第138話  にゃんっ♡

 とてつもなく嫌な予感がする。


 リビングで小一時間ほど小説(ラノベ)を読んでいると、不意にテーブルに置いてあるスマホからメールの着信音が鳴った。


 家族か神楽らか、と思いながらスマホを覗き込んでみれば、送り主はなんとこの家で同棲中のカノジョからだった。


 同じ空間にいるのにわざわざメールを送ってくる時点で不穏でしかないし、それにスマホから只ならぬ威圧感を感じる。


「……確認しなかったら絶対拗ねるやつだ」


 読んでいた小説をぱたん、と閉じて、それから一つ息を整える。


 それから恐る恐る送られてきたメールを確認すると。


 ――『私の部屋に来てにゃん』

「――すげぇ行きたくねぇ」


 怖ぇ。昼間観たホラー映画より怖ぇ。


 カノジョが何を考えているか分からないことほど怖い事ってこの世に存在するのだろうか。


 文字やメールの内容、それ事体は可愛いのに、なのに文章からは『来なかったらどうなってるか分かってるよね?』という脅迫めいた圧を感じる。


 その脅迫に屈したわけではないが、寝るためには結局藍李さんの部屋に行かなければならないので、最初から選択肢など俺はこの謎に恐ろしいメールに従うしかない。


「――ふぅ」


 忍び足で部屋の扉まで来て、ノックする前に深呼吸――


「はーやーくー」

「――っ⁉ (バカな⁉ 足音を立てずにここまで来たのに、バレているだと⁉)」


 藍李さんの耳ってイルカなのか。と戦慄せんりつを隠し切れずに頬を引きつらせながら、扉越しに催促してくる彼女に応えるように扉を開いた。


「お、お邪魔しま――えっ⁉」


 藍李さんの耳のよさに驚愕したその数秒後に、今度はまた別の驚愕が俺を襲った。


 部屋に入った瞬間に視界に映った光景に、身体が思わず硬直して息を飲む。


 一度、幻でも観ているのかと疑心になってまぶたを擦ってみるも、視界が捉えている光景は何ら変わらず『現実』を強制的に見せつけてくる。


 脳も脳で視界から得ている情報が現実と幻なのか処理するのに時間が掛かり、速度制限が掛かったスマホのように思考が遅延している。


 かぶりを振り、強制的に脳に情報を現実だと受け入れて処理させる。それでも尚続く困惑に頬を引きつらせている俺を見て、ベッドに座っている黒髪の女性、藍李さんは愉しそうに口許を歪めていた。


「その反応はどうやらお気に召してくれたみたいだね」

「いや、気に入ったというよりかは、カノジョがいきなりそんな恰好で出迎えてきて戸惑ってます」

「似合ってない?」

「めちゃくちゃ似合ってます」

「ならよかった」


 その一点に関しては異論なく力強く首を縦に振ると、そんな俺の反応に藍李さんは「ありがと」と白い歯を魅せた。


 俺の困惑と、そして高揚。そして、少しずつ胸に込み上がってくる興奮。


 心臓が、眼前に映す光景の解像度を上げていく度に早鐘を打つ理由――それは、


「ちょっとあざといかと思うけど、でも、こういうのもアリかなって思って……あ、にゃん」


 そう、まだ慣れない語尾の付け方に少し照れくさそうにはにかんだのは、猫耳を付けた可愛い猫……ではなく、恋人の藍李さんで。


「……色々と聞きたいことはありますけど、とりあえず一枚写真撮っていいですか?」

「下着だからだーめ」

「ぎゃわ‼」


 可愛らしく指で×を作った藍李さんに俺の心臓はたちまち射抜かれてしまう。


「え、ほんとになんで急にネコミミなんか付けてるんです? というかいつ買ったの?」

「実はいつかしゅうくんとこういうプレイをしてみたいと思ってこっそり買ってました、にゃん」

「俺たち高校生なの忘れてませんよね?」


 まだ語尾が安定してない藍李さんから回答をもらいつつ、俺は驚嘆を表情に浮かばせる。


 会話を重ねながら可愛い猫が座っているベッドに腰を下ろすと、まるでご主人様にすり寄って来る本物の『猫』が如く藍李さんが撫で声を上げて距離を詰めてきた。


「にゃん」

「え、なんです急に?」

「にゃんにゃん」


 距離を詰めてきたかと思えば唐突に『鳴く』だけで何も言わなくなってしまった藍李さん。


 どう対処すればいいか困っている間にも、藍李さんは愛らしい鳴き声で頬をすりすりしてくる。


「にゃん、にゃんにゃん」

「ええと」


 猫語(正確には猫の真似だけど)はこれっぽっちも分からないので、藍李さんの表情を観察して俺に何を伝えたいのか思案する。


「頭撫で撫でして欲しい?」

「にゃぁぁん」


 正解か分からないけどとりあえず頭を撫でてみることにした。


「よ、よしよーし」

「にゃぁぁん♪」


 たぶん正解っぽい。唇の端が吊り上がって上機嫌にごろごろと鳴る喉音が本当に猫みたいで、俺も徐々にきょうが高じていく。


「にゃん。にゃんにゃん」

「頭を撫でるだけじゃ物足りないみたいですね。――いっぱい触っていいの?」

「にゃんっ」


 縋るように。求めるように、甘えてくるように鳴く藍李ネコさんにそう問いかければ、紺碧の双眸が爛々と輝いて肯定した。


「あぁ。可愛すぎて頭がおかしくなりそう」

「にゃぁぁん」

「……分かってますよ。いっぱい可愛がってあげる」

「にゃぁん♪」


 存分に愛でてあげなくちゃ。


 可愛い可愛い猫に愛護心を掻き立てられて、触れる手に熱が籠っていく。


 綺麗な黒髪を。白くて柔らかい頬を。猫のように喉を。――愛でる欲望は、さらに増していく。


 それは俺だけじゃなく、藍李さんも同じで。


 ごろごろと鳴く声は、大好きな人に触れる度にその熱量と艶やかさが増していく。


「……しゅうくん。もっと、愛して欲しいにゃ」

「どんな風に?」

「――にゃん。にゃん」

 

 それは自分で考えてみて、愉しそうに、そして俺の出した解答を求めるように藍李さんが見つめてくる。


 徐々に官能的になっていくスキンシップ。その最中で、俺は彼女の耳元で囁くように言った。


「キス、していい?」

「……にゃんっ」


 嬉々とした鳴き声が鼓膜を震わせて、それが本当に正解なのかは分からないけど俺は藍李さんの唇を奪うことにした。


 数秒。見つめ合って、互いの口唇からこぼれる熱い吐息に呼応するように心臓の鼓動が騒がしくなっていく。


 ゆっくりと、ゆっくりと顔を近づけて、そして唇と唇が重なった瞬間。理性がぶっ飛んだ。


「ぷはっ。しゅ、んくん……っ」

「れろ。その可愛い声。堪らないです」

「や……んっ」

「もっと聞かせて」


 たっぷりと藍李さんの唇と舌を堪能したあと、俺が次に狙いを定めたのは彼女の首だった。吸い付くように唇をそこへ押し付けて、舌を這わせる。色白く滑らかな肌を舌先で味わうように舐めれば、藍李さんの口唇から熱の籠った吐息がたまらず零れ落ちた。


「しゅうくん……なんだか、いつもより興奮してる?」

「そらただでさえ可愛い彼女が猫耳なんか付けたら、そのカレシたる俺はむちゃくちゃ興奮するに決まってるじゃないですか――んっ」

「んんんっ!」


 同棲生活が始まってからほぼ毎日藍李さんに求められているから、もう既に脳が警鐘を鳴らすことはなかった。


 緋奈藍李という底なしに堕とされ続けた俺はもう、本能のまま、自分の欲望が望むまま緋奈藍李を愛し、愛で、貪る。


 ねっとりとした唾液を纏う舌を執拗に絡ませて、淡桜色の唇が変形するほど己の唇を押し付ける。


 脳がマグマの如く沸騰ふっとうする感覚に、俺と藍李さんは無我夢中で浸る。浸る。――浸り続けて、愛に溺れていく。


「ちゅむ……んんむぅ、ふへっ……すごく、えっちなキス」


 目を見合わせたまま交わす濃密なキスに、藍李さんは蕩け切った顔で嬉しそうにぽつりと呟いた。


 やがて呼吸が苦しくなって名残惜しいが可愛い猫の唇から一度離れると、見下ろす女性が肩を小さく上下に揺らしていた。


「ごめん。ちょっとがっつき過ぎた」

「攻めっ気しゅうくんも素敵だから平気。それに、いつもより激しくて私的には大満足」

「そんな可愛いこと言われたらもっとしてあげたくなっちゃうなぁ」

「お好きなだけ堪能してくださいにゃん」

「はぁぁぁぁぁぁ」


 もう可愛いという感想しかでてこない。


 盛大に吐息をこぼす俺を見て、藍李さんは心底愉快そうにころころと笑う。


「――んっ。……もっと」

「うん。いっぱい可愛がってあげる」


 理性で自分を縛る必要がないと彼女が全身全霊で伝えてくれたから、俺は心が望むまま藍李さんを堪能する。


「――ちゅ」


 今日はいつも以上に自制が働かない。


 首に。腕に。胸に。太ももに唇を強く押し付けて、キスマークを刻む。


「今日はありがとう。しゅうくん」

「――?」


 好きなだけ藍李さんカノジョに愛の印を刻み込んでいるとふと、そんな感謝を伝えられた。


 いきなりそんなことを告げられて小首を傾げると、藍李さんは淡い微笑みを浮かべて続けた。


「今日、私、少しだけ不機嫌になっちゃったでしょ」

「あー。ありましたね。でも言うほど不機嫌じゃなかったと思いますよ」


 言及した藍李さんに、俺はそういえばそんなこともあったな、と苦笑を浮かべる。


 それは午後に観た映画が、藍李さんの期待外れで落ち込んでいた件について。でもその後に足を運んだ猫カフェで気を取り直してくれたので、俺としてはあまり気にしていなかったのだが。


「あの時、しゅうくんすぐに私の機嫌を量ってくれたでしょ。ううん。しゅうくんはいつも私の気持ちを尊重してくれてる」

「藍李こと考えるなんて当たり前ですよ。大切な俺のカノジョなんですから」

「へへ。ありがとう。でも、そういうしゅうくんの私に対する当たり前が、私にとっては大切で、嬉しくて、だからこうしてお礼したくなるの」

「……なるほど。この今日の猫耳藍李さんはその時のお礼ってことですか」

「にゃん」


 正解って意味のにゃんだと思う。


 顔を見れば親愛を灯した双眸が俺のことを見つめていて、その考えを肯定と無言で告げられているような気分だった。


「藍李さんはお礼の仕方まで可愛いですね」

「にゃんにゃん」


 段々藍李さんが俺に何を伝えたいのか分かるようになってきた。


「――ふへ。それじゃあ、このお礼は有難く受け取ることにしましょう」

「にゃん(うん。私を好きなようにして)」


 自分を好きにしていいって言ってる。


 なら、お言葉――猫のお考えに遠慮なく甘えて。


「今日は好き放題藍李さんの身体使わせてもらうから、覚悟してね」

「――きゅん! ……はい。しゅうくんのみるく。私にたっぷり注ぎ込んでくださいにゃん♡」

「それって……」

「うん。そのままの意味」


 主語はない。でも、意味は理解できる。


 だから、


「今日は俺にとってご褒美デーですね」

「あはは。しゅうくんが望むなら毎日ご褒美デーでもいいんだよ?」

「だーめ。ご褒美はたまにあるからいいんじゃないですか。それに、この時は俺が藍李さんをむちゃくちゃにするんだから、藍李さん的にはそっちの方が嬉しいんじゃない?」

「……えへへ。そうだね。しゅうくんが積極的に私を求めてきてくれると、私はそれだけで興奮するから、こういう日はたまあった方がいいのかな」

「でしょ。だから、今日は俺に目いっぱい可愛がらせてよ――藍李を」

「――っ! はい。目いっぱい可愛がってください。しゅうくんの全部で私を」

「「――んっ」」


 黒の毛並み。蒼海よりも蒼い紺碧。艶やかな肢体。全てが凛々しく、高潔な猫。


 誰の手にも靡くことはなかった高嶺たかねの花は今、一人の年下男子にとって愛に溺れていく。


 それは、底なし沼の愛情で。


「――にゃぁぁん♡」


 そんな愛情を全身で受け止める女性は、蕩け切った顔で嬌声という名の鳴き声を上げたのだった――。




【あとがき】

次話から夏休み編中盤戦に入ります。中盤戦はしゅうパパの実家へ帰省します。

しゅうや真雪の従姉弟の登場や藍李さんの水着姿に浴衣姿が登場する予定ですので、今後の更新をお楽しみあれ。


あ、明日は休載です。本話にエネルギー全部使い切っちまった。

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