第一話 呪妃転生(1)


 窓の一つも無い、暗く苔むした石壁に囲まれた地下の牢獄。

 痩せた身体に粗末な麻の下衣一枚だけを纏い、腰を下ろすのは硬く冷たい石の寝台。細い両手と両足には大きな鉄の枷が嵌められ、鎖の先は壁に打ち付けられている。美しかった長い髪はざんばらに乱れて艶も無く、最高級の紅を刷いていた唇はひび割れて色を無くしていた。

 そんな状況でも、彼女の居丈高な態度は崩れない。


「無礼者。私に触れるでない」


 よく切れる小刀のような声と目線に、目の前に立った青年は彼女に伸ばしかけていた手を止めた。

 青年は、とても美しい容貌をしていた。遠い西国の血を引いているのか、輝く象牙色のような白い肌に濃厚な蜜色の大きな瞳を持ち、緩く波打った黒髪を編み込んで一つに結い上げている。真っすぐな眉は凛々しく、しっかりした首筋と肩幅が傾国の美女を美男に変えていた。

 身に付けるのは装飾の少ない、一見すると地味な服だ。だが、上質の生地と品の良い仕立てが、彼を身分のある者であると知らしめる。それもそのはずで、青年は由緒正しい王族の血を引く者であった。

 青年は駄々をこねる子供を見るように柔らかな苦笑を浮かべる。よく見慣れた青年の顔を、彼女は暗い目で睨み上げた。


「貴様、よくも顔を出せたものだな」

「呪妃さま……いえ、もう妃ではありませんね。どうお呼びすればよいでしょうか、我が君」


 青年はこちらの言葉を聞き流し、穏やかに尋ねてくる。

 その様子は、彼女の下で従順に仕えていた頃とまったく相違ない。この地下牢へと追いやった張本人のくせに、まるで何事も無かったかのように振舞う彼に、彼女は奥歯を食いしばった。


「……裏切り者め。決してお前を許さぬぞ」

「では、この下僕を呪いますか?」


 青年の言葉に、彼女は乾いた笑いを零す。

 どうやら、この青年はよほど彼女を怒らせたいようだ。いや、貶めて嘲笑いたいのか。それにしては気遣わしげな目線を向けてくる。

 ……ああ、憐れんでいるのか。お優しいことだ。さすが博愛の太子。

 まだ自分にも怒りや悔しさの感情が残っていたようだ。腹の底をふつふつと煮えたぎらせながら返す。


「いいか、我が四凶蠱しきょうこは、貴様らが扱えるものではない。見ていろ、今に後悔して……っ」


 久しぶりに長く話したせいか、乾いた喉を通った声は掠れて、最後にはみっともなく咳き込んでしまった。

 背を丸めて咳き込む彼女に、青年がわずかに顔色を変えて手を伸ばす。


「っ……触るな!」


 触れようとする手を叩き落とすため、力を振り絞って己の手を振り上げ――。



  ***


 

「――いっ!?」


 思いきり振った手は鎖に拒まれることなく、ベッド横の壁を打つ。指の関節をしたたかに壁で打った痛みで、朱晩霞しゅ・ばんかは跳ね起きた。

 滲んだ涙のせいか寝起きのせいか。ぼやけていた視界がやがて鮮明になってくれば、自分が明るい室内にいることが分かる。

 広い部屋は、若草色のカーテンから透けた陽光で白く柔らかく照らされている。クリーム色の天井には、シャンデリア風の洒落たLEDシーリングライト。壁際にはまだ新しい本棚があり、学生時代から愛用している歴史書や博物誌が並んでいる。中央には、就職祝いに兄達が買ってくれた、木製のローテーブルと革張りのソファ。半端に開封されて積み重なった段ボール箱。

 ここは一か月前に引っ越してきたばかりの、自分の部屋だ。暗くかび臭い、不潔で冷たい地下牢ではない。

 今が夢でもなく現実なのは、じんじんと手に響く痛みで分かる。

 そう、これが現実。そして、あれは夢。

 晩霞は溜息を吐き、赤くなった指を擦る。


「……ああ、もう……最悪だ」


 まったく、何て嫌な夢だろう。


 今さら、あんな……前世の記憶を見るなんて。


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