第142話  小悪魔の甘美なる誘惑

「すぅ――すぅ――すぅ……ん?」


 深夜。気持ちよく眠っていると不意に妙な感覚を覚えて、俺は閉じていた瞼を開いた。


 眠りに就いた時間が浅かったおかげか意識は思いのほかはっきりしていて、思考もすぐに再起動する――その再起動に掛かるまでの時間の中で、不意に、手が柔らかな感触を捉えた。


「いやん」

「ん?」


 むにっとした感覚を手で味わうと同時、掛布団の中からわざとらしい嬌声が聴こえた。


 不思議と手に馴染むそれの感触をもう一度確かめるように触ってみれば、また掛布団の中から「いやん」とわざとらしい喘ぎ声が聞こえてきた。


「この柔らかさ……まさか⁉」


 なんだか、凄まじく嫌な予感がする。


 奇妙な感覚から目覚め、そして落雷のごとく勢いで全身に走った悪寒に促されるまま掛布団を勢いよく剥ぐ――その瞬間、俺が目を醒ます原因となった違和感の正体が悪気もなく舌を出しながらこちらを見ていた。


 戦々恐々とする中、俺は自分のベッドに潜り込んでいた猫――ではなく、黒髪の美女に向かって頬を引きずらせた。


「俺の部屋で何してるんですか藍李さ――んぐっ⁉」

「しー。皆寝てるから静かに」


 突き止めた違和感の正体。それは、俺の部屋にいつの間にか不法侵入していた藍李さんだった。


 驚愕する俺の口をすかさず塞いだ藍李さんは、そう言いながら口許を愉しそうに綻ばせていて。


 ようやく少しだけ落ち着いた俺は、口を強引に塞いできた手を払いのけて不法侵入者を睨みながら問いかけた。


「……姉ちゃんの部屋で寝てたんじゃないんですか?」

「当初はその予定でした」


 なんだその言葉遣い。

 深夜テンションなのか、情緒じょうちょが全く読めないカノジョと声を抑えた会話が続く。


「じゃあなんで俺の部屋にいるんですか?」

「寝込み襲いにきたから」

「ばかなんですか?」


 思わず暴言を吐いてしまった。それくらいには、藍李さんの行動はあまりに無計画で、突拍子もなくて、危険だった。


「……隣で姉ちゃん寝てるんですよ!」

「大丈夫! 真雪は一度寝たらしばらく起きないから!」

「そりゃ家族だから知ってますけど! でも二階こっちには母さんと父さんだって寝てるんですよ!」

「すっごくドキドキするよね!」

「危機感って言葉知ってますか⁉」


 何この人すげぇ怖い。恐れ知らずかよ。


 躊躇ためらうどころか目を純真無垢な子どものようにキラキラさせて部屋に侵入して来た藍李さんに、俺はもはや二の句が継げなくなってため息を落とすしかない。


 頭痛を覚えて額に手を置く直前、怖気にも似た嫌な予感が背筋を震わせた。


「……ハッ! まさか、今からヤろうなんて言わないよね?」

「ふふふ。そのまさかだよぉ」

「だよぉ、じゃないですよ!」


 恐る恐る訊ねれば笑顔で肯定されて、俺は盛大なため息をこぼさずにはいられなかった。


 暴走か。はたまた理性あっての判断か。後者だったら頭がぶっ飛んでるとしか言いようがないが、この人の性格的におそらく後者なんだろう。


 危険リスクはらんでいても自分がやりたい、望むことを叶える。俺の恋人はそういう人で、そういう性格なのだ。


「隣に姉ちゃんいるから今日は絶対ダメ!」

「えぇ。しゅうくんの可愛いカノジョが勇気を振り絞って逆夜這いに来たんだよ?」

「いつも夜這いしにきてるじゃん」

「あれは夜這いじゃないよ。襲ってるんだよ」

「どっちも同じだよ!」


 言葉が違うだけで意味はほぼ同じだ。そんな「全然意味違うよ!」と言いたげに頬を膨らませられても困る。


「藍李さん。一旦マジで落ち着いてください。一緒に寝るだけならまだしも、今からおっぱじめたら絶対マズいです」

「バレなきゃ平気っしょ!」


 なんでちょっと心寧さんと鈴蘭さんみたいなノリなんだよっ!


 やっぱり深夜テンションだな、と理解したのと同時に、説得も困難であることも気付いてしまって。


 マズい。このままでは押し切られてしまう気がする。


「藍李さん。するなら明日……いやもう今日か。とにかく、するのは藍李さんの家に帰ってからにしましょう。たくさん愛してあげるから、だから今は我慢して?」

「私はしゅうくんの部屋ここと自分の部屋どっちもシたい」

「性欲旺盛だな⁉ ……とにかく我慢してください。キスしてあげるから、ね。それで性欲抑えて?」

「キスなんてされたらもっと身体がうずいちゃうよ!」

「じゃあそのまま姉ちゃんの部屋に戻ってよ!」


 予想はしていたけどやっぱり引き下がってくれない。


 たぶん、一度も使ったことがないこの部屋で〝アレ〟をやってみたくて欲望を抑えられないのだろう。今という機会を逃せば今度いつチャンスが訪れるか分からないのもその欲望を刺激している原因になってしまっている。


 藍李さんが意外にも意固地な性格だということをこの半年間で嫌というほど学んできたけど、今夜は特に俺の説得に耳を貸す気配がない。


 本当に困った。


「ね。しゅうくん。しよ?」

「そんな雨の日に見つけた濡れた子犬みたいな目で見つめないで。意思が揺らぐ」

「じゃあもっと揺らがせてあげる」

「――っ⁉」


 べつに隙を見せていたつもりはない。けど、俯きかけた顔に不意打ちでキスされた。


 刹那だけ触れ合った唇。しかし、交わされた短い口づけは欲情を焚きつけるには十分だった。


 それは種火。俺の中にたしかに灯ってしまったその種火を藍李さんが見逃すはずがなく、燃え盛れとまじないを込めるように風を注いでくる。


「――んっ。ちゅぱ……ちゅぅ……れろ」


 強制的な口づけ。拒もうとしても身体が言う事を効かず、甘い香りと妖艶な熱に理性が壊されていく。


「――ふふ。そうそう。私がもっとしゅうくんの欲望を焚きつけてあげる――れろぉ」

「あぅ……藍李さんっ」


 離れた唇から淫らな唾液の糸が引いて、それを淫靡な表情を浮かべる恋人が紅色の舌で絡みとっていく。互いの唾液を含んだ舌はそのまま、熱い息とともに耳に距離を詰めて、そして、這うように舐めてきた。


「ちゅぱちゅぱ」

「くはっ……藍李さんっ、それ、だめっ」

「ただの耳舐めだよ。まぁ、耳も性感帯らしいから、しゅうくんが反応しちゃうのも無理はないけど」


 可愛い、と襲ってくる快感に必死に耐える俺を見て藍李さんが愉しそうに笑みを深くする。


 彼女の甘くて、そして色香たっぷりの声。熱い吐息が絶え間なく耳を犯してくる。


 そうして彼女に好き放題弄ばれた結果、


「あはっ。やっぱり身体は素直だねぇ。私とイチャイチャしたいって言ってる」

「……そうさせたのは、藍李さんでしょ」

「往生際が悪いしゅうくんが悪い」

「――んっ⁉」


 荒い息遣いを繰り返しながら糾弾するように言えば、拗ねた藍李さんがまた強制的に唇を奪ってきた。


 立て続けにキスをされて。耳舐めの刑にまで処されて。思考を犯す甘くて色香たっぷりな彼女の匂いを鼻孔を吸い続ければ、身体が反応しない方が無理だった。


「――さぁ。どうするしゅうくん。カラダ。元気になっちゃったけど、これでもまだ私と気持ちよくなることしたくない? 我慢するの?」

「~~~~っ⁉」


 荒い息遣いを繰り返すカレシを見て、浮かび上がった笑みがより深くなる。そして、その笑みが年下カレシが屈服するまでの時間を楽しみながら追い打ちを掛けてくる。


「拒絶したら拒絶した分だけキスする。私を受け入れてくれるまで何度もするからね」

「……我慢して――んっ」

「しない。しゅうくんとエッチする」


 拒絶じゃないのに、また口を封じるようにキスが交わされる。わずかな抵抗の意思すらも、今の彼女には『自分を拒んだ』という判断対象に捉えられてしまうらしく、その結果罰として濃密なキスを強制的に行われる。


「藍李さん。ほんとに一回落ち着い――ん」

「やだ。しゅうくんが頷いてくれるまで止めない」


 可愛いのに、しかし行動は自儘じまま

 キスも次第に激しさと長さが増していく。


「ぷはっ――あい――んっ」

「ねぇ、しよ? しちゃおうよ? 声抑えるから……絶対にバレないように、私頑張るから……」


 たぶん、これは意地じゃなくて、引き下がれなくなってるんだと、舌を絡ませ合う中で察した。


 一回キスをしてしまったせいで、歯止めが効かなくなってしまっているんだ。


 拒絶の意を感知する度に交わされるキス。無意識に下半身に触れてくる手。彼女の傲慢さを受け入れてしまった、その瞬間。


「――ふへっ」


 気付けば俺は彼女を自分のベッドに押し倒していた。


「藍李さんのせいで、もう俺も自分自身を抑えられなくなっちゃった」

「ようやく私を抱く気になってくれたみたいだね」

「は。何言ってるの。これから俺が藍李さんにするのは抱くとか生易しいものじゃないよ。ここまで挑発してくれたお礼、きっちり返してあげるから覚悟してよ」

「――っ! いいねその犯す気満々の顔。子宮が疼いちゃう」

「笑ってられるのも今のうちだから」


 止まらない。欲望も、性欲も。藍李さんを犯したいという欲求も。


 理性のブレーキが彼女にぶっ壊されたせいで、愛するという感情よりもそのニヤケ面をアヘ顔に歪ませてやりたいという征服欲が胸裏から溢れ出していく。


「……少しでも大きな声だしたら、止めるからね」

「うん。頑張って我慢する」

「――ほんと、意地が悪い人だ。藍李さんは」

「ごめんね。でも、しゅうくんの部屋でどうしてもしてみたくて」

「言い訳はいいから」

「――っ! ……ひゃい」


 強情なカノジョに少しだけ苛立ちを孕んだ声音に、見下す女性はほんのわずかに意表を突かれたように目を見開いた。けれどすぐ、その艶肌に赤みを差して。


「どうしても声が洩れそうになったら、その時はキスして口を塞いであげるよ」

「~~~~~~っ‼ ……よろしくおねがいします(ああヤバい。Sっ気全開のしゅうくんに今から愛してもらえるの、声抑えられる自信ないっ! )」


 今からすることが姉ちゃんや両親にバレたら絶対怒られる。そう分かっていながらも、もう火照ったカラダの疼きは止められなくて。


 ――あれだけ我慢しろと恋人を説得していた張本人が結局我慢し切れずに事に及んでしまうのは、主従逆転もいいところで。


「いっぱい喘がせるけど、我慢してね、藍李」

「うん。最後までしたいから我慢します。いっぱい犯してね、しゅうくん」


 そこはちゃんと我慢できるんだな、と思わず失笑してしまいながら、俺と藍李さんは開戦の狼煙として力強く互いを抱きしめ合いながら、眩暈がするほどの濃密なキスを交わしたのだった――。





【あとがき】

今夜のしゅうくんは忠犬じゃなくて狼でした。ワオーン。ワオーン。ワオーン。ワオーン…。

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