彼女を求めて

 彼女のあどけない笑み。天籟の歌声。下半身を覆う瑠璃色の鱗と尾鰭。

 いつ、どんな場所にいようと瞼を閉じれば、彼女をすぐに思い出せていた。なのに最近、その姿がだんだんと薄らいでいる。前まではあんなに鮮明に思い出せていたのに。

 ――前まで? 前とはいつのことだったろう。

 まあ、いい。

 私はかつて海沿いにある小さな村の長の跡取りだった。貧しくも平穏な村の暮らしに、控えめだが愛らしい許嫁。多くを望まなければ地味ではあるが、順風満帆な将来が待っていた。

 結婚まであと半年という時。彼女と出会った。

 彼女は早朝、浜辺に打ち上げられていた。前夜の嵐で怪我を負ったのだろう、ひどく弱っていた。

 人でないことは下半身を見ればすぐにわかった。息絶え絶えの彼女を、私は誰にも知らせず、人の来ない岩穴へと隠した。人魚など見るのも初めてだったが、手探りで看病をした。

 看病の成果か、それとも彼女が生来持つ生命力の強さか。彼女は少しずつ回復していき、私に心を開いていった。

 彼女は言葉を話せないが、不思議な魅力を持っていた。幼子のような無垢さを持ちながら、時折、はっと驚くような色気を見せる。気づけば彼女から目が離せなくなっていた。彼女といれば、暗く湿った岩穴も理想郷のように感じた。

 少し出かけてくると言って、たびたび姿を消す私を、許嫁が不審に思ったのも、今思えば仕方のないことだ。私が愛おしそうに彼女に触れ、耳元に愛を囁いているところを見つけ、「これは何事ですか」と激しく詰め寄った。

 私は後ろめたさから許嫁に罵声を浴びせた。怒りで顔を赤らめる許嫁は、このことを私の父である村長に言うと言い捨てて村へと駆け出した。

 彼女の存在が他の者に知られるのはまずい! 私は慌てて許嫁の後を追い、その肩を掴んだ。許嫁をなんとか落ち着かせようと言葉を重ねたが、一つも耳に入らないようで、許嫁が興奮するほどに私の中に焦りが募った。ついには揉み合いとなった。暴れる許嫁を押さえつけようと一歩踏み出した瞬間、私は足を滑らせ、崖下の岩礁へと体を強かに打ちつけた。


 数日後。私は目を覚ました。口の中に異様な生臭さを感じ、激しく咳き込んだ。その咳に気づき、許嫁が慌てて枕元に駆けつけて「よかった、よかった」といく筋もの涙をこぼした。

 私はなぜ許嫁が泣いているのか、こうして布団に横になっているのか。大怪我を負っている理由も、思い出せなかった。それどころか、ここ数ヶ月の記憶が飛んでいた。

 私は、一時は命すら危ぶまれた大怪我を負いながら、ひと月とかからずに全回復した。医者は「奇跡だ」としきりに驚いていた。

 回復を待って、私は許嫁と祝言を挙げた。子どもができなかったのを除けば、それからの十数年は幸せなものだった。

 しかし、おかしいのだ。

 妻に白髪ができ、目元に小皺が目立ちはじめても、私の姿は祝言の頃のままだった。

 私を見る周囲の目に奇異さが含まれるようになり、己の中でも明確な違和感を感じるようになった。それに伴い、次第に彼女を思い出した。私はあの岩穴に行ってみたが、当然、誰もいなかった。

 私は妻を問い詰めた。妻は泣きながらに白状した――医者に見放された私をどうにか治そうと人魚を殺し、その肉を私に食わせたのだ、と。

 私は彼女を犠牲に、はからずとも不死の体を得てしまった。もうここでは暮らせない。

 妻はついて行くと言ってくれたが、一カ所に留まることのできない私といても苦労をかけるだけだ。

 それに、彼女の記憶とともに蘇った彼女への想いがまた胸を苦しく燻らせるようになっていた。こんな私といても、また妻を苦しめるだけだろう。


 月日は流れた。もう私を知る者など、どこにもいない。

 愛しい彼女の血肉とともに生きることにどこか喜びを感じていたが、彼女の記憶が薄れ、やがて消えるのならば、私はここにいる意味はあるのだろうか。

 せめてあの時代に写真の技術があったら……と手元のスマートフォンを見下ろす。

 だが、この文明の機器は私に一筋の道標を与えてくれた。

 人魚の目撃情報。その顔は彼女とひどく似ていた。

 彼女の家族なのかもしれない。

 彼女を思い出す契機になるのならば、会いに行こう。大丈夫、この体ならば――。

 私は冷たい海へと一歩、また一歩と足を踏み出した。


【お題:彼女、理想郷、不死の】

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