第161話  甘くて。ほんのりと醤油の香り。

「デートしよ。しゅうくん」


 夜を彩る屋台の灯りよりも鮮明に映る女性は、淡い微笑みを浮かべながら声音を弾ませた。


「え、え? どういう……」


 そんな彼女、藍李さんとは裏腹に、俺はまだ状況を飲み込み切れず困惑する。


 そんな俺の反応に藍李さんはくすくすといながら歩み寄ってきて、言葉の意味を強制的に理解させえうように指を絡めてきた。


「真雪お姉ちゃんが「せっかくだから二人で屋台回ってくればー」って。気を利かせてくれたんだよ」

「……そういうことっすか」

「ふふ。そういうことっす」


 姉ちゃんの真似をしながら事情を説明してくれた藍李さん。それで、俺はようやく脳が処理に追い付いてたまらず苦笑をこぼした。


『――ありがと、姉ちゃん』


 いつもは口喧嘩ばかりして藍李さんを取り合う仲だけど、どうやら今夜は俺に親友を譲ってくれたらしい。


 そうなるとこのおつかいも姉が最初から仕込んでいたものだったのかと同時に悟って、姉の策士ぶりに舌を巻く。


 要するに、俺は姉ちゃんに一杯食わされたってことだ。全くあの姉はやってくれる。


 でも、


「そういうことなら姉ちゃんに甘えて、今から二人でデートしましょうか」

「うんっ。短い時間だけど、二人でいっぱい楽しもうね」


 姉ちゃんの厚意に甘えることこそ、姉ちゃんへの最大への礼。お互いにそれを理解しているから、後ろは振り返らず前を向いて歩き出す。


「あっとそうだ。藍李さん。何か食べたいものはありますか? かき氷はあとで買うとして、その前にご飯もので食べたいものがあれば教えてください」

「んー。……あっ。私も真雪が食べてたイカ焼き食べてみたいな。実は一度も食べたことないんだよね」

「なんて勿体ない!」

「えぇ。大袈裟すぎない?」


 苦笑する藍李さんに俺は勢いよく首を横に振った。


「何言ってるんですか! 屋台のイカ焼きってめっちゃ美味しいんですよ! そういうことなら是非食べてください! 俺が奢るから!」

「あははっ! それじゃあ優しいカレシくんに奢ってもらおかな」

「いっぱい食べましょう! あ、でも浴衣汚れないように気を付けてね」

「はーい」


 それから二人で屋台を見て回りつつ、各々が食べたいと思ったものを一通り買って人混みから少し離れた石垣に腰を下ろした。


「んむっ! 美味しい~」

「でしょ! ……あ、醤油ほっぺに付いてる」

「ふへへ。ありがとう」


 頬に付いた醤油をハンカチで拭えば、藍李さんはお礼を言いながら嬉しそうに口許と綻ばせた。


 汚れた部分を折り畳んで、ポケットに仕舞おうとした時だった。さっきまで咲いていた笑顔が急にしぼんで、俺はそれに眉根を寄せる。


「でも、ごめんね。ハンカチ汚しちゃった」

「気にしなくていいですよ。洗えば取れるだろうし、それに、他に拭けるものもなかったから」

「舌で取ってくれても良かったんだけど?」


 またこの人は。


「じゃあ、藍李さんが考えてたこと実現してもよかったの?」

「しゅうくんが人前でも気にしないなら私はいつでもウェルカムだよ!」

「ごめん調子に乗りました。俺にそんな勇気はないので勘弁してください」


 揶揄おうとして思わぬ反撃をくらってしまい、俺は潔く自分の非を認めて頭を下げた。


 そんな情けないカレシに藍李さんは可笑しそうにくすくすと笑いながら、


「しゅうくんは本当に可愛いね」

「くっ! また可愛いって言われた! 俺は藍李さんにカッコいいと思われたのに!」

「十分男前だよ。和義かずよしさんたちもそう言ってたでしょ」

「でも藍李さんは俺のことまだ可愛い年下だと思ってるんでしょ?」

「うん。私にカッコよく思われたくてつい見栄を張っちゃう所がすごく愛らしい」


 褒めてるよ、と言われてもあまり褒められてる気がしないんだよなぁ。


 それに内心までよく見抜いてらっしゃる。


「藍李さんはカッコいい俺と可愛い俺、どっちが好き?」

「どっちも好き」


 即答だった。それも微笑みながら答えられたもんだから、俺も思わず苦笑してしまう。


「どっちもしゅうくんだからね。カッコいい。可愛い。優しい。紳士。甘え上手。しゅうくんは何もかもが魅力的で、その何もかもが私を狂わせるんだよ」


 そう言いながらイカ焼きを差し出されて、俺はそれがどういう意図なのか瞬時に理解する。


 だから、大きく口を開けて、優しくて可愛くて、美人なカノジョに憧れるように、


「はむ」

「ふふ。よくできました」


 ぱくっ、と藍李さんから差し出されたイカ焼きを一口貰うと、満足げな笑みが眼前で咲いた。


「もう何も言わずともしゅうくんの方から積極的に甘えにきてくれるようになったね。そういう所が大好き。キミの全部が、私は大好き」

「――――」


 見れない。


 真っ直ぐな瞳と真っ直ぐな想い。俺に抱いてくれる恋慕があまりにも純粋すぎて、その微笑みがあまりにも眩しくて直視できなかった。


 ストレートな告白を受け止めきれず、顔が真っ赤になってしまった。


「……藍李さんがこんな俺をダサくないと思ってるならもうなんでもいいや」

「私に甘えてくれるしゅうくんがダサいはずないでしょ。むしろ母性を刺激されてもっとお世話したくなっちゃう」


 投げ出すように吐いた言葉を藍李さんは嬉しそうに肯定してくる。


「俺のお世話は楽しい?」

「世界で一番楽しい!」

「どんだけ俺のこと好きなんですか」

「それはもちろん。世界で一番だよ」


 知ってる。けど、その答えが聞きたかった。


 悪戯な問いかけだったと内心では理解していながら、けれど彼女の泰然たいぜんとした面持ちを見るとこの駆け引きは彼女が一枚上手だったような気がして。


『あぁ、勝てない』


 幸せを象ったような微笑みを浮かべる藍李さんは、いつだって俺の心をかき乱して振り回す。振り回して、だから俺もちゃんと証明しなければと、そう思わされて――


「あと二日我慢すれば、きっと最高に甘いキスできたんだろうな」

「私とするキスはいつだって最高に甘いキスじゃない?」


 俺の独り言ちた呟きに紺碧の双眸が揺れて、その先を促すように見つめてくる。


 内心を見透かされている。それが分かってしまうと、もう後戻りはできない。


 沸々と、自分の中で〝欲望それ〟が沸々と湧き上がっていく感覚を覚える。


 止まらない。俺を全肯定する紺碧の双眸に、自制心が容易く瓦解される。


 だから、


「周りに気付かれないかなぁ」

「声は聞こえるけど人気は少ないから大丈夫だよ。それに、見られても気にしなければいい」

「恥ずかしくない?」

「むしろこういうのは堂々とした方がいいんじゃないかな」

「海の時みたくまた周囲に見せつけるんですか?」

「ふふ。しゅうくんがお望みとあらば」


 ずるいなぁ。


 いつもは振り回すくせに、こういうちょっと尻込みしてる時は俺を試すみたいに誘惑してくるんだもん。


 藍李さんと駆け引きで勝てたことなんて一度もない。そして、今日また一つ。黒星がついてしまった。

 

「藍李さん」

「なに?」

「俺のお願い、一つだけ聞いてくれますか?」

「しゅうくんのお願いなら全部聞いてあげる」


 それは衝動に抗えなかった男の情けない懇願。けれど、彼女はそれすらも嬉しそうに受け止めて、力強く頷いた。


 そして、その肯定がわずかにあった逡巡ブレーキを振り切らせて。


「――今、すげぇ藍李さんとキスしたいです」

「我慢できない?」

「できない。もう、その気持ちが溢れて止まりません」

「そっか。……ふふ。奇遇だね。私も、今すごくしゅうくんとキスしたい気分だった。それこそ、我慢できないくらいにね」

「……ふは。なら、止める理由は何もありませんね」


 近くに人がいる。人気がない屋台裏といっても絶えず賑やかな音は聞こえている。


 それでも、込み上がる想いは抑えきれず、視界は、世界にたった一人しかいない女性の儚いほどに美しい微笑みに埋め尽くされて。


 意識も思考も、俺の全ては緋奈藍李に注がれていて。


「それに、我慢は身体に毒だからね。したいと思った時にするのが一番身体にいいんだよ」

「一応ここ、公共の場なんで我慢が必要ではあるんですけどね」

「じゃあ止める?」

「止めるわけないでしょ。ほら、目、閉じてください」

「はーい、……ね、しゅうくん」

「なんですか?」

「浴衣でキスするのも乙だね」

「……はは。そうだね」


 本当にこの人は。


 俺の全部を受け入れる。

 俺の情けない部分も愛する。

 俺の気持ちに全部応えてくれる。


 胸の中に際限なく湧く歓喜は、その溢れる感情を唇に乗せて――


「「――ん」」


 柔らかな唇の感触と、ほんのりと醤油の香り。

 一秒にも満たないキスは、時間に関係なく胸を満たしてくれて。


「――お祭り中にキスするの、実はちょっと憧れたんだ」

「体験した感想はどうでしたか?」

「夢がまた一つ叶って最高に幸せ」


 ならよかった。


「俺も、最高に幸せです」


 ――たぶん。きっと藍李さんが恋人じゃなければ、こんな衝動的なこと俺には到底できはしなかったと思う。


 ――きっと、しゅうくんが私の恋人じゃなかったらこんな場所でキスなんてしてくれなかったと思う。


 相手が自分に与えた影響の大きさ。その変化にお互い微苦笑を浮かべながら、


「……藍李さん」

「……ふふ。やっぱり可愛いね、しゅうくんは」

「藍李さんが俺を惑わすせいですよ」

「えへへ。ごめんね。可愛いカノジョで」

「まったくです」


 お互い。思っていることは一緒。


 だから、二度目のそれは躊躇いも逡巡も特になくて、瞳を閉じればすぐだった。

 

「「――んっ」」


 一度目の軽く触れあうようなキスの後に笑い合って、その後にもう一度。


 今度は、とびきりに甘く、胸の熱を共有するようなキスを交わした。



 


【あとがき】

昨日はコメレビューありがとうございます! 

帰省編も残り数話。そしてフィナーレを飾るのはお約束のキス回でした。いやぁ。やっぱこの二人の駆け引きは書いてるの楽しいねっ。(鼻血ぶしゃ――っ!!)

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