中編ブロマンス小説『月の沙漠』試し読み

※中編ブロマンス小説『月の沙漠』の試し読みになります!


◎収録されている同人誌

→『月の沙漠』/A6(文庫)判/700円


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Chapter 1:memory of us

【チョコ作りたいから教えてくれ】

 堅羽智戈のスマートフォンに相生充からメッセージが届いたのは二月十四日の午後八時だった。

【え、遅くね?】

 堅羽がそう返したのは必然だ。だって、二月十四日はもう終わろうとしている。そして彼と知り合って六年近く経つ堅羽としては、つっこみたいことは他にもあった。『あげる相手がいるのか』とか『ググれば出てくるだろ』とか、『いや、そもそも逆チョコなんだ』とか。

【流行りに乗せられるのも悪くないかなって】

 かみ合っているようで全くかみ合っていない返信が十分後に届いた。またもや聞きたいことが増えた。しかし彼の性格上問い詰めても無駄なことはわかっているので、堅羽は諦めた。

【じゃあ明日の十五時に行く】

 堅羽がメッセージを送ると今度はすぐに既読がついた。【ありがとう】と満面の笑みを浮かべる兎のスタンプが送られてくる。調子のいい奴だ、と堅羽は思った。


 翌朝七時に起きた堅羽は英語と世界史の勉強をし、昼食を適当に済ませ、十四時台の電車に乗って充の家に向かった。最寄り駅で降りてスーパーに寄り、そこから更に二十分歩く。入り組んだ細い通りを迷いながら進むと、目の前に喫茶店が現れた。

『定休日』と書かれた札が古びた扉にかけられている。ノックをするが返事はない。堅羽はポケットから銀色に光る鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。扉が開いたので迷いなく足を踏み入れる。

 人気はない。薄暗い店内には縦長の窓が横に並んで二つ、その前には四人席とパーテーションが一つずつ。向かい合うようにして木製の小さなカウンターがある。奥にはカウンターと色をそろえた木製の棚がそびえ立っていて、様々な種類の茶葉と無数の本が収められている。

「充?」

 投げかけた声は埃っぽい空気を漂って消えた。堅羽はため息をつき、カウンターの左手にある扉を開けて現れた階段を上る。上りきってすぐ右手の扉を開けると雑然とした部屋の奥にあるベッドが膨らんでいた。

「充。起きろってば、充」

「……ん? 堅羽?」

 掛け布団の隙間からとろんとした瞳がのぞく。ばちりと視線が合うと、充は再び掛け布団に潜り込んでしまった。

「おいこら、起きろ。お前が来いって言ったんだぞ」

「頭痛がするんだ」

「寝すぎだろ」

「違うし」

 すねたような口調は甘えてるだけだとすぐにわかる。掛け布団をゆすっても埒が明かないので、堅羽は勢いよく布団の上に飛び乗った。

「わ、やめろ、馬鹿。起きる、起きるから」

掛け布団の上から充の背を抱き、少し長めでさらさらとした黒髪を思いきりかき混ぜる。充はくすぐったそうに笑った後、観念して上半身を起こした。白い肌に細い首。見るからに健康とは言い難いが、特別具合が悪そうではない。頭痛は寝すぎかもしくは精神性のものだろうと堅羽は結論付けた。

 なぜか半袖を着ている充に壁際からコートを取ってきて渡してやる。充はごそごそと袖を通しながら不思議そうに堅羽を見上げた。

「どうしたんだ? 三日前の作り置きならまだ持ちそうだけど……ごめん、冗談」

 堅羽のこめかみに青筋が浮かびかけたのを見て充は掌をひらひらさせた。「よろしくお願いします」とお辞儀をし、ふわふわとした足取りで部屋を出ていく。その後を堅羽も着いて行く。

 充とは中学からの付き合いだ。知り合って早六年、半ば呆れつつも、堅羽はこの人間不信で情緒不安定な友人のことを嫌いになれずにいる。

「麦茶でいい?」

「おー」

 一階の四人席に座った堅羽はスーパーの袋からチョコ作りの材料を取り出した。充の家にボウルとゴムベラがあることはわかっていたので、板チョコや型、生クリームやココアパウダーといったチョコ作り特有の必需品を買ってきた。

「うわー、すごいね。いくらだった?」

「後でレシート渡す」

「うん」

「生クリームも買ってきた。溶かして固めるだけじゃ教え甲斐ないし」

「生クリームで何ができるの?」

「チョコレートトリュフ」

 充が首を傾げたので堅羽はチョコレートトリュフの作り方を説明をする。

「挑戦してみたいけど、俺にできるかなあ」

 充は麦茶の入ったコップを置いてのんきに笑った。これは自分が作るハメになりそうだと堅羽は直感した。

「今日泊まるから」

 堅羽が言うと充は目を丸くした。

「着替えは?」

 持ってきた手提げを掲げて見せる。「先に言っておいてよ」と充が唇を尖らせた。

「いつも急だけどさ、もし俺に予定が合ったらどうするつもりなの」

「それはもう地球が滅びる時だから諦める」

「なんだと思われてるの、俺は」

充の言葉を最後に、お互いに無言のまま三十分が過ぎた。

「作ろう、チョコレート」

思い出したように言って、充は読んでいた文庫本をぱたんと閉じた。

 奥のキッチンに二人並んで立つ。板チョコを刻む充にあれこれと指示を出しながら堅羽は湯銭の準備をした。

「お前さ、なんで急にバレンタインとか言い出したわけ?」

「だって昨日バレンタインだったじゃん」

「そうじゃなくて。今まで全く気にしてこなかっただろ」

 穏やかな雰囲気が女子好みなのか、充は今までも沢山のバレンタインチョコをもらっていた。しかし毎年『よくわからないけど今日はたくさんチョコをもらったなあ』という雰囲気でその話をするものだから、充にはバレンタインという概念がないのではないかと密かに疑っていた堅羽である。

 鍋をいじる手を止めて充をじっと見つめる。その視線に観念したのか、充は気まずそうに喋り始めた。

「華がさ、」

「ああ、華さん」

『華』は充の同い年のいとこである。同じ高校に通っていて堅羽とも面識がある。

「『堅羽君にチョコあげた?』って連絡してきて」

「ああ、そういう……」

 その一言で堅羽はなんとなく察してしまった。華のにんまりとした笑顔が容易に想像できる。

「あげてないよって言ったんだけど、『堅羽君のこと好きじゃないの?』って聞かれて。いや、堅羽のことは好きだけどチョコをあげるような好きじゃない、って返したんだけど、そしたら『女子同士でも友チョコあげるよ』って言われて。俺バレンタインとかあんまり気にしてこなかったからよくわかんないし」

 あげてみればわかるかなって。

 へらっと笑う充を見て堅羽はため息をついた。こういう所だ。こいつのこういう所が本当に……――。

「おい、堅羽、堅羽」

「……ん?」

「お湯! 吹きこぼれそう!」

「あ、やっべ」

 慌ててコンロをいじり、火加減を調節する。

「堅羽がぼーっとしてるなんて珍しいね。熱でもある?」

 誰のせいだよ、と心の中で呟きながら、心配そうにのぞき込む充のおでこを人差し指ではじく。「痛っ」と小さく叫んで充は顔をしかめた。

「後は、ボウルに刻んだチョコを入れて鍋にかけて、型に流し込んで冷やせば終わり」

「生クリームは使わないの?」

「それは後。これ以上あんたがチョコ刻むの待ってたら日が暮れる」

 暗くなり始めた室内に気づいて充が電気をつけた。白々しい蛍光灯の光が辺りを照らした。

 チョコを作り終えた二人は作り置きのおかずで夕食を済ませ、洗面用具を用意した。この家には風呂がないので銭湯に向かうのだ。

外の空気はぴんと張りつめていて、澄んだ夜空に月が昇っていた。

 二人分の靴音と街灯の灯りが混ざり合って昇っていく。吹き付ける風に体を縮ませながら、堅羽は傍らを歩く充を盗み見た。細い肩はぴくりとも動かず、ただまっすぐに前に進んでいく。それは寒さに強いというより、寒さに抗う術を知らないといった方が正しいように見えた。

 初めて会った時から相生充はこういう人間だった。

 胸を刺す孤独の中で、抗いもせずただ超然と立っているような人間だった。

「寒いな」

 なぜか薄く笑いながら、充が言った。

「マフラーくらいしてこいよ」

「ああ、そうだね。忘れてたよ……あ、ほら、見えてきた」

 駅前の大通りに出て坂を上ること十分、道の先に『銭湯春日峰』と書かれた看板が艶やかに光っていた。

 建物に入ると充は受付のおばあさんに愛想よくあいさつをして脱衣所へ向かった。途中ですれ違う客と「こんばんは」と声をかけあったり顔見知りらしき人と一言二言話したりする充の様子を見ると、堅羽は毎回違和感を覚える。『お前、表情筋の使い方違うだろ』と突っ込むわけにもいかず、能面のような横顔をぼんやりと見つめた。

「どうしたんだ、堅羽。あほみたいな顔して」

「……あほはお前だろ」

 充はきょとんと目を見開いた後、見透かしたような透明な瞳を細めて小首を傾げた。堅羽の言いたいことなど全て、この友人には伝わっているようだった。

 ゆったりと湯を楽しんで二人は銭湯春日峰を後にした。行きよりも更に冷えた風がほてった頬に心地よい。鼻腔を突く空気は乾燥していて、少し喉が痛くなる。

「あ……」

 しばらく歩いていると、隣を歩く充が突然声をもらした。視線で問いかけると、充は自分の左手首を指さす。

「時計を忘れたみたいだ」

「戻ろう」

「いいよ、一日くらいならなくても問題ない。明日もどうせ行くんだし」

「だめだ」

「でももう大分歩いたし」

「だめだ」

 呆気にとられている充の手をひいて強引に来た道を引き返す。道の先にぼんやりと灯りが見え始めると、左手にかかる抵抗はなくなった。人通りのない夜の歩道を二人は縦に連なって歩いた。

「ありがとう」

 背後から聞こえた呟きに堅羽はなんでもないという風にうなずいた。少しすねたような遠慮がちな充の声は、堅羽の頭の隅から春の匂いを連れてきた。


 六年前の五月、中学一年生の堅羽が忘れ物を取りに放課後の教室を訪れると、今よりも更に華奢な充が自身の引き出しを慌ただしく覗き込んでいた。

「あー、相生? どうしたんだ?」

 堅羽が声をかけると充ははっとこちらを振り向いた。その顔を見て堅羽はたじろいだ。普段は何を考えているかわからない充の瞳に混乱と焦りが浮かび、息は乱れ、元から青白い頬が更に青くなっていたからだ。

「ああ、えっと」

「堅羽。堅羽智戈」

「堅羽。いや、なんでもないんだ。ちょっと探し物」

 ちょっと?

 堅羽は自分の引き出しから数学と英語のノートを取って鞄に入れながら、横目で充の様子を観察した。机から教卓に移った充は相変わらずどたどたと大きな音をたてながら、必死で何かを探している。ちょっとどころではない。きっと、よほど大事な物をなくしたのだろう。

「手伝うよ」

 いつのまにか声をかけていた。『手伝おうか?』と疑問形にしなかったのはばっさり断られると思ったからだ。探し物の手伝いすら許さない空気を、充はいつもまとっていた。

「いいよ。忙しいだろ、堅羽だって」

「いいから。何なくしたんだ?」

 強引に話を進めると、充はほんの一瞬、ひどく迷惑そうな顔をした。それに気づかないふりをしつつ事情を聞きだすと、なくしたのは腕時計だという。いつもポケットに入れて持ち歩いているのだが、帰ろうとした時には既になくなっていたらしい。

「多分、どこかに置き忘れたんだ。それでとりあえず教室に来たんだけどね」

 充は肩をすくめて掌をひらひらさせた。

「理科棟は?」

「まだ。これから行く」

 充は堅羽に歩調を合わせて歩いたが、明らかにそわそわしていた。一人だったら走るつもりだったのだろう。そう考えると律儀に堅羽の隣を歩く充が微笑ましく見えてくる。ふっと頬が緩むと、充はいぶかしげに堅羽の顔をのぞき込んできた。

「どうかした?」

「いや、相生って思ったよりわかりやすいんだなと思って」

 充は顔をしかめて納得いかなそうに首を傾げた。心当たりはなさそうだ。それもそのはずで、普段クラスメイトと話している時の充の態度には感情の起伏というものが一切感じられない。穏やかなのはいいが、実際に他のクラスメイトからも「何を考えているのかわからない」と言われることの方が多いのだろう。

 今日が例外なのだ。例外の方がずっといい、と堅羽は思った。

 理科教室の机を隅から隅まで調べたが、充がなくしたという茶色い革ベルトの腕時計は見当たらなかった。続いて向かった音楽室にもそれらしき物はない。太陽はすっかり傾き、窓から差し込んだ橙色の光の中を、時折何かの影が横切っていく。

「いいな。きれいだ」

 ささやくような充の呟きが空気を揺らした。その瞳はどこか遠くを見ていた。堅羽は何も答えずに、夕日に照らされた充の滑らかな頬をただじっと見つめていた。 

「更衣室に行こう」

 校庭やテニスコートから聞こえる喧騒を遠巻きに、二人は校舎を出て体育館へつながる渡り廊下をゆっくりと歩いた。足音がこだまする心地よい沈黙が堅羽の背中をそっと押した。

「相生はさ、こっちの方がいいよ」

 充が振り返った。

「焦ったり、怒ったり、黙ったり。とにかく今日の方がいい」

 いつもみたいに白々しく笑うより、ずっと。

 この一ヶ月間、実はずっと見ていたのだ。入学式後のホームルームで自己紹介のために教卓に立った充の、奇妙に凪いだ瞳が気になった。充の出席番号は一番で堅羽の出席番号は十四番だ。名簿順に縦七人ずつ並んだ席からは、一番前に座る充の様子がよく見えた。女子とも男子とも充はそつなく自然に話したが、その自然さに違和感を覚えてますます目が離せなくなった。

まして、その瞳の奥にわずかな感情の表れを見出してからはなおさらだった。

 誰も気づいていない。自分以外は、誰も。

 二人はいつの間にか立ち止まり、向かい合っていた。渡り廊下の脇に植えられている桜の木がさわさわと揺れた。花が落ちて若葉がつきはじめた青々とした木だ。春の匂いがした。夜の匂いと、そしてわずかに夏の気配。

 くすっと肩をすくめて充が笑った。

「堅羽は鋭いね」

 透明な瞳を細めて聞いたこともないような柔らかい声でそう告げると、さっさと体育館の中に入っていってしまう。堅羽はしばらくでくの坊のようにその場に突っ立っていたが、ふと我に返って慌てて充の後を追った。

 結局、充の腕時計は更衣室の隅にある机の上に置いてあった。校則で禁止されている落とし物を誰かが置き直してくれたのかもしれなかった。充は更衣室に入るや否や駆けだすと、ほっと息をついてから丁寧に時計を手に取った。細い茶色のベルトの時計は女性物のようだった。

「よかったな」

「ああ」

 存外素直な返事をした充は心の底から喜んでいるらしかった。

「それ、自分の?」

「そうと言えばそう。でも違うとも言える。とにかく大事な物なんだ。見つけられてよかった」

 時計を見つけた後、二人は並んで歩いて帰った。堅羽と充の家の方向は同じだった。夜道には白っぽい光を放つ街灯がぽつぽつと等間隔で並んでいた。

「堅羽」

 分かれ道で呼び止められて堅羽は振り返った。薄明りの中で目が合うと、充は少し迷ったように瞳を泳がせ、足元を見ながら小さく呟いた。

「ありがとう。一緒に探してくれて」

 少しすねたような、遠慮がちな声だった。初めて充の心に触れたような気がして堅羽はなんとなく照れくさかった。「どういたしまして」と言うと、ははっと軽やかに充が笑った。充の笑顔を初めて見たような気がした。


 今回も時計はすぐに見つかった。脱衣所のロッカーの奥の方に外したままの形で置き忘れられていた。充はすぐに時計を左腕につけると、安心したように文字盤を撫でた。

「それにしてもお前、時計のこと忘れ過ぎじゃないか?」

「ん? そう?」

「ああ。中学の時もなくしてただろ。大事な物ならもっと気遣えよ」

 充は思案顔で首を傾げた。堅羽がしばらく無言で見守っていると、ようやく考えがまとまったらしく顔を上げる。

「大事だからなくすんだ。ほら、ペンとかもさ、書きやすくて気に入ってるものほどなくすだろ? そんな感じ。なんでだろうな。大事な物ほどすぐにどこかにいっちゃうんだ」

 わかるようなわからないようなことを、なぜか愉快そうに充は言った。堅羽は肩をすくめる。

銭湯を出ると冷たい風が吹きつけた。充が小さくくしゃみをした。


 二月十六日の午後八時、堅羽が自分の部屋で英作文をやっているとまたもや充から連絡がきた。今度は画像らしい。トーク画面のスクリーンショットで、相手の名前は『華』と書いてある。


【堅羽君へ。充のチョコおいしかった? 堅羽君の作ったチョコレートトリュフ、私もいただいちゃいました。おいしかったです。これから毎年、充に食べさせてやってね。末永くお幸せに!】


【これ送れって言われた。ちゃんと『スクショ』できてる?】

 写真に続けて充の打ったメッセージが送られてくる。堅羽は眉をひそめて小さくため息をついた。前々から感じていたが、華は充と堅羽のことを恋人関係かなにかだと勘違いしているらしい。

 別に非難されているわけではないが、そういう世間の目を鬱陶しいと感じる自分がいるのは事実だ。誤解されるのは居心地が悪い。

 ――男が男を構っちゃ悪いかよ。

 自分でもずいぶんと充に手をかけている自覚はある。生活能力が皆無の彼の家には二次試験前の忙しい今でも三日に一度は作り置きをしに行っている。その際部屋が埃っぽければ掃除機をかけるし、洗濯物がたまっていれば洗濯をする。呼び出されれば会いに行く。風邪をひかないようにコートを渡すし、チョコレートの作り方だって教える。

そうやって手をかけていないと充はすぐにどこかに行ってしまいそうだから。放された手を惜しがることもなく、諦めたように微笑んでいなくなってしまうだろうから。

 残念ながら、これは恋じゃない。そんな甘いものじゃない。もっとどろどろしていて、沼のように深くて、底が知れない。それでいいと思っている。充が充で、自分が自分で、そうなるのが必然なら、それでいい。目を逸らす気もなければ、抜け出す気もないのだ。

【できてるできてる。スクショ】

【華にはなんて言っておけばいい?】

【何も言わなくていいんじゃない。見せたって言えばそれで喜ぶだろうから】

 充がジト目の兎のスタンプを送ってきた。意味わからん、という意味だ。堅羽はパンダが手を振っているスタンプを送ると、既読がついたのを確認して画面を閉じた。


     *


「旅行行こうよ、堅羽」

 人気のない薄暗い喫茶店の店内、唯一のテーブル席に座って本を読んでいた堅羽は充の青白い顔を見上げた。

「急にどうした」

「急じゃないよ。だって俺ら卒業したし。最近はほら、だいぶあったかくなってきたし」

「ほー。お前には不審者の才能があるみたいだな」

「どういう意味?」

「春になると虫とか獣が一斉に出てくるだろ。それと一緒。不審者も暖かくなると出現するようになるらしいぜ」

「なんだよそれ。なー、かたはー」

 再び本を読み始めた堅羽の肩を充が不満そうに揺する。あまりにも大きく動かすので耐えきれなくなり、堅羽は本を置いた。

「旅行って言ってもなあ。俺引っ越しで忙しいし」

「宿も交通手段も俺が準備するよ」

「荷造りも面倒だし」

「じゃあ手ぶらで行って現地で全部調達しよう」

「そもそも金ねえし」

「俺が二人分払うから」

「ってか男二人でどこ行くんだよ」

「ネズミーズランド?」

「却下」

 カップルと家族連れとその他団体様で構成された人混みを思い浮かべて堅羽はため息をついた。ネズミーズランドは千葉県にあるテーマパークだ。季節を問わず来園者でごった返していて、そわそわして楽しんだ気がしないのであまり好きではない。

「なんでさ。堅羽はいいの? 卒業旅行しなくて」

「卒業したら旅行しなきゃいけない決まりなんてねえよ。まあ近場なら考えなくもないけどな」

「それはだめ」

「なんで」

「もう買っちゃったから。チケット」

――モウカッチャッタカラ。チケット?

 堅羽は頭の中でたっぷり十秒、その言葉を反芻した。モウカッチャッタカラ。チケット。モウカッチャッタカラ。チケット。モウカッチャッタカラ。チケット――

「まじかよ!」

 向かいの席に腰を下ろした充が照れくさそうに頬を掻いた。


「充、こういうこともうやるなよ」

「んー? 何が?」

「だから、こうやって勝手に予定立ててチケット買って、強制的にどこかに連れてくようなこと」

 週末、東京に向かう高速バスの中である。窓際に座る充は差し込む太陽の光の中で眠たそうにあくびをした。

「いいじゃん。費用は全部俺持ちなんだから」

「だからだよ。俺は自分にかかる金は自分で出したい」

「律儀だなあ。そんなのラッキーって甘えちゃえばいいのに。二人分の旅行費なんて俺にとってはどうってことないんだから」

 投げやりに応える充の横顔を堅羽はじっと見つめた。生まれた沈黙に疑問を覚えたのか、充の視線が堅羽に向けられた。

「どうしたの? 変な顔して」

「……いや。充、俺は常識の話をするけど、世間の一般的な高校生は友人に二泊三日の旅行をおごったりしないんだ」

 グレーに透ける充の瞳をまっすぐ見つめて一言一言噛んで含めるように言葉を紡ぐ。堅羽が言い終わると、一瞬の間の後、充は大声で笑いだした。

「あっははは、はははは、ふふっ」

「なんだよ。ってかうるせーよ。静かにしろ」

「ごめんごめん。あのね、堅羽」

 充が手招きをするので顔を寄せる。近づけた耳元に吐息がかかる。

「知ってるよ」

 とっておきの秘密を話すような、子どもっぽくて甘い声色だった。充は呆然と固まる堅羽の肩に腕を回して機嫌よさそうに話を続ける。

「いいんだよ。俺はどうしても堅羽と旅行に行きたくて、そのためにお金を使ったんだから。こうでもしないと堅羽は来なかったかもしれない。全部俺の都合だから、俺がお金を出して当たり前。でしょ?」

 にっこりと笑って大きく伸びをし鞄の中から文庫本を取り出す。ぱらぱらとめくってお目当てのページを見つけると、ふんふんと軽く鼻歌を歌いながら読みだした。

 車内はとても静かだ。人影もまばらでイヤホンをしている人が多い。充の鼻歌を気にする客もいないようだ。堅羽はバスの振動を感じながらぼんやりとスマートフォンの画面を見つめた。溜まりに溜まったタブを片っ端から消していく。

「充」

「ん?」

「旅行ってのはさ」

「うん。ごめん」

「いいから聞け。旅行ってのは、行く前から楽しいもんなんだ」

「へえ。新たな見解」

「お前にはピンとこないかもしれないけど、そういうもんなんだよ。どこに行くかとかどうやって行くかとか、どこに泊まるかとか。予算内で計画を練って少し無理して移動したりだとか」

「それが楽しいのか。じゃあ堅羽の楽しみを奪っちゃって悪かったなあ」

「今回は別にいい。でも」

「でも?」

 先を促すように充が首を傾げる。堅羽は通路の方に目線を逸らして、ぼそりと呟いた。

「次は、一緒に計画から立てるぞ」

 自分の耳が熱くなるのを感じた。隣に座る友人の反応を探る余裕などない。

 パシャッ。

「……は?」

 突然のシャッター音に堅羽は振り返った。

「お前、何してるんだ?」

「何って、写真だよ写真。旅行と言えば写真だろ?」

「人の写真を勝手に撮るなーっ!」

 思わず立ち上がって大声を出すと他の乗客が一斉にこちらを見た。

「えー、お客様。走行中は座席におかけになり、大きな声を出すのはお控えください」

 運転手にマイクでアナウンスまでされてしまう始末である。堅羽は方々にぺこぺこと頭を下げて着席し、くつくつと笑う充の頭を思いきり小突いた。


 新宿に着いた。辺りを歩く人の多さに戸惑いながら、電車に乗ってお台場海浜公園へ向かう。昼食をとってビーナスフォートで買い物をし、舞浜のホテルに着く頃には二十一時を回っていた。

「うおー! ふっかふっかだーいぶ!」

「おえ……充、あんまり騒ぐな」

 充は部屋に着くなり窓際のベッドに飛び乗った。対照的に、後から入ってきた堅羽はげっそりとした顔をしている。両手に抱えた大量の紙袋を適当に床に置き、手前側のベッドに座り込んだ。

「無理だ。疲れた」

「堅羽は貧弱だなあ」

「お前にだけは言われたくない」

 そう言いつつ両手で目を覆って横になる。暗闇とふかふかのマットが疲れた体に心地よい。

「堅羽、四月から東京でしょ。そんなんで大丈夫なの?」

「知らん。少なくとも誰かさんの買った物を大量に持つ予定はないから今日よりはマシだな」

「自分で持つって言ったのに」

「そんな細腕に持たせられるわけないだろ」

 運動もせずろくに食べもしない充の腕はそこら辺の女子よりも細い。自分の持てる分だけ買おうと必死に購入品を選んでいたので、思わず手を貸してしまった。

「やっぱり俺も筋トレとかした方がいいかな」

「筋肉痛で丸三日飯が食えないのがオチだからやめといた方がいいんじゃないか?」

「あはは。ありそう」

 充は堅羽の方を向いてベッドに腰掛け、両足をぱたぱたさせながら他人事のように笑う。そんな様子を指の隙間から覗き見ていると、ふくらはぎの辺りがじんわりと熱を帯びて意識が遠のくのを感じた。

「わりい、俺ちょっと寝るかも」

「うん。シャワー浴びてるから、出たら起こすね」

 充はそう言って端正な顔をほころばせた。堅羽は自分が返事をしたかどうかもわからないまま眠りの世界へ落ちていった。


 充がシャワーを浴びて戻ってくると堅羽は既に起きていた。

「あれ、もう起きたの?」

「ああ。やっぱりシャワー浴びないと気持ち悪くてあんまり寝れねえ」

 存外潔癖な節のある堅羽はベッドから起き上がると、わしゃわしゃと自分のくせ毛をかき混ぜながら着替えを用意し、部屋に備え付けられているシャワールームへ消えていった。その後ろ姿を見送った充はコンビニの袋からオレンジジュースを取り出して口を着ける。甘酸っぱいオレンジ色の液体が減っていく。

「ふんふんふん」

 機嫌よく鼻歌を歌い、オレンジジュースの代わりにスマートフォンを持って自分のベッドに横になった。カメラロールを開き今日一日撮り溜めた写真を見返す。


 電車の中でうたた寝をする堅羽。

 ビーナスフォートのジェラート屋で、少し表情を緩めてアイスを頬張る堅羽。

 海浜公園の自由の女神像をぼんやりと眺める堅羽。


 二人旅行なので当たり前かもしれないが、堅羽の写真ばかりである。ちょっとキモイかな、と思いつつ消すこともできずに遡っていると、バスの中で撮った堅羽の後ろ姿が出てきた。

 ちらりと見える耳が赤い。胸が締め付けられるようななんとも言えない気持ちになって、充は掛け布団に潜り込んだ。スマートフォンの電源を切って胎児のように丸くなる。幸せな気持ちと同時にどうしようもない寂しさが押し寄せてくる。

 堅羽は四月から東京の大学に進学する。前期試験で第一志望校に合格したのだ。

 一年生の頃からコツコツと勉強し、三年の初めからは本格的に受験勉強に励む堅羽を見てきた。だから合格の連絡があった時には一緒に喜んだし、安堵した――二次試験前の忙しい時期にも堅羽は自分の世話を焼いてくれていたので、万が一受からなければ、申し訳なさで顔を見れなくなるところだったのだ――しかし堅羽の東京行きは、二人の関係の終わりも意味していた。

 堅羽は堅羽の道を行く。充は充で、一人で起きて一人で食事をとり、一人で本を読んで、自分で掃除も洗濯もする。堅羽とはお盆と年末に会うか会わないか程度になり、やがて自分は忘れ去られて、独りになる。


それは至極当然の未来だ。孤独には慣れているし抗うつもりもない。ただ、誰かに甘えることのできる日々は妙に心地よくて、少しだけ手放しがたくなってしまった。本当にそれだけ。

たったそれだけのことにこんなにも胸が痛むのは、常識や体裁を取っ払って自分と向き合ってくれた心優しい友人のせいだろう。

「なにしてんだ? 充」

 掛け布団が持ち上げられて、光が差した。水滴の残る髪をタオルで拭く堅羽が、呆れたような顔でこちらを見下ろしていた。

「あ……俺、」

 何も言えない充の頬に大きな手が触れる。目元を拭い、ついた水滴をなめとると、堅羽は髪を拭きながら再び洗面に戻っていく。

「寝るなら歯磨きしろよ。あと、髪はちゃんと乾かせ」

 背中越しに投げかけられた言葉は無造作だが、温かかった。余計に目の淵が熱くなるのを感じて充は再び布団に潜り込んだ。


 翌朝はとてもいい天気だった。風も少なく、絶好のネズミーズランド日和である。

「お前がそんなんじゃなければな!」

 堅羽は目くじらを立てて、緩慢な動作で支度をする充を見た。ごほごほと咳き込みマスクから覗く目元はかなりだるそうである。完全に風邪をひいていた。

「うーん、ごめんね堅羽」

「だからちゃんと乾かせって言ったんだ。お前ただでさえ不健康なのに」

 充は困ったように斜め下を向いた。なんだか言いにくそうに、ごにょごにょと呟いている。

「なんだよ。なんか言いたいことでもあるのか?」

「あー、いや。なんと言うか、これは半分堅羽のせいと言うか」

「はああああ?」

 わけわからんという風に堅羽が眉をひそめると、充はぱっと顔を上げてぎこちなく笑った。

「いや、ごめん。今度から髪の毛はちゃんと乾かすよ。さあ早く行こう? バスに乗り遅れちゃう」

「ちょっと待て」

 鞄を持って部屋を出ようとした充の腕を堅羽はがっしりと掴んだ。

「お前、本当にその体調で行くつもりか?」

 堅羽は目を細めて充の顔をじっと見つめた。

 今日は旅行の二日目である。今回の目玉、ネズミーズランドに行く予定だった。しかし充がこの体調では楽しめないどころか最悪悪化して帰れなくなる。充の体は無理がきくほど頑丈ではない。

「行きたいんだけど」

「俺は、お前が熱を出すのは嫌だ」

「だってチケット買っちゃったし」

「健康の方が大事だ」

「せっかくここまで来たのに」

「ネズミーズランドは逃げねえよ。また来ればいいだろ」

「そんな簡単に『また』とか言うなよ」

 珍しく充がむっとした顔をした。不思議そうに目を見開く堅羽の顔を見て我に返り、うつむいて「ごめん」と呟く。

堅羽は大きくため息をついた。ベッドの横に置いてあった自分の鞄を取って中身を確認し、充の横を通り過ぎて扉に手をかける。

「行くぞ」

「え、いいの?」

「いいも何も、この旅行は全部お前の都合なんだろ。迷惑かけられるのなんて今更だしな」

 どうってことない、という風に微笑んでやると、充ははにかむようにうなずいた。

 ネズミーズランドにはホテルから出ているバスに乗って向かった。開園前から恐ろしいほどの人間が列を成して待っており、その熱意に驚く。手荷物検査を済ませ、開園三十分後には無事夢の国へ足を踏み入れることができた。

「どうする? どこに行く? あ、お土産? お土産買う?」

 おとぎ話をモチーフにした園内に足を踏み入れた途端、充は瞳をきらきらと輝かせてはしゃぎだした。堅羽のことなどそっちのけで園内の装飾に近寄ったり売店を覗き込んだりしている。普段よりも大分子どもっぽいその反応を微笑ましく思いながら、堅羽は充の頭を小突いた。

「そんなに慌てんなよ。まずは一発、これ行くぞ」

 堅羽はにやりと笑って、スマートフォンの専用アプリ上でジェットコースターのアトラクションを指さした。     


一日遊び倒し、パーク内のレストランで早めの夕食をとっている辺りで充は熱を出した。タイミング悪く小雨が降りだし、切り上げてホテルまでの電車に乗る頃には、堅羽は雨に濡れながら全ての荷物と一人の人間を抱えるハメになった。

「ごめん。俺、やっぱ」

「喋ってねーで寝てろ」

 目周りを赤くして咳き込みながら寄りかかってくる充の瞼を無理やり閉じさせる。タクシーを拾うべきだったかもしれないと思いながら、堅羽は窓の外を見つめた。雨にけむる都会の街並みが流れていく。目に映る景色から、半月後の自分の生活が想起される。

 ビルの谷間を歩く。大学に行く。食事を作って狭いユニットバスでシャワーを浴びて、課題をこなして、薄い布団に潜り込む――もちろん一人で。

 肌寒さを感じて堅羽は震えた。雨水の染みたスニーカーが重たかった。


 部屋に戻ってすぐに、堅羽は充を着替えさせた。

「ほら、濡れたもん貸せ」

 受け取った服を適当に干して暖房をつける。自分もシャワーを浴びて服を干し、濡れた靴をドライヤーで乾かしていると、奥のベッドに丸まった充が声をかけてきた。

「ごめん」

「え?」

 ドライヤーを切って後ろを振り向くと、苦しそうに潤んだ瞳がこちらを見つめていた。

「ごめん」

「別にこれくらい。気にすんな」

「そうじゃなくて。いや、それもそうなんだけど」

 熱で頭が回っていないのか要領を得ない呟きが続く。堅羽は立ち上がって充の枕元に寄った。「いいから寝てろ」と充の前髪をかき混ぜようとして頬を流れた涙の跡に気づく。

「ごめん。ごめん堅羽。俺、一人じゃ何もできなくて。堅羽に迷惑かけて、堅羽の優しさに甘えて、自分じゃどうにもできなくて」

 うわ言のように呻く充を見下ろして堅羽は険しい顔をした。昼間の元気が嘘のようだ。熱のせいもあるだろうが、そういえば昨日の夜も様子がおかしかったな、と思い出す。

堅羽は靴を浴室に放り込んで換気扇を回し、歯を磨いた。スマートフォンを充電器につないでから充と同じベッドに潜り込む。

「俺はさ、謝られるよりもお礼を言われる方が好きだ」

 充は堅羽から逃げるように体を丸めた。その後を追って薄い背を抱くと今度は腕を押し返してくる。その手を取って充のうなじに顔をうずめる。熱のせいか、いつもよりも温かい。

「俺は誰の面倒でもみるわけじゃない。そこんとこ、いい加減わかれよ」

「でも堅羽、いなくなるじゃないか」

「そりゃ今まで通りとはいかないけど、会いに行く」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「嘘だよ。誰が好き好んでこんな面倒くさい役立たずに会いに来るんだよ。彼女できても来るのかよ……無理しなくていいよ。だってそれが普通だろ」

「普通、普通ねえ」

 堅羽はぼんやりと天井を見上げた。充は何もわかっていないのだ。自分の危うさも、それに自らの意志で囚われている堅羽のことも。

「大丈夫だよ。俺は自分が寒いから、今ここにいるんだ」

 微かな雨の音を聞きながら堅羽は目を閉じて微笑んだ――まぶたの裏にモバイルショップでスマートフォンを選ぶ充の横顔が浮かべながら。

 今年の正月、ガラケーしか持っていなかった充に最新機種を買わせたのは他でもない堅羽だ。「今時持ってないと困るぞ」と言ったのは建前で、大学進学で離れてしまう前に充とより綿密にコミュニケーションを図れる手段を確立しておきたかった。そういうのが全然伝わっていないのだろう。そういう所が充らしくて、笑えた。

「堅羽……? 寝た?」

 心地よい眠気の中に充の声が響く。返事をしないでいると、ごそごそと音がして、少し汗ばんだ指が額に触れた。

「おやすみ、堅羽」

 柔らかい声が鼓膜を震わせた。充が軽く咳き込みながら寝息を立て始めたのを確認して、堅羽も意識を手放した。


「たっだいまー。あー疲れた!」

 二人は翌朝早くからバスに乗り、昼過ぎには充の家に着くことができた。そのまま自室に向かおうとする充を堅羽は引き止める。

「待て。手洗ってうがいしろ。洗濯物は出してけ。荷物は休む前に片付けないと後で面倒だぞ」

「ぬう。細かい男は嫌われるよ」

 階段にかけていた足を渋々降ろして充はキッチンに歩いて行った。堅羽も途中で寄ったスーパーの袋を持ってその後に続く。

「昼飯、遅くなってよければ作るけど」

「……いいの?」

「いいよ。できるまで休んでろ」

「ありがとう」

 充は薄く笑った。洗い終えた手を拭いてキッチンを出ていく。二階の部屋のドアが閉まる音が聞こえると堅羽はぱしっと両手で自分の頬をはたいた。

「よっし。作るか」

 正直今すぐ眠りたいくらいには疲れていた。しかし引っ越しやらなんやらの関係で、堅羽がここで料理できるタイミングは今日が最後だ。

 鍋一杯の水を火にかけ、玉ねぎ、ピーマン、ソーセージを切る。ケチャップやウスターソースなどの調味料を混ぜ合わせ、フライパンを熱して先程切った具材を炒める――ナポリタンだ。

 面倒だから普段は作らないけれど、今日は特別だ。勉強漬けで忙しかった堅羽を気遣って誘ってくれた充にお礼がしたかった。

 ぽやっとしているようで聡いのだ。というよりは、聡いからこそ、無意識のうちに何にも頓着しないよう振る舞っているのかもしれない。

 茹で上がったパスタとソースを絡めて皿に盛る。赤ベースに緑が映える、いい色合いに仕上がった。

「充ーできたぞー」

 階段の下から充を呼ぶと待ってましたとばかりに扉が開いた。ご機嫌な充が鼻歌を歌いながら階段を降りてくる。

「いやー、いい匂いがするからねえ。寝れなかったよ」

 四人席に並べられた二人分のナポリタンを見て充は動きを止めた。

「どうした? もしかして苦手」

「堅羽、ナポリタン作れたの⁈」

 あまりに嬉しそうな声で叫ぶので、堅羽は驚いて目を見開いた。

「食べていい?」

「あ、どうぞ」

 瞳を輝かせてパスタを頬張る充を見つめる。いつも嬉しそうに堅羽の作ったご飯を食べてくれるが、ここまで嬉しそうなのは初めてだった。

「ありがとう、堅羽。おいしいよ」

 あまりにも素直にお礼を言われて照れる気にもならない。

「おう。そういえば充、これも」

 堅羽は自分の鞄を漁って手のひらサイズの箱を手渡した。

「開けていい?」

「ああ」

 一度フォークを置た充は包装を開いた。中には茶色い革ベルトの、男物の腕時計が入っていた。

「ホワイトデー。安物だけどな。それ以上ぼろぼろになったら困るだろ」

 堅羽は充の手首を指さした。そこにはいつもの女性ものの腕時計がついている。ベルトは大分擦り切れていて、いつまでもつかわからない状態だ。

 充は愛おしそうな目で自分の腕についている時計を見て、撫でた。そして少し躊躇いがちに口を開く。

「これ、父さんの形見なんだ。元々は母さんの形見。二人とももうこの世にはいないから」

「……そうか」

 堅羽は初めて充の口から両親の話を聞いた。『まあそうだろうな』というのが正直な感想だ。それでも、充が自分の口からはっきりと話してくれたことが嬉しかった。

「ナポリタン、また作りにきてよ。俺待ってるから」

 向かいの席に座る堅羽をチラリと見て充が笑う。堅羽も笑顔を返して口を開いた。


「ああ。『また』な」



(試し読みおわり)



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