(5)
あの時、気まぐれを起こさなければよかった。
そうしたら――。
「――さん、朱晩霞さん? どうかしましたか」
「!」
周館長に名を呼ばれていることに気づき、はっと我に返る。
瞬きすれば、チャンネルが切り替わるように、明るく白いロビーの光景が目に飛び込んできた。
眩しくて、目が眩む。
今が現実なのか夢の中なのか、分からなくなる。
強い眩暈によろける晩霞の肩を、誰かが支えた。大きな手が、腕が、晩霞の肩に回る。
「……大丈夫ですか?」
低い声と共に、爽やかで、それでいて甘くスパイシーな香りが鼻を掠めた。
白檀に茉莉花、丁子……かつて、晩霞が呪妃だった頃に自分好みの香りを作っていたが、それによく似ていた。奇妙な懐かしさに安堵を覚えたのも束の間、目の前に小華の顔があって、息が止まる。
「っ……」
どうして、小華が――。
青ざめる晩霞を支え、青年は気遣わしげに近くのソファに座らせた。
そうして晩霞の前に屈みこみ、床に膝を付いて顔を覗き込んでくる。流れるような
視線の先にある青年の髪が、項辺りで短く切られているのに気づく。
……そうだ。ここは現代で、長髪が当たり前だった千年以上前ではない。
ふいに、夢から覚めた心地になった。頭の中をかき乱していた混乱の渦が、すっと鎮まっていく。
よく見れば、青年は確かに小華によく似ていたが、自分の記憶の中よりもずいぶんと大人びていた。
あの頃の彼は呪妃よりも年下だったが、目の前の青年は二十代半ばくらいで晩霞よりも年上だ。引き締まった精悍な頬に漂う余裕や、落ち着いた佇まいに滲む色気は、小華には無かったものだ。
そっくりでも、彼は小華ではない。現代に生きる別人だ。
そして自分もまた、『呪妃』ではない。現代を生きている『朱晩霞』だ。
そもそも、千年以上経った現代に彼がいるはずがないのに、何を焦っていたのだろう。
落ち着いてくると、あれほど動揺した自分が恥ずかしく思えてきた。ただの妄想かもしれない過去の夢を、現実と混同するなんて。
「少し眩暈がしただけです。すみません、もう大丈夫です」
青年にそう告げると、蜜色の目が揺れる。傍らに周館長も寄ってきて、青年と同じように心配してくるので、もう一度「大丈夫です」と告げた。
「その、博物館に行くと偶にこうなるんです。展示品を集中して見過ぎて、頭痛や眩暈がすることがあって……」
そう言い訳すれば、周館長はうんうんと頷いた。
「ああ、確かに。照明が暗い中、展示品の説明文を読むと目にきますからね」
「この奇貨館の展示品が立派なものばかりで、楽しくて興奮しすぎたんだと思います」
「おや、その言葉はここで働く者としては冥利に尽きます。そうですね、オーナー」
周館長は青年に声を掛ける。
青年はようやく床から立ち上がって、小さく頷いた。『オーナー』と呼ばれたが、一体何者なのか。
その答えは、晩霞が尋ねる前に返ってきた。
「申し遅れました。僕は
微笑む青年に、今度は別の意味で晩霞は息を呑む。
身に纏う高級そうなスーツや、気品ある立ち居振る舞い。館長からオーナーと呼ばれ、四海グループの秘蔵品を有する私設博物館を任されている者。そして、『楚』の姓はグループの会長一族のもの。
新入社員の晩霞にとって、上司の上司のさらに上、まさに雲の上のような存在だった。
「っ、は、はじめまして、私は――」
慌てて立ち上がろうとしたが、青年――天華は晩霞の肩を軽く押さえて制する。
「無理をなさらず。まだ顔色が良くない。……貴女のことはよく知っています」
「え……」
「朱晩霞さんですね。人事から送られてきた書類を拝見しました。貴女にお会いできるのを楽しみにしていたんです」
美貌の青年に「会えるのを楽しみにしていた」なんて言われれば、普通なら赤面悶絶ものだっただろう。だが、晩霞にとっては見慣れた風貌であり、どこか居心地が悪く、どうにも収まりが悪い感じがした。
「それは、その……恐縮です」
そう返すことしかできない晩霞に、天華はただ微笑みを深めただけだった。
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