第180話 それが、余計なお世話だとしても

 差し入れのカフェオレを飲んですこし気分を落ち着かせて、私はふぅ、と短く呼気を吐いてから対面に座るマスターへ問いかけた。


「その、マスターはやっぱり知ってたんですね。一ノ瀬先輩が、女の人が嫌いだってこと」

「もちろん。だって私はあの子の保護者だからね」

「そうですか……って、え?」


 保護者?


 ぱちぱちと目を瞬かせると、マスターはそんな困惑する私を見て「そういえば」と何か思い出したように呟くと、自分の左胸元に飾られているネームバッジに指を当てて告げた。


「清水さんにはまだ言っていなかったね。私と煉は伯父おじおい、つまり家族なんだよ。そして、今は訳あって一緒にんでいる」

「うええええええええええ⁉」


 衝撃の事実に打ち震える私。そんな驚愕する無知な新人バイトに、マスターはカラカラと愉快そうに笑う。


「ほら、ネームバッジも同姓だろう」

「た、たしかに!」

「入社当日に気付くと思ったんだけどね」

「いや、さすがに気付いてはいましたよ。でも、同じ苗字なだけで、二人は赤の他人なのかなぁ、って」

「でも私と煉とのやり取りを見ていて親しげな雰囲気は感じてただろう?」


 その指摘に私は微苦笑を浮かべてこくりと頷く。


「いや……まぁ、それはずっと感じてました。マスター。他の従業員は皆苗字みょうじで呼ぶのに、一ノ瀬先輩だけは名前で呼ぶなーと」

「同姓だと判別するのが難しいから苗字じゃなくて名前で呼ぶことは学校でもあるだろう?」

「あー。ですね。私のクラスにも同じ苗字がいるので、その子たちのことは区別をつけやすくする為に名前で呼んでます」

「私が煉のことを名前で呼ぶことはそれと同義と捉えてもらって構わない。とはいっても、大抵皆からは、私はマスター、煉は苗字で呼ばれているから、自然と区別がつけられているんだけどね」


 マネジャーも自分のことを名前で呼んではくれないから少し残念、と落ち込むマスター。それが本音なのか冗談なのはさておき。


「でも、まさかマスターと一ノ瀬先輩が家族だったなんて。でも、そう言われてみればたしかに目元とか似てる気がする……ん? でも訳アリで一緒に棲んでるって、それってどういう意味ですか?」

「それについては煉のプライベートにも関わってくることだから詳細は教えることはできない。ただ、昔色々あってね。煉は中学の頃に親元を離れてこっちに越して来たんだ。弟……煉の父親からしばらく煉の面倒を見て欲しいとお願いされてね。それを引き受けて、今は一緒に暮らしている」

「一ノ瀬先輩、ここが地元じゃないんですね」

「あぁ。煉も私も、出身地は別だよ」


 次々と明かされていく情報を脳が上手くさばき切れていない。一つ、一ノ瀬先輩の秘密に踏み込んでいく。それを実感する度に、胸中に衝撃と不安、焦燥と恐怖が増していく。


「――一気に教えすぎたね。すこし休憩しようか」

「……ありがとうございます」


 マスターの気遣いを素直に受け取った私は、急速に乾いていく喉をうるすように手元に置いてあるカフェオレを飲んだ。


 芳醇な豆の香りとコク、そしてミルクの優しい甘さに胸裏に渦巻く葛藤が和らいでいく。でも、それは気休め程度にしかならない。


 私はコップをテーブルに置くと、怖気づいて立ち止まってしまう前に再びマスターとの会話を再開した。


「マスターと一ノ瀬先輩の関係は分かりました。それと、色々と複雑な事情もあることも」


 けれどそれああくまで前座に過ぎない。前座にしては衝撃が大きかったけど、でも、私が今一番知りたいのは、一ノ瀬先輩の秘密じゃない。


 私が一ノ瀬先輩の伯父さんに確かめたいのは、


「どうして、一ノ瀬先輩を私の教育係にしたんですか?」


 一ノ瀬先輩が女嫌いということを知っていて、その苦悩も理解しているはずの彼の伯父に問いかける。


 なぜ、先輩を苦しめるような真似をするのか。


 訴えるような、糾弾きゅうだんするような私の鋭い視線に、マスターは自嘲するような笑みを浮かべながら答えた。


「これが粗治療あらちりょうだとは素直に認めるよ。しかしそうでもしないと、もう煉の女性不信は改善されないと気付いてしまったんだ」

「どうしてですか?」

「理由は至って単純だよ。これ以上は打つ手がないんだ」

「――――」


 すこし悲し気な、どこか諦念ていねんを感じさせる声音に、私は返す言葉が見つからずに口をつぐむ。


「煉の女性不信は清水さんが想像しているよりも深刻でね。今でこそ多少マシになって相手の顔を見なければ普通に会話できるようになったが、以前は女性が近づいただけで体調を崩すほどだった」

「……そんなに」


 そう言われればたしかに重症だ。人とコミュケーションを取るのが苦手、そんな人を私も見たことがあるし、私の親友にも一人ほど思い当たるヤツがいるけど、マスターが語る一ノ瀬先輩の状態ほど重症ではなかった。今でこそソイツは学年一の美女と付き合って陽キャ街道まっしぐらだけど。……あ、最悪だ。なんか思い出したら急に腹が立ってきた。


 一瞬脳裏に湧いた成り上がりイケメンは早々に頭から追い出して、私はマスターとの会話に集中する。


「でも、一ノ瀬先輩、学校だと普通に女子と話してます。それに、私とも。目はあまり合わせてはくれませんけど、少しずつ回復していってるなら、無理に急かす必要はないと思います。――治ってないのに無理にかさぶたをめくれば、綺麗に取れなくて血が出るだけ。傷の治りが遅くなるだけです」

「…………」


 それが誰に向けての言葉だったのかは、自分でも分からない。ただ、私はよく知っているから。


 もう元には戻らないと理解しておいて、それでも元の状態に戻そうとしてぐちゃぐちゃになっているどっかの誰かさんを。


「――清水さんの言い分にも一理ある。でも、あの子の保護者としてはやはり傷を治して前に進んで欲しいんだ。もしこの先、煉の進む道に、あの子が抱えたトラウマが障害となってしまうことがあるなら猶更。そこで立ち止まって諦めてしまえば、それこそ今より大切なものを失ってしまうかもしれない」

「だから、一ノ瀬先輩に無理をさせるんですか?」

「厳しい保護者だと自覚はしているよ。でも、このままここで立ち止まってしまうよりはずっといい。立ち止まった先にあるものは停滞しかなく、後ろに振り向いてもあるのは苦い思い出だけだ

 マスターはそこで一度言葉を止めると、「清水さん」と私の名前を呼んで、


「人は傷を抱えたままでも、地面にいつくばったままでも前に進めるんだ。それがゆっくりでも、未来へ歩むことに変わりはない」

「――――」

「だから私は多少強引でもあの子を前へ進ませる。たとえ他人に鬼畜とののしられようとも、それで煉の将来の選択肢が増えるのであれば、私はあの子からも嫌われても構わないと思っている」


 声音からひしひしと伝わって来る。マスターの、一ノ瀬先輩に馳せる想いが。それが嘘でもなく、ましてや中途半端な覚悟でもないと、この胸に伝わって来るから。


「マスターは、私と一ノ瀬先輩がこのまま一緒に仕事して、それで本当に治ると思ってるんですか?」

「それは煉次第だ。あの子は自分を臆病者だっと思っているが、私はそうは思っていない。煉は芯のある子だ。今はただ、人を信用できなくなってしまって、そういう自分に嫌気が差しているんだろう。きっかけさえあれば、煉はきっと過去を乗り越えられる」

「信じてるんですね。一ノ瀬先輩のこと」

「当然だろう? だって私は煉の伯父なんだから」


 躊躇ためらうくことなく言い切ったマスターに、私は思わずくすっ、と笑ってしまった。


 それは緊張した空気がわずかに弛緩しかんした瞬間で。そして、私の覚悟が決まった瞬間でもあった。


「このまま、私が一ノ瀬先輩の一緒にお仕事をして、それで少しでも一ノ瀬先輩の女性不信が治る可能性があるなら……」


 たぶん。迷惑をかけるばかりで、足を引っ張るばかりで、先輩の力になれるような存在にはなれないと思う。


 それでも、過去につまづいて前に進めない気持ちは、痛いほどに理解できるから。


 だから、


「私、マスターに協力したいです。私にできることなら、なんでもします」


 この決断がきっと、私の未来にもつながると信じて。

 力強い瞳で告げれば、マスターはその返事に嬉しそうに口許を緩めて、


「――ありがとう。清水さん。キミがメモリアに来てくれてよかった」

「お礼、言うの早すぎます。私、まだここで働き始めて一週間も経ってないんですよ」

「はは。たしかにそうだね。それなら、このお礼はまた今度。清水さんが煉と仲良くなった時にさせてもらおうかな」

「うっ。仕事覚えるよりも難しい注文オーダーですね」

「そう気構える必要はない。さっきも言ったが、清水さんは清水さんのまま、あの子に接してくれ。そうすればいつかきっと、煉の方からキミに歩み寄るはずだから」

 

 コーヒーカップを片手に持ちながら、マスターは未来に想いをせるようにそう言った。私はその言葉に現実味ないなぁ、と苦笑を浮かべながら、乾いた喉を潤すようにカフェオレをぐっとあおる。


 ぷはぁ、と豪快に息を吐くと、それを見てマスターが可笑しそうに笑って。


「やはり、煉の心を開くことができるのは、きっとキミみたいな子だよ」

「マスター? 何か言いましたか?」

「いいや。気にしないでくれ。ただの独り言だよ」


 はて、と小首を傾げる私を、ひざ元でくつろぐ猫が「にぶちん」とでも言いたげに鳴いていたのは誰も知らなかった。



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