第102話  受け入れて。求めて。

「しゅうくん。ありがとう」

「?」


 藍李さんと本当の意味で結ばれることができた俺は、興奮と幸福の余韻に浸りながら彼女とベッドで寄り添っていた。


 少しずつ近づいてくる微睡まどろみの気配に目をうとうとさせていると、不意に彼女から感謝を伝えられた。


 それに心当たりのない俺は眉根を寄せて、


「感謝するのはむしろ俺の方な気が。童貞もらってくれてありがとうございます」

「あはは。それはこちらこそだよ」


 おかしそうにくすくすと笑う藍李さんは、そのまま双眸を細めて続ける。


「こうして結ばれたことも含めてなんだけど、私を受け入れてくれてありがとうって伝えたくて」

「?」


 どういう意味だ? と小首を傾げる俺の頭を藍李さんが優しい手つきで撫でながらぽつりと呟いた。


「私ね、小さい頃すごくワガママな子だったんだ」

「……あー。海星さんから少しだけその話聞きました」


 海星さんも幼少期の藍李さんと関わっていた記憶がおぼろげらしく、その話の詳細は聞けずじまいだった気がする。


 俺としてはべつに過去に拘りを持っていなし、今はこうして藍李さんの隣にいるので知らなくてもいいのだが、なんとなく耳を傾けた方がいい気がしてきゅっと唇を結んだ。


「お父さんからもう聞いてるよね。お母さんが私たちを見限って出て行ったって話」

「……はい」


 静かに頷くと、藍李さんの双眸がわずかな寂寥を帯びたように揺れた。


「あの時の私はね、自分のせいでお母さんが出て行っちゃったと思い込んでた。自分がワガママのせいで、お母さんを苦しめたのかもって。もっとお母さんの言う事を聞いていれば、もっと素直な子でいれば、もっとしっかりしている子だったら、お母さんは疲れた顔なんてせず笑顔をみせてくれたのかって……それは、今でも私の胸に後悔として残り続けてる」

「……藍李さん」


 静かに胸襟を開いていく彼女の顔は、穏やかではありながらもその奥に決して見せない激情が覗いてみえた。


「だから、お母さんがいなくなってから私はお父さんの言う事をちゃんと聞いた。これ以上誰にも嫌われたくなくて、自分から誰かが離れていくのが怖くて、必死に自分に求められる『自分』を演じ続けてた」

「――――」

「結果、私は皆の理想の『お姫様』として窮屈な日々を送り続けることになった。すごく息苦しかったけど、でも皆の理想を演じていれば誰も私を嫌わずにいてくれると思ったから続けた。誰かの『理想』であれば、お母さんが出て行ってしまった時のような辛い思いはせずに済むって必死に自分に言い聞かせて、お父さんも騙し続けた」


 それが、誰もが羨望し崇拝する、お姫様のような存在と化した『緋奈藍李』が完成した経緯だったのか。


 幼い日の母との離別。その原因が自分にもあると思い込んだ彼女は、その傷を誰かに癒してもらえることなく取り繕ってしまったのだ。


 他人の理想を忠実に際限するお人形になることで、彼女は母親の時に背負ってしまった過ちを繰り返さずに済むと思ったのだろう。


 おおよそ子どもとは思えない思考だ。そんな答えに辿り着くのも、そしてその答えを実現できてしまうのも異常だ。故に、彼女が幼少の頃から他の子どもよりも優秀だったというのが容易に想像できた。


 しかし、他人の理想を叶えるお姫様になったところで、それで過去の傷が塞いだわけではないのだろう。彼女はその傷が癒えていないから、十数年もお姫様を演じてきたのだから。



 けれど、俺が好きになったのはそんな『お姫様』じゃない。緋奈藍李という女性だ。


 ワガママで、全然こっちの言うことを聞いてくれなくて、いつも俺のことを可愛い笑顔で振り回してくる一つだけ歳が上のお姉さんなんだ。


 彼女が嫌悪している部分を、俺は好きになった。


 だから、


「俺はっ――」

「待って」

「うむ」


 どこにもいかない、そう言おうとした口はしかし、彼女の細い一本の指先に封じられる。


 どうやらまだこの話に続きがあるみたいだ。そう察したのは、それまで寂寥をはらんでいた瞳に、再び慈愛の熱が灯っていくのを捉えたからだった。


「他人の『理想』を演じ続ければ、誰も私の下から離れて行かないって思ってた。これ以上誰かを失望させるのが怖くて、嫌われたくなくて私は私を隠し続けてた」


 でも、と一拍継いだ藍李さんは、続く言葉を語る前に笑みを浮かべた。


 浮かぶ淡い微笑み。それは、恋人の俺にだけ向けられたものだと、どうしてかそう直感できた。


 そう思えたのはきっと、見つめてくる女性がとても幸せそう顔をしていたからだろう。


「しゅうくんは、お姫様じゃない。本当の『私』を好きになってくれた。ワガママで子どもで、言うことなんて全然聞かない私を好きになってくれた」

「――――」

「お母さんすら幻滅した私を、キミはありのままの私を好きだって言ってくれた。傍にいてくれるって誓ってくれた」


 声音が震える。歓喜で満たされているような声音は、ひたすらに感謝を募らせ、その想いを伝えてくれた。


「ねぇ、しゅうくん。それがどれだけ嬉しいことか分かる?」

「ふっ」

「自分まで否定してきた私を受け入れられた時の嬉しさ、キミはちゃんと分かってるのかなぁ?」


 声音に柔らかさと穏やかさを交えて、藍李さんは瞳から小さな雫をこぼす。それはきっと、悲しみと喜びが混ざり合ってこぼれたものだ。


 どうしてか分かるのは、きっと俺も今彼女と同じ世界にいて、その感覚を共有しているからだと思う。


 ――だから、


「だって俺、藍李さんのこと大好きだから」

「――ぁ」


 伝えられる。


「俺は藍李さんの小さい頃を知りませんし、その時の藍李さんがどれだけワガママだったのかも知りません。もしかしたら手の付けられないワルガキだったのかもしれないけど、でもそれって、普通の子どもだと思いますよ」


 まだ物心を覚えて間もない子どもが他人の言う事を素直に聞く方が珍しいはずだ。俺と姉ちゃんは比較的両親の言う事を聞く方だったけど、保育園でまだ友達と遊びたくてわんわん泣き叫ぶ子をよく見た。


「きっと、藍李さんのお母さんは休みたかったんだと思います。子育てと家事を両立するのって超大変ってニュースで聞くし、俺の母さんと父さんも二人でそれを分担してやってましたし、それで間に合わない時はお駄賃ぶら下げて俺と姉ちゃんを手伝わせてましたから」


 我が家は策士が一人いるので、俺と姉ちゃんはいつもその人に手のひらの上で踊らされてた。掃除を手伝ってくれたらご褒美にアイスを買ってあげるとか、洗濯ものを畳んだらお小遣い上げるとか、ほんと、父さんは昔から俺たち単細胞姉弟をコントロールするのが上手だった。


「俺は、藍李さんのお母さんじゃないから、どうしたってその時の心境を理解してあげられない」


 でも、これだけは分かる気がする。


「藍李さんのお母さんは、絶対に藍李さんのことを嫌って出て行ったりなんかしてませんよ」

「――っ!」


 俺の言葉はただの推測で、そうであって欲しいという妄想を無責任に吐いただけ。それでも、この言葉で少しでも藍李さんの心が救わられるならと願いを込めて言った。


 そんな子ども騙しのようにも聞こえる言葉はしかし、彼女の心を揺さぶるのには十分だった。


 俺の頭を撫でていた手がぴたりと止まったあと、藍李さんは口唇を震わせながら俺を見つめてくる。何か言いたくても口が思うように動かない。そんな表情に見えた。


 硬直してしまった彼女。ぴくりとも動かない恋人に、俺は先ほどのお返しとそっと優しく頭を撫で始めた。


 藍李さんが歩んできた後悔と恐怖の日々。その苦悩を受け入れて、労わるように。


 俺が傍にいるよと、そう、伝えるように。


「少なからず、俺が藍李さんの親だったら、自分に似たこんなに美人で可愛い子に愛想なんて絶対に尽かないと思います」

「あ、ぁ――」

「それに、俺はこんな美人で可愛くて、ワガママも可愛い人に好かれてるんです。なら、愛して当然でしょう――うぷっ」


 この胸に在り続ける想い人への恋慕と愛情。それを伝えた瞬間、それまで硬直していた彼女が唐突に抱きしめてきた。頭に手を回してきて、そのまま強制的に胸に顔を埋められる。柔らかい感触が顔全体を包み込んできて、驚きと困惑が同時に俺を襲ってきた。


「あ、藍李ひゃん?」

「好き」

「?」

「好き。愛してる。死ぬまで愛してあげる。もうダメ止まらない」


 なんだか不穏なワードが聞こえる。

 段々と息が苦しくなってきていることを報せるようにぺちぺちと腕を叩くも応答がない。


「もう一回えっちしたい。今すぐしゅうくんの全身にキスマークつけたい。もうこのままこの部屋に監禁したい」

「なんか暴走してる⁉」


 聞こえてくる不穏なワードが洒落にならなくなっている気がして、逃げるように彼女の胸の中で暴れた。しかし、思いの外抱きしめる力が強くて逃げられない。


「ああもうっ。なんでキミはこう、いつもいつも私を受け入れるだけじゃなくて、甘やかしてくるのよ」

「ひゅ、ひゅきだからぁ」


 上手くい息遣いができない状況でそれでも必死に好きだと伝えると、藍李さんは喜びを表現するようにまたぎゅっと強く抱きしめてきた。


「しゅうくんは本当に悪い子だね」

「…………」

「そうやって人の傷も癒して、優しく包み込んで、虜にさせる。女誑しだよ」

「……でも、そんな俺が?」

「死ぬほど愛してる」


 好きとか愛してるじゃなくて、死ぬほど愛してる。これほどの好意を告げられて喜ばない男はいない。


「しゅうくん」

「ぷはっ……はい。なんですか?」


 揺れる紺碧の瞳は再び熱をはらんだ。何か、最後の枷が外れたような、清々すがすがしい顔をしている藍李さんは、己の胸の中で半分顔を埋める年下カレシに熱い視線を送りながらこんな可愛いおねだりをしてきた。


「しゅうくんのせいで、また身体が火照って疼いちゃった」

「疼いちゃいましたか」

「うん。だから、もう一回だけしゅうくんとしたいな」

「……身体、無理してません?」

「無理じゃない。ううん、例え無理でも、しゅうくんに鎮めてもらわないと今夜は気持ちよく寝れないな」

「ふはっ。そっか。気持ちよく眠りに就けないなら、カレシとしては鎮めてあげないとですね」

「うん。もう一回。私を愛して?」

「藍李さんが求めるなら何度でも愛してあげます」

「ふふ。流石は私の自慢のカレシくんだ。――なら、私が満足するまで、しゅうくんを感じさせて」


 過去の傷が癒え、最愛の者から過去を受け入れられた女性が繋がりを求めている。もう一度、ありのままの自分を愛して欲しいと。


 なら、それに応えるのが恋人として、婚約者としての俺の務めだろう。


 理解できた。故に、


「「――んんぅ」」


 キスをした。離れる唇の熱の名残惜しさなんてなくなってしまうほど強く、深く、唇と唇を押し付け合う。


 彼女の過去も傷も後悔も、全部俺が一緒に背負って隣にいると、そう誓うように唇に熱を乗せる。


 絡み合う舌も、押し付け合う唇も、黒瞳に映す女性の顔も、何もかもが尊くて、全てが愛しい。


 そして見つめ合う双眸は、最愛の者を映して揺れた


「もっと、私に教えて。しゅうくんの温もり」

「俺にも教えて。藍李さんの喜び」


 想いは一つに。愛は重なり合って、そして何度も互いを求め合った――。


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