第9話
翌朝、顛末を話した佐々木は腹を抱えて笑う雨宮を見る羽目になった。
「はっ……はは。傑作だ。驚いたよ。やはり君にはスパイの才能があるのかも知れん」
井尻から受け取った女の画像を見て、更に笑う。上品な諧謔を聞いたかのように。
「復讐するは我にあり、か。素直に従っていればいいものを」
何が面白いのか分からず、佐々木は雨宮の笑いが収まるのを待った。そして恥を忍んで話を切り出す。諸々で使った金は、経費になるのか。士長の給与などというものは大した額ではない。万札を何枚も飛ばして平然としてはいられなかった。
雨宮は再び笑うと、鷹揚に頷いた。
「この画像データを私が買おう。情報提供料だ。それぐらいの価値はある」
安堵する佐々木に、雨宮が態度を改めて釘を刺す。
「しかし、出来れば先に伝えて欲しかった。私達は君に視察の案内は頼んだが、独自に探偵の真似事をして欲しいと望んではいない」
「申し訳ありません」
「プライベートの時間だ。それに、私が君に命令する権限も無い。しかし追われている者は想像以上に敏感でね。これ以上の接触はしないようにしてくれると有難い」
「以後、気を付けます」
返答を聞いた雨宮は立ち上がった。
「済まんが、今日も視察の案内は不要になった。必要になったらこちらから連絡する。君の上官に、そう伝えておいてくれたまえ」
―――――
日曜が過ぎ、月曜になっても佐々木への呼び出しはなかった。
とはいえ、呼び出されたら即座に対応することが求められる。気楽に休むことも出来ない待機よりは、むしろ通常の当直の方がありがたいのだが。そう思いながら無為な時間を過ごす羽目になる。
火曜の夕刻。17時を越えたため宿舎に戻ろうとしたタイミングで、またしても突然に、佐々木は中隊長からの呼び出しを受ける。
「なにやらお手柄だったらしいな」
決して愉快とは言えない表情で中隊長は言った。
「どうもきな臭くなってきたようだ。中央から、内密に新たな支援要請が来た」
それは状況が一段階進んだことを意味していた。これまでは視察の扱い。つまり、公式には自衛隊が関与しないことを暗黙の前提としていたのだ。しかし支援要請という話になれば、この件について正規の出動をしなければならない事態が想定される。
「これまでの経緯があるからな。お前は引き続き、アレの連絡係だ」
「勘弁してくださいよ」
弱々しい佐々木の抗議は、呆気なく無視された。
「繰り返しになるが、言っておくぞ。テロ対策は警察の分野だ。ウチが出張るようなヘマをする訳にはいかない」
国内の治安維持、そして犯罪への対策は警察組織が行うべき仕事だ。対して自衛隊は国家の安全が脅かされた際、脅威の対象を排除するために用いられる暴力装置である。
自衛隊が対テロ活動に投入されるということは、それが一般的な犯罪のレベルに留まらず、国家の安全が脅かされるほどの深刻な事態に達したことの証だ。それは事実上、テロ活動が成功したのと同義だと言える。
中隊長は机の下からバッグを取り出した。佐々木は目を丸くする。
「お前はどこか北海道の原野で、あの雨宮とかいう男に北部方面隊の訓練を披露したことになっている。念のため、持っていけ」
そこまでシリアスな状況なのか。佐々木は敬礼も忘れて立ち尽くす。
「くれぐれも慎重に頼むぞ。下手をするとお前と俺で全ての責を負って、除隊ということにもなりかねん」
―――――
中隊長の部屋を退出する際、佐々木は雨宮の待つ会議室に向かうよう指示された。
ご満悦の表情で迎えられた佐々木は、嫌な予感ではちきれそうになる。
「どうやら査察は滞りなく終わりそうだ」
「それはなによりです」
「だが、状況によっては北部方面隊の支援を要請する可能性がある。乗りかかった船だ。聞いているとは思うが、このまま君に連絡係を頼みたい」
内心で冗談じゃないぞと思いながら、佐々木は真面目な態度で敬礼をする。
「伺っております」
雨宮は椅子に座るよう促した。電子パッドに資料を映して佐々木に示す。
「君の協力のおかげで、女の経歴が分かった」
佐々木は驚いた。
当然、自分からの情報が全てではないのだろう。何か別のルート情報で、あらかじめ目星を付けていたに違いない。それにしても、あれから二日ほどしか経っていないのにもう調査が終わっているとは。
「我が国の情報収集能力は、そんなに優秀なんですか」
雨宮はなんでもないような顔で種明かしをする。
「なに、友好国に協力を依頼しただけだ。要するにKGBとウクライナ保安庁の情報ということになる。確度は高い」
佐々木はなんとも言い難い表情になった。
「当然だろう。戦争は終わったのだ。両国と日本は、テロ防止のために協力する関係にある」
雨宮は画面をフリックし、新たな資料を示す。
「ロシア側の調査により、彼女が所持しているパスポートの人物は別人だと判明した。一方、君が提供してくれたデータから、ウクライナ側からも該当すると思われる人物の資料が届いている」
「では、やはり」
「ああ。前大統領のシンパさ。ウクライナ人テロリストグループの一員だ」
数年間に及ぶ泥沼の戦いの上、ロシア・ウクライナ戦争は終結した。
その帰趨を決めたのは、世界の片隅で行われた際限の無い殺し合いなどではない。
カネ。人を縛る仮想の数字が、全ての結末を決めた。
ウクライナに続き、中東、そして台湾で発生した軍事・政治的な対立は世界経済の変調を招き、欧米や日本の財政を急速に悪化させた。その帰結として、各国はそれまで続けていたウクライナへの支援を相次いで縮小する姿勢を見せた。
ウクライナの人々は国土の奪回を目指した戦いを継続する熱意を持ち続けていたが、各国がウクライナの戦争に関与した戦略目的はロシアの膨張を、あるいはそれに付随した中国の勢力拡大を防ぐことでしかない。
ロシアは既に経済的に破綻し、軍事的な威光を失った。彼らにこれ以上戦線を拡大する余力など残ってはいない。ならば何故、自らの貴重なカネをウクライナの復讐心を満たすために消費しなければならないのか。
自分達にとって最早重要ではない、無益で不毛な行為。
ウクライナ東部とクリミアを巡る戦いは、そう評価されるようになった。
同時に各国は自らの行為を正当化するため、ウクライナに関するプロパガンダの方針を逆転させていく。
かつて奇跡のリーダー、輝ける英雄としてもてはやされたウクライナ大統領は、やがて戦争指導の失敗や政権内の汚職、独裁的な体制などを批判される立場に追い込まれて行く。
それは事実であると同時に、理不尽な言い掛かりでもあった。
ウクライナは戦前から知られた汚職大国であり、芸人上がりの大統領が一朝一夕にそれを改善できよう筈も無い。独裁的な体制が無ければ、どうやって戦争の指揮を執れと言うのか。ウクライナは諸外国の支援が無ければ戦争の継続が出来ない。支援が縮小すれば、戦線は泥沼化するに決まっている。しかしその戦場での苦境が、更なる支援縮小の理由とされていった。
それはウクライナの人々にとって、明白な裏切り行為だった。
戦場では負けず、数では常に優勢だったロシア軍を退けながら。
彼らは信じていた味方から見捨てられたことにより、停戦を強要されたのだ。
彼らはその不義と独善に深い恨みを抱くことになる。
戦後。ロシアとの交渉材料としてEUにもNATOにも加盟出来なくなったことを契機として、ウクライナ政権は反米、反EUの方向に舵を切ることになった。
ウクライナ大統領は国防の絶対条件として核兵器の入手を目指し、IAEAの度重なる警告を無視してそれを成し遂げた。同時に、ロシアに占領されたウクライナ東部、クリミア半島などにおけるテロ活動との関与を噂されるようになっていく。
『核兵器により自国を防衛出来ない国家を、独立国と呼ぶことは出来ない』
『歴史的に我が国の領土である土地は、武力に訴えても奪い取る権利がある』
かつてのロシア大統領の思想を最も忠実に受け継いだ後継者が、彼の侵略を受けたウクライナ大統領自身であったことは、歴史上の大いなる皮肉と言えるだろう。
国内の右傾化を進め、核兵器とテロを世界に拡散する国家。
ロシアよりもウクライナこそが欧州の不安定化要因であるとの認識が進み、欧米各国が警戒の目を向け始めた頃。
ウクライナ首都キーウにおける記念式典で、一発の銃弾が放たれた。
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