第3話 202✕年4月 日本 札幌

 4月の北海道はまだ肌寒い。とは言え温暖化の影響なのか、ひと昔前では考えられないほど春の訪れは早くなっている。

 札幌駅から直線で南に5キロほど。自衛隊前駅には、幾つものポスターが貼られていた。右下に記された平和条約締結セレモニーまでの日付は日々書き換えられている。

 駅から道路を挟んだ向かいには北部方面隊の真駒内駐屯地があり。

 その廊下を、佐々木 裕司 陸士は規則正しい速足で進んでいった。


 呼び出しは突然だった。

 いつものように制服に着替え、服装を点検したところで、慌てた様子の同僚に声をかけられたのだ。

「佐々木士長」

 強張った口調に、佐々木は何かのトラブルだと直感する。

「中隊長がお呼びだ。おい、今度は何をやった?」

 声を潜めて訊かれるが、佐々木に心当たりはなかった。

「何もしていないはずだが。……中隊長はどんな様子だった」

「なんだか難しそうな顔してたぜ。まあ、頑張れ」

 無責任な応援の声をかけて同僚は立ち去る。はて、まだバレていない悪事があっただろうかと訝しみながら、佐々木は中隊長室へ急ぐ羽目になった。


 ――――


 ざっとした説明を終えた中隊長は、どこか捨て鉢な口調で言った。

「と、いうわけで貴様は関係省庁からの視察に協力する役になった」

「謹んで拝命いたします」

 そう形式ばって答えた後、佐々木は態度を崩した。

「にしても、よく分からん内容ですね」

 中央から視察に来る『お客様』の接待。通常の任務を外れ、専属でそれを行う。

「だいたい、なんでオレなんですか。こんな内容だったら、他に適任が居ると思いますが」

 中隊長は、少し前まで佐々木を直接率いる小隊長の任に就いていた。台湾海峡危機の際にも、共に出動をしている。

 無数の投石と、それに支援された群衆の突進。もう二度と味わいたくはない恐怖の中、同じ陣地を守った者同士だけが抱ける気安さがあった。

「知らん。先方のご指名だ。こっちこそ聞きたいぞ。貴様、首相の直属機関と何か関係でもあったのか」

「んなワケないでしょ」

 佐々木はぶるぶると首を横に振った。


 ロシアとの重要な条約締結を前に、東京の役人が北部方面隊の緊急即応能力を確認するために視察を行う。あり得ない話ではない。しかし表向きの話とは異なり、どうも怪しい動きを伴っていた。

「俺にも知らされておらん事情が裏であるらしい。だからこれから語る内容は、単に上からの指示をそのまま伝えるだけだ。俺に理由を聞くなよ」

 中隊長は苦い顔で話を続けた。

「視察においては最大限、相手の要望を受け入れろとのことだ。多少の話なら後で俺が引き取る」

「多少とはどこまででしょう」

「俺が揉み消せるまでだ。上手く判断しろ」

 それは一昔前だったら考えられないほど、政治的で危険な指示だった。台湾海峡危機で護衛艦を一隻大破させられ、三つの駐屯地に中国人デモ隊の突入を許した経験を経て以後、良くも悪くも自衛隊の流儀は大きな変化を遂げている。


 それにしても、とんでもないことになりそうだ。任務を拒否して懲罰房に入った方がマシだったかも知れないと、佐々木は後悔する。

「言うまでもないが、今は微妙な時期だ。いいか、東京の連中が勝手をしたいなら好きにさせろ。ただし話をこっちにまで広げるな。北部方面隊は無関係だ。最悪でも、貴様個人の範疇に留めろ」

 それって、オレは人身御供ってことじゃないのか。

「定時連絡は直接、俺の番号に掛けていい。他に質問は」

 付け加えられた一言は、確認ではなかった。いいからとっとと言われた通りに動け、という意味だ。

「全力を尽くします」

 だから佐々木は姿勢を正し、命じられたままに敬礼するしかなかった。


 ―――――


 日本とロシアの間に平和条約締結の機運が生まれたのは、ロシア・ウクライナ戦争の停戦後に発生した、ロシアの大混乱が原因だった。

 軍事的威信は霧散し、経済は崩壊寸前。そして戦争というタガが外れたことによる後継者争いの激化。一時はモスクワ市内で銃撃戦が頻発する内戦寸前の状況となり、多数のロシア人が国を逃れることになった。

 北海道には現在も、毎日のように大量の『難民』が殺到している。


 そんな中、日本の一部政治家から、北方四島と南樺太を買い取る提案が発せられたのだ。

 さすがに即座の移行にはロシア側も同意できない。そのため、まずは共同統治の形態をとり、30年後の返還を目指すという形式をとることになった。日本側はその代償として毎年500億円、総額1兆5000億円をロシア側に支払う。同時に、当時発生が予測された国際的な非難をかわすため、日本が支払うカネはロシアからウクライナに対する賠償金、正確にはロシアが無償援助する復興基金の原資とすることも定められた。


 絵を描いた政治屋に言わせれば、これは素晴らしい取引だった。長年の懸念であった北方領土を取り戻せるとともに、ロシア側とのパイプを強化することで経済的な互恵関係を構築することができる。戦争が終わった今、その利益は計り知れない。

 北方領土には膨大な海産・地下資源がある。さらには温暖化の進行に伴い、樺太は農地としての価値が大きく向上する、という算段も示された。

 試算によれば、その経済効果は年500億円の支出を遥かに上回り、更にはウクライナの復興支援という国際的な公約を果たすことにも繋がる。まさに良いことづくめ。素晴らしきバラ色の未来を彼等は謳い上げた。


 しかし、当然ながら懐疑的な声もある。

 ロシアの混乱は余りにも深く、経済的なパートナーとして扱うにはあまりにも不確実性が高すぎた。北方領土の経済的価値についても、見込みが楽観的に過ぎ、根拠に欠ける部分が多い。

 ウクライナの復興支援についてもそうだった。ロシアが確実に基金を提供する保証はどこにもない。それ以前に、ウクライナ支援をどう継続していくのかについて国民的な合意が取れていないという問題がある。


 何より問題視されたのは、ロシアが条約破りの常習犯であるという事実だった。

 ロシアの国内向け報道においては、この条約は『共同統治を30年続け、その後に返還するかを協議する』という趣旨で周知されていることが判明している。日本が返還を確定事項としているのに対し、ロシアの認識は異なるということだ。この点は看過できない問題で、返還の実現を疑う声は少なくない。。

 国会で条約の締結が承認された後も賛否を巡る議論は絶えず、調印式が予定されている会場付近では、小規模なデモや互いの主張をぶつける演説が日常行事になりつつある。


 ここ北海道は政治の乱気流の中、極めて不安定な状況にあった。

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