第8話
明日も仕事があるという口実で、佐々木は早めに店を辞した。そのままの足ですすきのに向かう。ここまでやる必要があるのか、という疑問もあったが、酔った勢いと好奇心が勝ってしまった。
店のドアを上げると、安っぽいケバケバしさを暗さで誤魔化したレイアウトが佐々木を出迎えた。片隅にあるカラオケが、店の格と客層を示している。
酔客の一見を装い、一時間のコースを選ぶ。どんなタイプが好みかですかと聞かれたため、適当にブロンドと答えておいた。本人と接触するのは危険だということぐらい、佐々木も弁えている。様子が伺えれば、それで良かった。
テーブルに付いた女は佐々木の好みからするとふくよか過ぎたが、陽気で口が軽そうでもあった。気前よく酒をおごり、軽く身の上話を聞き出す。三十代と思われる女は、想像どおりロシアからの避難民だった。あけすけに、子連れで日本に逃げてきたことを明かす。
「仕事ある、きちんと食べられる。お金もくれる。日本、いい」
それなりに流暢な日本語で女は言った。ひょっとしてと思い、小声で尋ねる。
「倉田のことを、知っているか?」
女の顔に驚きの表情が浮かんだ。
「倉田さん、知り合い?」
「ああ、高校時代の友人だ」
「倉田さん、死んだ。かわいそう」
女は沈痛な顔をした。
「アンナという女について教えてくれないか。倉田が付き合っていたという」
女の顔に警戒の色が浮かんだ。
「なに、警察?」
しまった。佐々木は慌てて取り繕うとする。
「違う、倉田の両親に頼まれたんだ」
どうしたら良いか分からず、畳んだ一万円札をテーブルの下で女に差し出した。一瞬の間に様々な感情を巡らした後、女はそれを受け取る。身体を密着させて、耳元で囁いた。
「なに、聞きたい」
逆に言い淀んでしまった佐々木に、女は勝手に話出す。
「倉田さん、親切だった。ちょとスケベだけど。騙さない。大事」
倉田が世話を焼いた外国人は一人二人の話ではないのだろう。考えてみれば当然だ。札幌はそんな外国人で溢れている。役所で担当をしていれば、山のように相談を受けていたに違いない。
「みんな好きだたよ。でもあの女、後から来て、独り占めしようとした」
促され、佐々木は視線を追った。別のテーブルで接客をしている、こげ茶色の髪をした女の姿が見える。
睦言のようなゆったりとした吐息が、佐々木の耳にかかる。
「あれ、ロシア人じゃない。嘘」
確信を突く言葉に、佐々木の心臓が跳ねる。
「わたしたち、協力する。他の国で生きる、大変。なのにいつも一人」
男には理解出来ない、情念を込めた声。
「私たちと話、しない。住んでいた街のことも。嘘、ばれるから」
女が身体を離した。感じていた体温が消えていく。
「それにね」
女の瞳が昏い響きを帯びる。
「あれ、私たちを憎んでる。分かる」
佐々木と視線を合わせてから、女は立ち上がった。先ほどの表情が嘘のような笑顔を佐々木に向ける。
「ここまで。あとは自分で聞くね」
女は勝手に手を挙げ、黒服を呼んだ。
おい、ちょっと待ってくれ。佐々木はそう思ったが、女は黒服と一緒にアンナと思しき女に近づき、短く言葉を交わす。こげ茶色の髪をした女が席を立ち、ゆっくりと佐々木に近づいてきた。
「倉田さんの友達なの?」
先ほどの女よりも遥かに流暢な日本語だった。
「あ、ああ」
整理がつかないままの頭で、佐々木は答えた。アンナが向かいに座る。
アンナの風貌は、佐々木が抱く純然たる西洋人のそれよりも柔らかい。アジア系の血が入っているのかも知れなかった。
井尻の写真とは、随分イメージが違うな。そう思いながら、佐々木は水割りをぐいと飲み干した。
「倉田は死んだ。知っているな」
アンナは黙って頷いた。
「あー、いや。済まん。深刻な顔で話をしたいんじゃない」
間を持たせるため、佐々木は黒服を呼んだ。アンナに酒を注文させて時間を稼ぐ。
まずい。この女と直接話をする積りはなかった。会話して何かを聞き出したところで、それが本当である証拠などどこにもない。ただ単にこちらのリスクが上がるだけだ。
「俺は、倉田の両親に頼まれただけだ。もうあいつは死んでしまった。だから咎めるようなつもりも無いし、今更だとは思うが」
佐々木は酒の回った様子でぽつぽつと、やや取り留めも無い口調で語った。
「倉田には、どこまで本当のことを話していたんだ。あいつの両親は、君には母国に夫や子供がいるんじゃないかと疑っていた」
追い過ぎてはいけない。本当と嘘のバランスを取って、疑われないうちに引き下がるべきだ。表面とは裏腹に、佐々木は慎重に言葉を選ぶ。
「言いづらいかもしれないが、本当に結婚するつもりはあったのか? いや、答えたくないならば、それでも構わない」
返事など期待してはいなかった。しかしアンナは一口酒を含んだ後、真面目な口調で答えた。
「夫がいたわ。だけど死んだ」
佐々木はじっと彼女を見る。その表情は、嘘を吐いているそれには見えなかった。
「どこかの戦場でね。死体は酷い有様だった。ロクデナシの男だったけれど、あんな死に方をしなければならないほど悪い人間ではなかったと思う」
淡々とした口調の中に、拭いきれない哀しみがあった。
「倉田さんとやり直そうとしたけど、やっぱりダメだった。それだけの話だけど、満足?」
彼女が笑う。自暴自棄にも似た諦観。
「悪かった。辛いことを言わせた」
「いいえ。もう、終わったことだもの」
彼女が再びグラスを傾ける。
「ひどい人生。どこにも神様なんて居ない。それが良く分かった。もう何もかも、壊して投げ出したいような気分」
佐々木は黙ってそれを聞いた。
心の奥底で、女に対する同情の念が芽生えるのを感じる。
「歌わない?」
ふいにアンナが言った。端末を操作し、こんな店に相応しい時代遅れのデュエット曲を呼び出す。佐々木は黙って立ち上がり、差し出されたマイクを受け取った。
前奏が始まると、女は身体を寄せてきた。安物の香水と体臭の織り交じった匂い。暖かな体温。佐々木はその肩を抱いた。女は逆らわない。
倉田は、どんな風にこの女を抱いたのだろうか。そんなことを考えながら、佐々木は慣れぬ曲を歌い続けた。
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