第124話  おやすみなさい

 夏休み前の一週間は学校と並行してペアリング選びに奔走していたので、本日は同棲初日ながらも藍李さんとまったり過ごすことに決めた。


「はぁ。この時間が幸せぇ」

「ですね。こうやってリビングでくつろぐのも久しぶりだなぁ」


 ソファーではなくカーペットに座り、二人きりのこの時間を満喫する。


 俺の股の間に座っている藍李さんが甘えてくる猫のような撫で声を上げて、俺は後ろから彼女を抱きしめてそれに応える。すると、分かりやすく可愛い黒猫さんは上機嫌になった。


 恋人の顕著けんちょな反応に思わず失笑をこぼしてしまいながら、俺も華奢きゃしゃでありながら女性特有の柔らかさのある身体を存分に堪能する。


「なんで藍李さんはこんなに抱き心地いいんだろうなぁ」


 あまりに彼女の身体が自分にフィットするもんだから思わずそんな感想が口からこぼれてしまう。そんな俺の言葉に、藍李さんはくすくすと笑いながら振り向いて、


「それはしゅうくんが私を愛してるからじゃないかな?」

「~~~~っ‼ そんな可愛いこと言ったらもっと抱きしめちゃいますからね」

「あはは。いいよ。私のこともっとぎゅうっと抱きしめてください」


 じゃあお言葉に甘えて。


「あぁもう。藍李さん可愛すぎ。ぎゅぅ」

「えへへ。お願いすれば応えてくれるしゅうくん大好き」


 俺も大好きです。超好きです。


 胸に込み上がる愛しさを抑えきれず、あふれてしまった感情は行き場を求めて身体を突き動かす。最愛の人を後ろから優しく、けれど今までもよりもさらにぎゅうっと強く抱きしめると、ころころと弾む笑い声が耳朶を震わせた。


「すんすん。藍李さん、すげぇいい匂いがする」

「しゅうくん私の匂い嗅ぐの好きだよね?」

「好き」


 甘蜜に誘われる虫が如く、俺は彼女が放つ香りに惹かれる。彼女のことを慮ればこんな変態行為止めるべきなのだが、しかし身体は中々言う事を聞いてくれない。

 

 容易や雰囲気だけでなく、この甘い香りも俺が彼女のとりこになる要因だった。


「やっぱり匂いを嗅がれるの嫌ですよね?」

「まぁ、汗掻いてたりお風呂に入る前は流石に抵抗あるけど、それ以外の時だったらしゅうくんならいいよ」

「なら今はいいの?」

「うん。ご主人様の匂いを嗅いで興奮する変態しゅうくんにご褒美あげる」

「嗅ぐのがご褒美ってなんか複雑だなぁ」


 そう嘆きながらも、しかし身体は従順なようでご主人様から許可を得たことでまた鼻孔を近づけた。黒髪からふわりと香る、甘く上品な香り。これも、好き。


 べつに匂いフェッチってわけでもないけど、藍李さんの匂いだけは特別気に入っているのでたしかにご褒美なのかもしれない。


 この柔軟剤とお日様の香りがする服も、ほんのりと甘い香りがする黒髪も、そして彼女自身の俺を惹きつけるフェロモンも、何もかもが好きだった。


 俺は本当に、この人のことを細胞レベルで愛しているんだと自覚して、思わず苦笑がこぼれる。


「好きなだけ私に甘えていいよ」

「――――」


 良香を堪能していると次第に安寧が眠気に変わり始めた。その最中で、まるで俺に訪れた意識の限界を察していたかのような声音が意識に届く。


「しゅうくん。今週はすごく頑張ってたから、きっとだいぶ疲れが溜まってるよね」

「……たはは。やっぱバレてたか。ごめんなさい」


 藍李さんと同棲することは言わずもがな楽しみだったけど、しかし不安もたしかにあって、昨日は緊張のせいであまり眠れなかった。


 だから、今こうして設けられた憩いの時間が、俺の緊張を解いて、蓄積された疲労と相俟あいまって一気に眠気を促してきた。


 同棲初日からうっかり寝落ちだけはすまいと必死に襲ってくる眠気に抵抗していたが、どうやら藍李さんはそれを望んではいないらしい。


「謝らないで。私は嬉しかったから。真剣にペアリング選んでくれたこと。婚約指輪じゃないのに、でもそれと同等のように悩んでくれた。それが、堪らなく嬉しかった」

「当然でしょ。だって、結婚する意思を通す為のペアリングなんだから」


 そう言うと、藍李さんは心の底から嬉しそうに微笑みを浮かべた。


「私を大切に想ってくれてありがとう」

「藍李さんはずっと大切な人だよ」


 意識が朦朧もうろうとしているせいか、普段なら照れが先にきて中々言えないような想いもすんなりと口唇から滑り落ちてしまう。


 そしてその想いをしっかりと受け取った藍李さんは、愛しげに双眸を細めて、


「私もしゅうくんが世界で一番大切だよ」

「ふへ。ありがとうございます」

「だからそんな大切な人にお願い。まずはしっかり休んで、ちゃんと元気になって」

「――うん」


 甘く、優しく、穏やかな声音。さざ波のような心地よい声が、眠気に抗おうとする意思の束を一本ずつ丁寧に解ていく。


「言ったでしょ。この夏休みはしゅうくんを私無しじゃ生きられない身体にするって」

「……言いましたね」

「それを実行するためには、しゅうくんには万全でいてもらわないと困るの。しっかり寝てたくさん美味しいご飯を食べて、そうやって元気になったしゅうくんに刻み付けたい。――私の愛を」


 段々と瞬きの回数すら減っていく瞼。襲い続けてくる微睡まどろみの気配に屈する寸前、俺は見た。


 振り返った彼女の、女神のような微笑み。しかしその裏に、狂気じみた思惑が張り巡らされているのを。


 紺碧の双眸に歪んだ愛情が灯した一瞬を、俺は見逃さなかった。


 けれど、俺の意識はもうすでに、戦慄する余裕さえなくなってしまっていて。


「おやすみなさいしゅうくん」

「……ん」

「それで起きたら、たぁくさん搾り取ってあげる。元気になった分の栄養ぜーんぶ」

「……くぅ、くぅ」

「覚悟してね……って、もう寝ちゃって聴いてないか」


 本当に意識が途切れる寸前。俺は真っ暗闇の中で感じた。


「おやすみ。私の可愛いしゅうくん――ちゅ」


 頬に触れた、柔らかくて温かい唇の感触。それを感じた瞬間、俺の意識はぷつりと途絶えた。




【あとがき】

着々と『夜』の準備を進めていく藍李さんは今日も通常運転。俺も藍李さん抱きしめながら寝たーいっ‼


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