて嬉しくなる。残された時間は有限だ。どうせなら悲しみと寂しさに後ろ髪を引かれながら別れるより、最後まで笑っていたい。一緒にいられる最後まで。

常緑樹が並ぶ間をくぐるようにして校門を出る。たまに車が通る道を歩いたあと住宅街を歩き、大通りに出て商店街を抜け、また住宅街を行く徒歩二十分の道が私の通学路。普段は運動のために歩いて、荷物が多い日は自転車を使う。そんな日々も、もうすぐ過去になる。

「はーなっ」

 学校を出てすぐ、後ろから侘一の声が飛んできた。歩道を追いかけてくるのを待つ。侘一の家は私の家からさらに十五分くらい歩いたところにあり、徒歩かバスで通学している。音楽を聴くのが好きだからと、本来は楽なはずの自転車通学はしていない。

「一緒に帰ろ」

「うん!」

「あ、それ、まだ付けてくれてるんだ」

 彼は私のバッグにぶら下がるキーホルダーを指差す。

「可愛いもん。ずっと付けるよ」

 それは本物のハムスターそっくりのキーホルダー。小さな動物が大好きな私にと、侘一はが昨年の誕生日プレゼントにこの子とお菓子をくれたのだった。しかもこれは彼の手作り。サイズや毛並み、体のパーツの細部まで忠実に再現されていて、手の内に収まるこの子を見つめ「侘一はすごいねえ、すごいねえ」と感嘆しか出なかったものだ。

「ありがと。今日はどっか寄るのか?」

「ううん、イギリスに荷物を送らなきゃいけないんだ。なんだか疲れちゃったし、本当はごろごろしてたいけどね」

「おばさんに怒られちゃうぞー」

「へへ、今、家に誰もいないから怒られないの」

「えっ」

 侘一は飛び退くようにして僅かに私から離れ、そのままこちらを探るように見た。

「誰もいないの?」

「うん。実はお母さんもお父さんもイギリスの新居に行ってて。数日後に帰国して、またすぐ行くの」

 侘一はまだ同じ体勢でいる。それを不思議に思いかけたとき、彼は無邪気な少年のように言う。

「じゃあ、今日の夕飯、俺んちで食べたら?」

「えっ! いいよ、急に悪いよ」

「大丈夫だって。そういや、うちの母さんはイギリス行き知ってるのか?」

「うん、お母さんが話してるはず。侘一には私が直接言うからって口止めしてもらってたの」

「じゃあ晴れて俺も知ったことだし、イギリス行きの話、母さんたちも入れて聞かせてよ。最近花ちゃんと会ってないわーって寂しがってたし」

 どうしよう。急に行っておじゃまじゃないかな。

夏の訪れを、濃い緑と深い青のコントラストが告げている。今日は日本の夏にしては珍しく湿り気のない、からっとした風が吹いており、私の答えを催促するように木々の葉がざわざわと音をたてた。田波家には挨拶に行く予定だけど、時間の都合はこれから合わせるつもりだったので、今日お言葉に甘えるのが良いかもしれない。

「……うんっ、おじゃまします」

 そう言うと、侘一は「よっしゃ!」とガッツポーズをしてくれた。色こそ変わったものの、彼の髪は昔と同じように靡いている。この七年間、春も夏も秋も冬も、彼の髪が風に靡くのを見ない季節はなかった。

「じゃあ荷物を送ったら、行かせてもらうね」

「待ってるよ」

 そのとき、バッグの外ポケットに入れていたスマホが振動した。

「ちょっとごめんね」

お母さんからの用事かもと思い、スマホの画面をタップする。しかし受信していたのはアプリのメッセージではなくメールで、送信元は「kunikawa@hotmail.com」、国川高校のアドレスだった。森下先生だろうかと開封したメール文面を見たとき、頭の隅が焼け焦げるような感覚がし、思わず左手で髪を掴んだ。手から髪を払うのと同時に今見たものの記憶もどこかに行ってほしかったのに、脳に焼き付いてしまった。

「ん? どした?」

 立ち止まってしまった私に合わせて侘一も歩を止める。スマホから顔を背け、眉をひそめている私を見て、彼がただならぬ事態だと察した空気を感じる。隣に並んでくれて、「見ていい?」と優しい手つきで私の右手からスマホを抜き取った。侘一に心配をかけるのは申し訳ない一方で、この戸惑いを誰かと共有したい焦りもあった私は、それに抗わなかった。

〈隣にt立つなhh花の消えろj潔癖すぎてよごれた目だdいかれている〉

 メールの文面は、こんなおかしな内容だった。

「何だ、これ」

「ね……」

 全く覚えのない内容に、それしか言えない。

「これ、学校のアドレスか」

 さっきまで爽やかに感じていた葉と葉が触れあう音が、不穏なものに聞こえ始める。頭の隅のじりじりとした感覚は未だ消えない。私って、正体不明の事態が降りかかってくると、こんな反応をするんだ。いかに平和に生きてきたかを知る。

 閑静な住宅街で、呆然とする。今日は非日常に次ぐ非日常が降りかかってくる日だ。だけど、残り僅かな時間をこんなおかしな事態に侵食されるわけにはいかない。だから私は「まったく、こんないたずらするなんて誰だろうね!」と軽い調子を作って言った。けれど侘一は嫌悪を滲ませて文面を眺め、淡々と言う。

「花はタチの悪いいたずらをされる人間じゃないだろ。しかももうすぐ転校するって時期に。花って書かれてるから間違いメールでもないし……くそっ」

 私一人だったら、無理やりにでもいたずらとして処理していたかもしれない。でも侘一の落ち着きに、このメールには本気の「消えろ」「いかれている」という情念が込められていると知らされる――しかしよく見ると、この怒りや憎悪が向かう先は私ではなかった。侘一もそれに気が付いたらしい。

「『隣に立つな』『花の』ってことは、俺に宛てたメールじゃねえか」

 侘一が引き攣りつつもどこか挑戦的に口角を上げた。

「俺が花の隣に立ってるのを知ってる。俺をいかれ野郎扱いするこのいかれた野郎は、俺たちを見てたか、今も見てるんだな」

 今も見ている――未知の気味悪さにゾッとした。

「侘一のファンが私に怒るならまだしも」

「そんな人いないさ」

 侘一がスマホを返してくれる。それを受け取ろうとする自分の手が微かに震えているのが視界に入った。侘一が一瞬、その震えに目を留めたようだったけど、こういうときに冷静になれる侘一は「大丈夫」「元気を出して」といった励ましが役に立たないと判断したのか、スマホを右手に滑り込ませるだけで前に向き直った。

「侘一のファン、たくさんいるよ。あ、愛は憎しみに変わりやすいって言うし、侘一を本当に好きな人が」

「花には見られる素質が十分にあんだよ。隣の俺を憎むくらいのな」

 侘一の言い切りが、迷走しそうだった私の考えを断つ。

「えっ。そんなのないよ」

「花を大切に思ってるやつはたくさんいるんだ」

 厳しい言い方から、恐れ多くも侘一が私をそう思ってくれているのが伝わってくる。

「ありがとう……侘一が友だちでいてくれて良かった。ずっとそう思ってる」

 胸に広がっていく温かさに押されて、ひとりでに言葉が出る。侘一は「改めて言われると照れる」と口をむにゃむにゃ動かしてから、「俺も思ってる」と笑ってくれた。

「さ、早く家に行って、こんなことは忘れよう。普通は対処した方がいいけど、花はもうすぐここを離れるんだ。どうしたってそいつももうじき花を見られなくなる。こんなんに構ってる時間がもったいないよ。ゆっくり紅茶でも飲もう」

 侘一は私の背を押すような仕草をしてくれた。そうだ、嬉しくも虚しくも、私はこの送信者と関わることなくここを発つだろう。今日は「変なメールが来た日もあった」と思い出すだけの日になるのだ。

 私は「そうだねっ」と頷いて、田波家のおばちゃんとおじちゃんに別れを悲しんでもらったら泣いちゃいそうだなんて考えながら、侘一の隣を歩いた。頭の不快感は、いつの間にか消えていた。


「おじゃまします」

お母さんから頼まれていた荷物の発送を終えたあと、パッキングしていない私服があまりにも気の緩んだものばかりで人の家に行く服装ではないのに気づいた私は、制服のまま田波家におじゃました。クリーム色を基調とした壁の、立派な一戸建て。小学校の間は一人で遊びに来て、中学校からはお母さん同士がお茶をするときに付いていって。一生に影響するだろう、「男の子は怖い生き物ではない」という価値観を構築させてもらった場所だ。

「はーい、いらっしゃい」

Tシャツに深緑のスウェットといったラフな格好の侘一が迎えてくれる。シャツには裸の女性の額に、茶色い翼の生えた、性別の分からない人が口づけをしている西洋画がプリントされている。裸が描かれているシャツを上品に着こなせる侘一のポテンシャルと佇まいはさすがのものだ。

「母さんたちは仕事だけど、夕飯までには帰ってくるはずだよ。いつものとこ座ってて」

 私は手を洗うと、ダイニングを抜けて、さっそくリビングのソファに腰掛けた。我ながら図々しい態度だけど、昔、おばさんが「花ちゃんの指定席はここ!」と言ってくれたのをちゃっかり覚えているのだ。

「やっぱりここ、落ち着くなあ」

あの天井のダウンライト、初めて見たときは「うちの照明と全然違う! どうやって付け替えるの?」と驚いた。田波家はインテリアもうちより凝っていて、棚や小物は初訪問の日から幾度か新調されており、マットなカラーがベースのものが多く、侘一が選んだものもある。

頭の不快感はなくなったものの、例のメールの文面はまだ頭に残っていた。だから田波家の居心地の良さに全身を預け、その文面をじわじわと溶かして消していくイメージをしているうちに、キッチンから、グラスに氷が入るカランカランという小気味よい音が聞こえてきた。飲み物が注がれたときに氷が立てる、ちりちりっという音も聞こえ、侘一がお茶の準備をしてくれているのに気が付く。

「わっ、やらせてごめん!」

背もたれから飛び上がると、既に侘一はお盆を持ってきてくれていた。

「いいから座ってて」

 ソファとテレビの間に置かれたローテーブルに、アイスティーが入ったグラスとミルク、シュガーポットが置かれる。侘一は「葉っぱで出すとか洒落たこと出来なくて、ティーバッグのだけど。っていつものことか」と笑って私の横に座った。田波家は、家はお洒落だけど食事や日用品に対する金銭感覚が石井家と似ているので、無理せず付き合ってこられた。

「おばちゃんたち、何でイギリス行ってんの?」

「お父さんは会社の都合で。お母さんは家とか私の学校とか色々手続きがあるからついていったの」

「花はあっちに行ったら、まず日本人学校に行くんだっけ」

 アイスティーに砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜる。牛乳をたっぷり注いでからグラスに口を付けると、小さくなった氷が最初に入ってきた。

「うん。一年間は日本人学校に通って英語と現地の大学受験のための勉強をして、上手くいけば来年の九月から大学生。就職はみんなより一年遅れると思う」

「なるほど。俺がいる会社に来ても後輩になるってことか。花が後輩、ふふ」

「ちょっと面白いね。でもそれはないよね、侘一は美術の分野に進むでしょ?」

私はグラスをテーブルに置いて何気なく言う。静寂が過ったので侘一の方を見やると、彼は下を向いていた。

「迷ってるんだ」

「えっ! ずっと前から、美大に行って、そのあとは絵を描いて生活したいって言ってたじゃない。才能あるのに」

 侘一は全身の力を抜いてずるずるとソファに埋もれ、大きく息をついた。

「俺ぐらいの才能なんて、世の中にごまんと溢れてるんだよ」

「……私は美術に詳しくないから、軽くは言えないけど、今はまだ周りと比べるより侘一自身がどうしたいかが大事なんじゃないかな」

「そうかな」

 侘一は力なく笑って、ほとんど腰掛け部分まで下がっていた頭を起こして態勢を戻した。侘一のくせなのか、小さい頃に同じ動作をよく見た。今、起こされた体はその頃より随分大きくなっている。

「珍しいね、侘一がそうやって迷うの。それでも入学式の次の日から髪を刈り上げて、体育館の割れてた窓ガラスを『作品に使うので下さい』って宣言した人ですか……」

 自分で言ってハッとした。侘一も「窓ガラス」というキーワードで、今日あった事件を思い出したらしい。五限目が終わって教室に戻ってきた生徒たちは、窓が割られているのを見てざわついた。粉々に割れたガラスに群がるみんなの後ろで、理久と私はちらりと目を合わせたのだった。

「んー、今日のあれ何だったんだろうね。割られたとき、教室には誰にもいなかったんだろ? 早くから受験勉強に根詰めてるやつの八つ当たりかな」

「……そうかもね」

 そう、理久と私は、あのとき教室にいなかったことになっている。理久が「犯人を目撃した可能性を残すと逆恨みに繋がって厄介だ。その場にいなかったと言えば、たとえ犯人が俺たちの存在に気付いていたとしても、『庇ってくれたのかも』と思ってこれ以上面倒は寄越さないだろう」と提案してきたのだ。

 ブブーッ。

 テーブルにある私のスマホのバイブレーション音。普段なら何でもない事象だけど、今は嫌でもぎょっとする。

 メルマガか何かのはずだと言い聞かせて画面をタップしたけれど、嫌な予感は当たってしまう。それはやはり学校のメールアドレスからだった。大きな羽虫が私の背に貼りついているような感覚に襲われる。そしてそいつが、私の大切な幼なじみに、尖った足を振り下ろそうとしているような気がした。来ないで、やめて。

これが恐怖なんだ。ホラー映画を観ながらブランケットを握るときに抱く「怖い」が、いかにかわいいものだったか。

侘一は情けないものだろう私の顔とスマホを交互に見て、「学校からだった? 俺が見ようか」と真摯に言ってくれた。文面を見る前からせりあがってきている恐怖を一人で抱えきれず、「お願いしてもいい?」とスマホを差し出す。侘一は厳しい目つきでスマホを操作し、私は成すすべなく彼の次の言葉を、唇を噛んで待つ。

「怖がらなくて大丈夫だよ、花。こいつはやっぱり俺の方に執着してる。ばかばかしい。見られるか?」

 頷くと、侘一は画面をこちらに向けた。

〈お前、まだ花の隣にいるのか? 隣にいればいるほど、本当にいかれてしまうんじゃないか?〉

 誰なんだろう、こんなメールを送ってくる人は。逆ならわかるのに、どうして侘一が責められなきゃいけないんだ。

 侘一は呆れ気味に「さっきのよりは落ち着いてる。気持ち悪いだろうけど、いざというとき証拠になるから削除しない方がいいよ」と言って足を組んだ。

「うん……」

「こうやってさ、花自身はわかってなくても、花を大切に思ってるやつがいるんだよ。この場合『大切』を通り越してるけど。寄ってくる男には気をつけるんだぞ」

その口調には棘があった。私に寄ってくる男子なんて一人しかいないので、理久を名指ししていると察してしまう。脳裏に浮かぶのは、今日の昼休み、理久を見ていた侘一の目。凍った空気を思い出すと、肌がぴりりとする。あの場は、収束は軽快だったものの、それまでが深く鋭く、私の知らないところで揉め事でもあったのかと思うほどの迫力があった。それにしてはすぐに普段通りになったし、実際には揉めてはいないはず。

昨日までは、私がイギリスに行っても三人で連絡を取り合って一時帰国したら集まってと、そんなふうに友情が続いていくものだと思い込んでいた。でも今、少しの不安が生まれている。私がいなくなっても、二人は仲の良い友だちでい続けてくれるだろうか。私たち三人、いつかバラバラになってしまうんじゃないか。

このままではいけない。

私は意を決して立ち上がり、藍色のソファに座る侘一を見た。侘一は私より二十センチほど背が高いので、私が彼を見下ろす機会はなかなかない。

「花?」

 侘一は不思議そうにする。立ち上がったはいいものの、これを私が言うことで二人の仲をぎくしゃくさせるのは避けたいと今さらながら思い言い淀む。でも侘一の優しい「どした?」に後押しされ、ずっと二人と友だちでいたいからと口を開いた。

「理久と何かあった?」

 侘一の目が穏やかに垂れる。

「何もないよー」

昼の鋭さとも、今しがたの刺々しさともかけ離れた言い方だった。それでいて、本心から言っているのだと私にはわかる。

「嫌いとかもない?」

「ないってば、好きだよ。俺らの繋がりは花もよくわかってるだろ?」

 侘一にとっては理久が、理久にとっては侘一が、高校生活で最も親しい友だちだと見ていて知っている。それに間違いはないのだと確認できて安心し、私はほっとしてソファに座り直した。良かった……。

「ごめんね、変なこと訊いて。そういえばおばちゃんたち、何時に帰ってくるんだろう?」

「七時くらいかな。夕飯は何がいい? 母さんにリクエストしようか」

「何でもいい! おばちゃんの料理、全部好き」

「おっけー」

 タイミングを図ったように、テーブルの上の侘一のスマホが鳴った。

「電話だ。『母さん』だって」

侘一は鳴り続けるスマホにゆったりと手を伸ばして、「もしもし」と耳に当てた。

「はいはい、了解。いつ帰れそうなの? あー、言ってたっけ。てか花のこと、うん、今日聞いた。知ってたんだろ? 花にも挨拶しなきゃいけないから早く帰って来て。そうか、ごめんごめん。遅くなるなら帰り道気を付けて。はは。会いたがってるって言っとく。じゃあ」

 スマホを置き直したあと、侘一は「よし、今日は俺が特製パスタ作ります!」と手を鳴らした。

「おばちゃんたちは?」

「二人とも残業で遅くなりそうだって。なあ、花、どうせ一人なら泊まっていったら? 久々に夜更かしゲーム大会でもやろうぜ」

「えっ! それこそ急だし、悪いよ」

「今さら悪いとかないだろ、小学生の頃は泊まってたじゃん。それともなに、男と二人きりになるなんて危ないって?」

 侘一は悪戯っぽく笑ってから、自分で言って恥ずかしくなったのか「なんてね」と手をひらひらと振ってキッチンに行き、私に背を向けて冷蔵庫を覗き込んだ。私はいつも通り、侘一の前では正直な気持ちを口に出す。

「侘一だもん、そんなふうには思わないよ。おばちゃんたちもいるしね。でも急だし」

「最後くらいさ」

 私の言葉に被せて、侘一が言う。

「ちょっとだけ、他のみんなより長く一緒にいさせてよ」

 今までの元気が消えて、寂しさ一色の言い方だった。私は申し訳なくなってソファからキッチンに向かって身を乗りだす。

「ごめんね。すぐ帰ってくるよ」

「短くて四年だろ。大きいよ」

「あっという間かもしれないよ。メッセのやり取りも出来るし」

「花が思ってるより、花がいなくなるのは大きいことなんだ」

 冷蔵庫をパタンと閉じ、振り向いた侘一の大きな瞳が、数メートルの距離を感じさせないくらい私を真っ直ぐに捉えた。そこには静かに人を引き込む力が込められている。侘一が自らの本気を伝えるときの目だ。その本気に応えられないのが――応えないのを選択したのが自分であることがやはり申し訳なくて私は俯く。

「そう言ってくれるのは、ありがたいよ……ごめんね」

「……で」

 侘一が何か言った気がして顔を上げた。でも彼にそんな素振りはなく、気合いを入れるためかまた両手を鳴らした。

「ツナ缶とトマトがあるから、トンノパスタにしよう」

「私も手伝うよ。サラダかおかず、作ろうか」

「いいのいいの、まだ作り始めるには早いし、花はお泊まりグッズ持ってこいよ。てかあっつい、さすがにクーラーつけるか」

「リビングのドア閉めるね」

 心身に馴染んだこんなやり取りが、あと一週間後には普通じゃなくなる。違う国の地を踏み、ずっと見てきた幼なじみのものとは違う目の色を見る日々が始まり、それが普通になる。今までの普通が新しい普通に塗り替わるときは、瞬間的に訪れるのだろうか。それとも変わっていく過程を感じるものなのだろうか。正常が異常になるわけじゃないから、怖がる必要はない――でも。

「侘一と離れるの、寂しいなあ」

 リビングのドアノブを握りながら、そう、ぽろりと出た。侘一の視線を感じるけど、「俺もだよ」と言わせるためにわざと大きなひとり言を漏らしたようになったことが恥ずかしくてそちらを見ないようにし、「それじゃ一度家に戻るねー」とリビングの隅に置いたバッグをそそくさと取りに行く。クーラーの風が、汗をかいた頭皮に滑り込んでくる。

 リビングを出る際、さすがに侘一に視線をやると、彼はずっと向こうを見るみたいにぼんやりしていた。私と目が合うと焦点が合ったらしく、困ったように微笑した。

「俺もだよ、花」

 やっぱり侘一はそう言ってくれる。私は寂しさとありがたさから湧き出るなけなしの笑みを彼に向けた。


 それから私は家に戻ってシャワーを浴びてから、制服に着替え直しつつ部屋着と明日の演習科目の教科書とノートをバッグに詰め込んで田波家に戻った。着いた頃には十八時を過ぎていて、私が手を洗っている間に侘一はパスタを器用に盛り付けてくれていた。「美味いかはわかんない」と言っていたけれど、缶詰ではなく生のトマトから作ったソースの酸味と塩味に、目分量で垂らしたらしい生クリームのまろやかさが絶妙にマッチしていて、私はもりもり食べてしまった。片付けをしたあとは、私はソファに座らせてもらい、侘一は床に座ってソファにもたれ、ここぞとばかりに男子と女子の間で飛び交っている噂について情報交換をして盛り上がった。もちろん女子同士の秘密、例えば杏里が侘一のファンでいながら別の男子に片思いしていることは言わなかったけれど、それに関しては侘一の方から「杏里ちゃんって聡史のこと好きだよね? 気づいてるのは俺と理久くらいだよ」と言ってきたので驚いた。この平和で楽しい空間を一片たりとも曇らせたくなくて、メールや窓ガラスといった単語は一切出さなかった。

久しぶりにするテレビゲームも楽しかった。カーレースのゲームは私が惨敗、すごろくゲームは侘一が惨敗するのも、昔と変わらない。すごろくゲームは侘一がリベンジを粘るので四回目のターンに入り、ゴール直前で侘一が「月旅行に行くため一千万円を払って修行。一回休み」を出したのに大笑いしながら、ふと視界に入った時計が指す時刻を見てひっくり返った。

「もう0時⁉ おばちゃんたち、残業しすぎじゃない⁉」

「忙しい時期らしい。明日も学校だし、先に寝てようか。俺のベッド、シーツとか全部洗ったところだけどどうする? ソファの方が落ち着くか」

 いくらなんでも侘一のベッドを借りる図々しさはないし、昔と同じくソファを借りることにする。おばちゃんたちには侘一からメッセを送ってくれるとのことだった。コンタクトレンズを外し顔を洗っているうちに、侘一がソファをベッド仕様に組み立ててくれていた。こういうさり気ない優しさに気付かず当然のごとく享受した日もあったんだろう。最後の日は、心から何度もお礼を言わなきゃ。

寝転ぶと、じんわりと体がソファに沈んでいく。今日は緊張したり悲しんだり怖かったり楽しかったりと感情の変化が目まぐるしかったので、いつの間にか疲れていたんだろう。

「目覚まし時計、いる?」

 こちらを見下ろす侘一の茶髪は、ダウンライトの黄色がかった光に透けて、ますますオレンジ色に見えた。

「大丈夫。スマホのアラームしてるから」

侘一、お母さんみたい。ずっと気にかけてくれて、優しくて、一緒にいて安心する。そんな子どもみたいなこと、さすがに口には出さないけれど。

「リビングの電気、消すね。母さんたちには電気点けるにしてもダイニングの方だけにしてって言っておく。じゃあ、おやすみ」

 すぐ傍にいるのに、懐かしさが込み上げてくる声色の「おやすみ」だった。侘一がソファから離れていったとき、彼の笑顔も、理久や杏里の笑顔もみんなみんな私から遠ざかっていくイメージが浮かんで、鼻の奥がツンと痛んだ。

「うん、おやすみ」

 行かないで――行ってしまうのは私なのに、そう思った。

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<第一章試し読み>壊れないから傍にいて 青葉える @matanelemon

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