第180話  ダメだからこそ

 海星さんが自宅にいる日は、俺はリビングで寝るのが恒例になっている。


 流石に親がいる部屋の隣で夜の大運動会なんて始めたら警告は必至。同じベッドで寝ると何をしでかしてくるか分からない彼女とそんな日まで共寝は危険と判断してこのような形式となったわけだが、やはり藍李さんは最後まで納得していない様子だったが、俺も譲るわけにはいかず強引に押し切らせてもらった。


 俺が海星さんと同じ部屋で寝る、という方法が最も安全なのは分かっているが、流石に恋人の親と共寝をする度胸はなかったので、なし崩し的にリビングに織布団を敷いて寝ることになったわけだ。


 そして時刻は深夜を回り、自主勉を終えて眠りに就こうと目を閉じた数分後だった。


 まだ覚醒中の意識にふと、どこかの部屋の扉がガチャ、と静かに開いた音を鼓膜が捉えた。次いで、ぺたぺたと床を踏む足音が聞こえてくる。


 それはゆっくりと、慎重に、気配を殺してリビングこちらに近づいてきていた。


 それから間もなく足音がリビングに侵入すると、一度ぴたりと音が止んだ。まるで何かを探しているような静寂の時間が数秒続いたあと、またぺたぺたと床を踏む音が鳴り出す。


 段々とこちらに近づいてくる足音と気配。それはやがて、横たわる俺の前で静止した。


 見下ろされてる。と感覚で分かった。


 まだ目を瞑っただけで、深層意識の中に潜っていない俺は、その気配に自分がまだ起きていると気付かれないようにわざと静かな寝息を立てる。


「すぅ、すぅ、すぅぅ」

「……もう寝ちゃったかな」


 ぽつりと、小さな声が何かを確かめるようにささやいた。


「それならそれで、寝てるしゅうくんを好き放題できるからいいや」

『――えぇ。部屋に戻らないのかよ』


 俺が寝ていると諦めて引き下がると思いきや、気配はむしろ嬉しそうに声音を弾ませた。それに、俺は胸中で苦笑い。


 静かに。できるだけ音を立てないようにと細心の注意を払いながら徐々に高度を下げていく気配の塊。


 瞼を閉じる俺との距離を詰めていく黒影はこの緊迫感かあるいは興奮か潜めていた吐息を段々と荒げていって、そんな吐息が俺の耳元を通過し、ついには頬を掠めた。


「あはぁ。しゅうくんの寝顔、いつ見ても可愛い……ふふ。本当に・・・、可愛い」


 じぃ、と顔を見つめられてる。

 

「触ったら起きちゃうかな。寝て・・どれくらい経ったかなぁ。あぁ、写真撮りたいなぁ」

「……すぅ、すぅ、すぅぅ」


 銀鈴の鈴に甘さを加えた声音が俺の耳元で小さく、眠っているフリをしている俺を起こさないように注意を払いながら囁いている。


 数分ほど人の寝顔を堪能する気配の独り言を聞いて、その間どうにか反応しまいと必死に耐えているとついにこの膠着こうちゃく状態に綻びが生じた。


 先に限界を迎えたのは、こちらをじぃ、と見つめる気配の方だった。


「あぁだめ。もう我慢できない」


 これほど長い時間寝息を立てている俺を見てもう完全に眠っていると判断したのだろう。ゆっくりと蠢く黒い影は、横たわっている俺の上で跨った。左右の手と膝を敷布団に着地させて、いわゆる四つん這いになって俺の上にいる。


 そして、黒い影はそのまま眠っている婚約者の退路を断つと、ゆっくりと薄い織布団を引き剥がそうと手を伸ばして――


「――何してるの、藍李さん」

「あ。やっぱり寝てるフリしてた」


 ぱし、と伸びる手を捉えて閉じた瞼を開ければ、眼前、うっすらと輪郭を捉える女性は一瞬だけびくっと肩を震わせて、その後すぐに嬉しそうに口許を緩めた。


「俺が寝てるフリしてたの気付いてたんですか?」

「うん。じっと見つめた時に瞼がピクピクって動いてたから」

「顔に出さないように耐えたんだけどなぁ」

「ふふ。私に演技は通用しないよ」


 にこり、と笑う藍李さんに、俺は痛感して苦笑い。


 それから、俺はかぶりを振ると見下ろしてくる藍李さんを半目で睨んで言った。


「俺の寝顔堪能するだけならいいけど、でも夜這いはダメだよ」

「むぅ」


 やっぱり俺を襲いに来たらしく、見下ろしてくる彼女に呆れながら注意すれば返事の代わりにぷくぅ、と頬が膨らんだ。


 露骨に不機嫌そうな藍李さんは、拗ねた顔のまま俺を襲おうとしていた体勢から横並びになるように隣に寝転がった。


「ちょっとくらいいいじゃん」

「夜這いにちょっとも何もないと思います」

「一回戦だけならちょっとでしょ」

「もうやってるじゃん。ゴング鳴らした時点でアウトですよ」

「うむぅ。しゅうくんのケチ」

「ケチじゃありません。そういう約束だったでしょ?」

「私は頷いた覚えないよ?」

「……うぐ」


 藍李さんを説得できないまま強引に押し切ってしまったことがここで仇となり、彼女の言及に俺は反論材料を失くして歯噛みした。


 恋人を言いくるめてご機嫌そうに鼻を鳴らす藍李さんに、俺は苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべて説得を続けた。


「たしかに藍李さんは最後まで、つか今も納得してないみたいですけど、でも今日は海星さんが家にいるんですよ。だから今夜は我慢してください」

「嫌だって言ったら?」

「けっこう本気で突き放すかも」


 最愛の人にそんな乱暴な真似はしたくないけど、でも言うことを聞いてくれないならこっちだってそれなりに力づくで解決手段を取るしかない。


「求めてくれるのは嬉しいです。俺だって本音を言えば無茶苦茶応えたい。でも、我慢する時はお互いに我慢しよ?」

「むぅ」

「藍李さんはそんなに聞き分けの悪い人でしたか?」

「その言い方はずるいよ」


 ずるくてもなんでも、それで藍李さんを止められるなら何でもいい。


 寂寥を帯びた瞳が、不安そうに揺れながら問いかけてきた。


「しゅうくんは聞き分けの悪い女嫌い?」

「嫌い、って言ったら?」

「しゅうくんに嫌われたくないから、素直に応じます」

「ありがと。ちゃんと俺のお願い聞いてくれて」

「私もごめんね。変な衝動に駆られてしゅうくんに迷惑かけるところだった」

「未遂だから気にしなくていいですよ」


 反省する藍李さんの頭を優しく撫でると、先程までの不安げな表情が一気に安堵に溶けて猫のような撫で声が上がった。


 愛らしい仕草を魅せてくれる彼女に俺も自然と頬が緩み、さらさらな黒髪を撫でる手に親愛がこもる。


「今夜できない分は明日ちゃんとしてあげるから。だから今夜は抑え――んっ」

「――ちゅ」


 今夜は抑えて、と伝えようとした口が突然、柔らかな唇に封じられた。


「――っ!」


 何の脈絡もなく、不意打ちにもほどがあるキスを喰らって瞠目する俺。


 驚愕のあまり硬直する俺の視界に、甘い香りを残してゆっくりと顔を離していく藍李さんが映る。


 黒瞳に映す紺碧の瞳は、何か、せめぎ合う感情に抗うように揺れていて。


「今夜は、ちゃんと我慢します。でも、少しだけしゅうくんとイチャイチャこうしたい。それもだめ?」

「~~~~っ」

「しゅうくんがダメっていうなら、今夜はこのまま、大人しく自分の部屋に戻ります」

「……卑怯だよ、そんな言い方」


 ずるい。


 そんな切なさそうな顔で、潤んだ瞳で見つめられながら訴えられたら、男なら誰だって意思が揺らいでしまう。


 ましてや、アナタを愛して止まない俺が、そんな可愛いおねだりを拒めるはずがないのに。


 長い長い悶絶を終えて、俺は諦観を悟ったような深い吐息をこぼした。


 それから、俺は見降ろしてくる女性に向かって、こう言った。


「エッチなことはしません。そう誓ってくれるなら、いいよ」

「――っ! うん。エッチなことは今夜は我慢します。その代わり、寝るまでの間、しゅうくんの温もりを少しだけ感じさせてください」

「結局押し切られてしまった」

「えへへ。ありがと。私の無茶ぶりに応えてくれて」

「はぁ、藍李さんがそれで満足してくれるなら、俺はもう何でもやるよ」

「しゅうくんのそういう所が大好き」

「――っ。あぁぁ。それも、ほんとにずるいです」


 結局俺は、どうやったってこの人には逆らえないんだ。


 必死に塞ごうとしていた欲望の蓋をさっきのキスで罅を入れられて、その隙間から抑え込んでいた激情が溢れ出していく。


 そして結局は自分に負けて、可愛い彼女に押し切られてお願いに応えてしまう己の脆弱ぜいじゃくさたるや。そのあまりの意思欲の弱さについ嘲笑が洩れてしまった。


 頭は依然と警鐘を鳴らしてくれている。けれど、それとは裏腹に俺の手はすでに彼女の熱を求めていて。


「――んっ」

「俺とこうしたかったんでしょ?」

「……うん。もっと、もっと触って欲しい。強くなくていいから。カラダでしゅうくんの熱を感じさせて。……ね。私も、しゅうくんに触りたい。触っていい?」

「うん。いいよ」


 ぴと、と細く流麗で、ひんやりと冷たい指先がシャツの隙間から入り込んできて肌を触ってくる。お互いに相手の生肌に触れて、それがもたらす高揚感に息を荒く、熱くしていく。


「エッチなことしてないのにドキドキしてる」

「たぶん、意識して触ってるからじゃないですかね」

「あはは。そうかもね」


 俺も藍李さんもアレを意識して触ってる。それ故に感覚が研ぎ澄まされ、感応が高まっている。


 互いの手がお互いのお腹辺りで着地して留まっている。それだけで興奮材料に成り得るのだと驚愕を覚えながら、


「この状態でキスしたら、いったいどうなっちゃうんだろうね?」

「試してみる?」

「うん。キスしよ」

「――いいよ」


 挑発に挑発で返せば、ごくりと生唾を飲み込む音がやけに鮮明に聞こえた。


 たぶん。いや間違いなく、藍李さんは発情あのスイッチが入ってる。かくいう俺も、息が荒くなって心臓がドンクドクンと強く弾んでいる。あと一センチ。一センチ手を上げたら、間違いなく理性が崩壊する。


 それなのに、あと一歩踏み込めば理性が決壊すると分かっていながら、自分たちが今日どこまでいけるのか試してみたくて仕方がなくて。


「しゅうくん」

「藍李さん」


 今夜のこの家には婚約者の父親が眠っている。


 こんな光景見られたら間違いなく怒られる。


 それなのに。


 この心は、アナタに惹かれて、アナタの欲求に惹かれてしょうがなくて。


 頭ではダメだと分かっているのに――


「「――んっ」」


 この唇から伝わる彼女の熱は、どうしようもなくこの心を躍らせる。


「しゅうくん。もっかいしよ?」

「はい。もう一回。舌は……」

「今夜は止めておこかっか。たぶん、そこまでしたら本当に抑えられなくなる」

「ですね。俺も、絶対に藍李さんのこと襲っちゃう」


 それだけは忌避すべき事態だと、互いに理解して一線を踏み越えないように慎重にラインギリギリを探っていく。


「その代わり、いっぱい長いキスしようね」

「――うん」


 矛盾してる。


 今夜は我慢しないといけないのに、それなのに欲望を高めるような行為をしてる。


 全く以て馬鹿馬鹿しい限りだ――それでも、俺たちはこの甘い逢瀬を止める気は微塵もなくて。


「「――んんっ」」


 バレたら怒られる。そんなハラハラが、このドキドキをより触発してくる。


 今夜のキスはいつもより静かで、貪るよりかは浸り合うようなキスだったのに。


 それなのに、今夜の彼女としたこのキスは、いつもより強く記憶に残っていた――。


「……ふへへ。このキスも甘くていいね」

「……うん。クセになりそう」





【あとがき】

前回、帰省編の前にも本話と似たような状況がありましたが、今回のしゅうくんはちょっと成長して藍李さんの欲求をどうにか寸前の所で留めることができました。藍李も藍李でちゃんと踏み留まれて偉い。


……まぁ、留めただけで、『解消』はされてないしむしろ燃料投下しちゃったんだけどね。


 さぁどうなる次回! 乞うご期待!


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