第187・5話 夜の茶会

「おつかれ清水さん! 少しずつ接客上達していってるから、この調子で頑張ってね!」

「はいっ! ありがとうございます!」

「それじゃあ明日もよろしくね。お疲れ様~」


 おほほ、と上品な笑いを上げながら去っていく米女さんに、私「お疲れ様です」と挨拶を告げて頭を下げる。


 その数秒後に顔を上げた私は「よしっ」と短く呼気を吐くと、これから始まるマスターとの話に向けて気合を引き締めた。意を決して、私は更衣室から数メートル先にある事務所へと歩き出していく。


 やがて事務所の扉の前に足を止めると、扉をノックする前に数回、深呼吸を繰り返した。


 心臓の鼓動は落ち着いているけど、さっきからずっと緊張は止んでいない。それでも、いつまでも尻込みする訳にもいかないから。


 コンコン、と少し震える手で事務所の扉をノックした。


「……あれ、マスター、いない?」


 四角く縁どられた窓から照明が差し込んでいるからてっきり事務所にいると思ったけど、扉をノックしても返事が返ってこなかった。


 もう一度ノックしてもやはり返答はなかった。どういうこと? と首を傾げていると不意にバックルームとキッチンを繋ぐ扉が開く気配がした。


 そちらに振り向くと、まだユニフォームのマスターが開いた扉から顔だけをひょこっと覗かせて現れた。


「おや、もう着替え終わったみたいだね」

「……マスター。なんだ、キッチンにいたんですね」

「あぁ。勘違いさせてしまったか。これからする話し合いの準備をしていたんだよ」


 こっちこっち、とマスターにキッチンへ来るよう手招きで誘導されて、私は小首を傾げながらもとりあえずマスターの指示に従う。


「もしかしてキッチンで話し合い? いや、流石にそれはないか」


 事務所ではなくキッチンに誘導された意図がイマイチ分からなかったけれど、余計な思考はめてマスターの指示通りに事務所を離れていく。


 そしてすぐにキッチンに着くと、香ばしい香りが私の鼻孔をくすぐった。


「今日もお仕事ご苦労様。清水さん。カフェオレは飲めるよね?」

「え……は、はい」


 マスターにそんなことを質問されて戸惑う私。ぎこちなく頷けば、マスターは「ならよかった」と穏やかな微笑を浮べて、


「今準備するから、適当なテーブルに座ってくつろいでて」

「いや大丈夫ですよ! 飲み物なんて用意してもらわなくても、まだ水筒もすこし残ってるので!」

「まぁまぁ。そう遠慮しないで。これは私の話に付き合ってくれるお礼だから。それとも、私がれたカフェオレはお口に合わないかな?」

「そ、そんなことはありませんけど……むしろ好きです」

「なら何も問題ね」


 あ、これ断れないやつだー。


 マスターの否定を許さぬ笑みにそれを悟って、私は「ありがとうございます」と頬を引きつらせながらマスターからのご厚意を受け取ることにした。


「にゃー」

「……コタロウさん」


 ホールへ移動しようとすると足元に聞き慣れた鳴き声が聞こえて、視線を下げればそこにはこのお店の看板猫でありマスターの飼い猫でもあるコタロウさんが私の足に頭をすりすりと擦りつけていた。


 今日はもう仕事も終わっているからと愛くるしい黒猫を両手で優しく持ち上げて抱きしめると、コタロウさんはこれまで以上に心地よさげに「んみゃぁ」と喉を鳴らした。


「あはは。ほんと、コタロウさんは可愛いなぁ」


 腕の中で心地よさそうにまったりしているコタロウさんに癒されていると、そんな様子をマスターが柔和な微笑みを浮かべながら見つめていた。


「コタロウは人懐こいが、清水さんには特に懐いているように見えるな」

「そうなんですかね?」

「あぁ。コタロウの飼い主としては少し妬けてしまうな」


 そう言うわりにマスターの表情は穏やかで、ご機嫌なコタロウさんを微笑ましそうに見守っていた。


「コタロウも清水さんともう少し一緒にいたいようだし、飲み物ができるまでコタロウを構っててもらえないかな?」

「それはむしろ私の方からお願いしたいくらいです!」

「はは。それじゃ、よろしく頼むよ」

「んにゃ」


 マスターからの許可も出たので、私はコタロウさんを抱きかかえたままキッチンを出て行く。ホールに出て適当なテーブルに腰を降ろしたあと、私はコタロウさんを膝の上に置いてその魅惑みわくの黒い毛並みを堪能させてもらった。


「にゃっはぁぁぁ。コタロウさん。今日はいつもよりサービス多めですねぇ」

「んにゃぁ」


 頭を撫でたり、背中を撫でたり、喉を撫でるとその全部にコタロウさんは愛らしい撫で声を上げてくれた。


 そうしてつかの間の時間、お店の看板猫とじゃれ合っていると、


「お待ちどおさま。はい、私特製カフェオレ」

「あ、ありがとうございます」


 キッチンからトレーを持ったマスターがやって来て、差し入れのカフェオレを私のメモの前に置いてくれた。


 マスターは自分用のコーヒーが注がれたマグカップをテーブルに置きながら対面席に座ると、「さて」と前置きして、


「コタロウのおかげで、いくらか緊張もけただろう」

「……はい」


 マスターの問いかけに、私はこくりと短く頷く。


「マスターに聞きたいことがいくつかあります」

「あぁ。清水さんが知りたいことを教えよう」


 浮かび上がった穏やかな微笑みは、まるで最初からこうなることを予見よけんしていたようで。


「それが、キミを私の身勝手に付き合わせてしまったことへの代価だからね」


 そうして、私とマスターの二人、そして黒猫一匹を交えた夜の茶会が始まった。


 


あとがき

続く188話は27日(日)か28(月)に更新できるように頑張ります!

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