第116話  親は子の背中を押す為にいる

「――ま、真面目な話はこれくらいにして。しゅう」

「?」


 浮ついていた気持ちを引き締め直していると父さんに名前を呼ばれて、俺は小首を傾げながら「なに」と眉根を寄せた。


「はい。これ」

「? なにこれ?」


 そういえばずっと気になっていた、父さんの足元に置かれていた茶封筒。それをおもむろに渡されて、俺は戸惑いながら恐る恐る茶封筒の中身に目を通した。


 見て、ぎょっと目をく。


「……っ! なにこの大金⁉」


 茶封筒の厚みから何となく不気味な予感はしていたが、その予感は見事に的中した。


 父さんから渡された茶封筒――その中身は、一万円札の束だった。


 ざっと確認しただけでも十枚以上はあって、いきなり父親から大金を渡された俺は札束と父さんを交互に見やった。


 そんな驚愕を隠し切れないでいる息子の顔を、父さんはにこにことご満悦げに見ていて。


「それは父さんからの同棲期間中の生活費だよ」

「生活費って……いくらなんでも多すぎる気がするんだけど」

「それとそこにはしゅうの夏休み分のお小遣いも含めてある。期末テストで頑張った分の追加おいてあるから」

「いや、それでも多くない?」

「あとは……」


 同棲期間の生活費分と夏休みの俺の小遣いだとしても渡し過ぎ感が否めず、俺は頬を引きつらせる。が、どうやらこのお札の量にはまだ続きがあるらしく、俺は軽く居住まいを正してから父さんの言葉に耳を傾けた。


「そこにはお父さんからのお金だけじゃなく、これまでお母さんがしゅうの為にって取っておいたお金が入ってる」

「――ぇ」


 なんだそれ。


 唖然とする俺に、父さんはにこっと笑って、さらにこう告げた。


「――しゅうが中学生まで親戚から貰ったお年玉は、いったい誰が管理していたでしょうか?」

「はぁ? ――ん? …………あれ。…………ああ!」


 突然の問いかけに困惑する俺。父さんの言葉を脳内で復唱しながら記憶を辿ること数十秒。思い出して、思わず素っ頓狂な声が出た。


「そうだ! 俺のお年玉! 爺ちゃんと婆ちゃんから貰う度に母さんに回収された!」

「正解」


 そういえば今までその存在すら忘れていた俺のお年玉の行方。てっきり母さんに回収されたまま二度と帰ってこないとばかり思っていたから完全に諦めていたのだが、どうやら無事だったらしい。


「じゃあ、この数万円は俺のお年玉か!」

「そういうこと。しゅうが好きに使っていいお金だよ」

「うおぉぉぉ。無事に手元に戻ってきたぁ」

「子どものお金を親が勝手に使うはずないだろ」


 数年越しに再会を果たしたお年玉たちに感動していると、俺は感極まってその場で踊り始めた。そんな上機嫌になる息子を、父さんは苦笑を浮かべながら眺めていた。


「それはしゅうのお金でもあるけど、でもお母さんが大事に取っておいてくれたものだということを忘れないようにね」

「分かってるよ」


 まだ金銭感覚が定まっていなかった小学生だった俺に代わって貯金してくれていた母さんに胸中で感謝しつつ、父さんの言葉に深く頷く。……あとでこのお金で母さんに何か贈らなきゃな。


 喜びの舞もほどほどに、俺は茶封筒を大事に握りしめ、改めて父さんと対面する形で腰を下ろした。


「でも、なんでこのタイミングでお年玉を返してくれたの?」


 何か理由があるのは明白。だがその意図が分からない。


 その真意を直接本人へ訊ねると、父さんは肩眉を上げて俺に問いかけてきた。


「しゅう。何か大事なことを忘れてないかい?」

「大事なこと?」

「うん。お父さんとしては、なんでここまで話が進んでるのに。まだ〝それ〟を身に付けてないんだって疑問に思うもの。……まぁ、直近に期末テストがあったから忘れちゃったのかな」

「ごめん。全然答えが見えてこないんだけど」

「はぁ。そこら辺は鈍感なままか」


 ヒントはいくつか出された気がするもののやはり答えには辿りつけず白旗を挙げると、父さんは呆れた風にため息を落とした。


 その反応にむっと顔をしかめるも、父さんは俺を半目で睨みつけて、


「結婚する約束までして親に認めさせたっていうのに、肝心の〝それ〟は頭から抜けてるとか、やっぱり認めるにはまだ時期尚早だったかな」

「結婚……あっ」


 そこまでヒント……というよりもう答えが出ているようなものだが、俺は自分で答えに辿り着きました的な反応で肩を竦める父さんに告げた。


「指輪か!」

「そう」


 ぱちん、と指を鳴らしながら答えると、父さんは苦笑とともに首肯した。


「つまり、このお金で〝婚約指輪〟を買えってことね!」

「何言ってるんだ。その程度のお金で婚約指輪が買えるはずないだろ」

「じゃあさっきの肯定はなんだったんだよ⁉」


 父さんの意思を理解したつもりで答えたつもりがどうやらそれは不正解だったようで、父さんは腕で×を作りながら何度目かのため息を落とした。


「そういう認識が乏しい所はまだまだ勉強不足だね」

「うっ……でも指輪って答えは合ってるんだろ? なら他に指輪で思いつくものって言ったら、あとは結婚指輪くらいしかないんだけど」

「しゅうはまだ結婚できない歳だろ」

「分かってるよ。でも、それを候補から外したらやっぱり婚約指輪くらいしかなくね?」

「どんだけ早く結婚したいんだよ」

「浮かれてて悪かったよ!」


 マジでその二つ以外思いつかないだけだ。すいやせんね、そういう知識が疎い息子で。


 不貞腐ふてくされてそっぽを向けば、そんな俺に父さんは微苦笑を浮かべて話を続けた。


「さっきも言ったけどね。お父さんは一応は二人のことを婚約者だってことを認めてる。でも、まだ二人は学生で、それにしゅうは進学するつもりなんだろ?」

「……うん」


 獣医になりたい。それを叶える為には、当然医学系の大学に進学する必要がある。そこから更に大学院に進む可能性だってないわけじゃない。


「藍李さんも大学に進学するかもしれない。そして、それがしゅうが目指す大学と同じとは限らないわけで。高校は同じでも大学が違えば当然人生経験にも違いが生じてくる。経験が違えば、価値観だって変わってくるんだよ」

「――――」

「今はお互いのことを想い合えて、絆というものを感じているのかもしれない。でも、強固に感じるそれも、ほんのちょっとすれ違いが続けば少しずつもろくなって亀裂が生まれるかもしれない。いいかい、しゅう。愛情っていうものはね、ただひとえに相手を愛してるって気持ちだけでは長く続かないんだ」


 心に響いてくる。父さんの言葉が。長年最愛の人と寄り添あっていた男の教訓に、俺はただ口唇を硬く結んで耳を傾けた。


「お父さんはね、愛情ってものは、相手の悪い癖や欠点も全部受け入れられてようやく成立するものだと思ってるんだよ」

「……欠点を受け入れる」

「たとえば、お父さんはあまり物事を深く考え込まないのが悪い癖で、お母さんは買い物が長すぎるのが欠点だ。でも、お父さんたちは相手の欠点を理解した上で、それでも一緒に居られる時間が心地よかったから結婚できて今でも母さんと夫婦でいられている」

「――――」

「もし、どちらか一方でも相手の欠点を受けいられなかったら、愛情はたちまち冷めてやがて相手を思いやる心を失ってしまう。そうなったらもうしゅうでも分かるよね」

「別れる、だよな」


 その通り、と父さんは教師のような面持ちで相槌を打った。


「ほら、たまにネットニュースでも有名人が離婚して、その時の意見表明で『私たちは別々の人生を歩む事にしましたって』って話を聞くだろ」

「……うん。たまに聞く」

「それを見る度にお父さんはこう思うんだ。この人たちは結局お互いの価値観が合わなかったんだろう、って。多忙で一緒にいられる時間が作れなってことは、思いのすれ違いに直結する。しゅうは今は高校生で比較的時間に余裕があるかもしれない。けれど、社会人になればそうはいかない。藍李さんと一緒にいられる時間は確実に減ってしまう」

「――――」

「お父さんは今のしゅうの覚悟は否定しない。けれど、将来へと歩み進む過程でこれから何度も藍李さんとすれ違ってしまう時間ができてしまうかもしれない」

 

 それがないなんて、どうして父さんの前で断言できようものか。


 俺よりも生きた年数が長く、最愛の人と寄り添った時間も俺よりも圧倒的に長いこの人の言葉に、俺は何も反論できず、ただ紡がれる言葉と想いに意識を注ぐことしかできなかった。


「しゅうも藍李さんもまだ若い。これからもっと色々なことを経験して、色々な人に出会う。二人がどんなに別れるつもりがなくても、お父さんは『結婚』を考えるのはもう少ししゅうが自分の人生を歩んでからでも遅くないと思うんだ」

「――――」


 説教じゃない。説得でもない。父さんはただ、俺の未来、その可能性の選択肢があることを教えてくれているだけだ。


 それなのに、いや、だからこそ、父さんの言葉に胸に突き刺さって。


 覚悟が足りないとか、そういう話じゃない。ただ、自分の考えが浅薄せんぱくだったんだ。


 やっぱり、俺はまだ何も分かっていないガキだった。


 そんな悔悟かいごに奥歯を噛み殺していると、不意に大きくて、けれど優しい温もりを感じる手がとん、と肩に置かれた。


「顔を上げなさい。しゅう」

「――――」


 強く、優しい声音にそう促されて、俺は俯いていた顔を上げる。すると正面。父さんは柔和な笑みを浮かべながら俺を真っ直ぐに見つめていて。


「未来は誰にも分からない。けどね、〝現在いま〟は分かる。しゅうが大事にしているものはなんだい?」

「――そんなの、藍李さんに決まってる」


 迷いなく答えれば、父さんは愉快そうに笑った。


「そうだね。彼女はしゅうを変えてくれた。父さんたちにとっても恩人だ」

「あぁ。藍李さんがいてくれたから、藍李さんが俺を信じてくれたから、俺は変われた」

「そんな彼女とこれからも寄り添い合っていきたいんだろ?」

「うん」

「それなら猶更、父さんと母さん、それから周囲に対しても、その覚悟を示す為のものがあるよね?」

「でも、さっき婚約指輪は早いって説教くらったんだけど……」

「あぁ。そうだ。婚約指輪はしゅうが本当に藍李さんと寄り添う覚悟を決めた時、自分で働いたお金で渡しなさい」


 そしてようやく、父さんは長い話の末に『答え』を教えてくれた。


「結婚指輪。婚約指輪以外に二人の絆を証明できるもの――お父さんは『ペアリング』くらいは身に付けてもいいんじゃないかって……いや、将来を誓い合った仲なら猶更、それを見つける必要があると思うな」

「……ペアリング。――っ!」


 どうして今までその名前が出てこなかったのかと不思議に思うほど、その答えは俺に衝撃を与えた。


 婚約者という関係に囚われ過ぎて、完全に盲点だった。


「もちろん、どうするかは二人次第だよ。身に付けるも付けないも二人の自由だ。覚悟を押し通したいなら婚約指輪を買ってもいい。ただその場合、父さんは柊真を子どもではなく一人の責任ある男性として金輪際甘やかすことはない。――全部、自分でやりなさい」


 怜悧な瞳と低い声音でそう忠告され、俺は固唾を飲み込む。好き勝手やるにはあまりに代償が大きいと悟って、俺は厳かに顎を引いた。


「うん。分かってる。ちゃんと、藍李さんと相談するよ」


 それでも、きっと答えはすぐに出るはずだから。


「ありがとう。父さん」


 生活費もそうだけど、俺の将来をちゃんと心配してくれていることが堪らなく嬉しかった。だから、俺は尊敬する父親に心の底からの感謝を伝えた。


 それを聴いた父さんは、にこっと微笑んで、


「ふふ。どういたしまして。あと、ちゃんと母さんにもお礼を言うんだよ」

「うん。絶対に言う」

「それなら父さんからしゅうに言うことはもうなにもないかな。あ、でも、ペアリングそれを買ったらお父さんとお母さんに見せて欲しいな」

「分かったよ。このお礼は、ちゃんと態度で示していくから」

「そっか。それは楽しみだね」


 改めて感謝を――言葉では足りないほどの感謝を伝えるように、俺は父さんに土下座した。それが今俺にできる親への感謝の意思表示で、最大限の伝え方だったから。


「頑張れ、僕の自慢の息子」


 そんな息子の覚悟と敬意を、父さんは嬉しそうに笑いながら受け止めてくれた。




【あとがき】

次話からペアリング編です。本編の時期的には夏休み突入一週間前。真剣な話から一転、藍李さんとしゅうの楽しいペアリング選びが始まります。その数話後に夏休み編突入じゃー!


Ps:一生盛り上がり続けるのがこのひとあまという作品なのである。

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