第98話  そして、お泊り会当日

 

 ――そして、お泊り会当日。


「いらっしゃい! しゅうくん!」

「お邪魔します。藍李さん」


 玄関で手短に挨拶を終えると、もはや恒例となった玄関での抱擁ハグを交わした。今ではこれが、俺と藍李さんが甘い時間を過ごすそのスタートになっている。これは焚火でいう所の火種。サッカーや野球で言った所のウォーミングアップだ。


 慣れた抱擁はそのまま、互いの温もりを堪能し合う時間へと変わって、胸に途方もない居心地の良さをくれる。


「……期末テストの調子はどうだった?」

「バッチリですよ。まだ自己採点の結果ですけど、全教科ほとんど九十点以上取れてます」

「本当⁉ すごいね!」

「えへへ。これも恋人バフが掛かったおかげですかね」


 照れながらそう言うと、藍李さんはふるふると首を横に振った。


「ううん。私がしゅうくんにしてあげられたことは特に無いよ。その結果は全部、これまでしゅうくんが努力してきた成果だよ。偉い偉い」

「~~っ! ……なら、今日は藍李さんにたくさんご褒美もらっていいですか?」

「ふふ。しゅうくんが欲しいなら好きなだけあげる」


 見つめてくる紺碧の瞳を直視できず、咄嗟に視線を逸らしながらテストを頑張ったご褒美が欲しいとおねだりすると、藍李さんは嬉しそうに頬を緩めた。


 その微笑みが俺をダメにさせるし、さらに調子に乗らせる。


「じゃあ、キスしていい?」

「あはっ。キスしたいんだ?」

「めっちゃしたいです」

「ふふっ。しゅうくんのそういう素直な所、私すごく好きだよ」

「いいの?」

「うん。私もしゅうくんとキスしたいな」

「それ、可愛すぎてずるいです」


 顔を真っ赤にして自分の欲求をさらけ出せば、藍李さんはすっと細めた紺碧の双眸に慈愛を灯して肯定してくれた。


 さすがは俺を堕落させたい恋人だ。全力で俺の要求に応えて、そして丁寧にじっくり、甘い蜜を垂らしながら俺を堕としにきている。


「「――んっ」」


 その証拠に、藍李さんは何の躊躇いもなく俺の唇を奪ってきた。数秒見つめ合ったあと、熱い吐息を一つにするように唇と唇を重ねる。


 始まりのキスは刹那的。けれど、しっかりと彼女の唇の柔らかさは堪能することができた。


「今日はお泊りだから、何も遠慮しなくていいよ」

「――っ!」


 キスで一段ギアが上がった藍李さんが、耳元に顔を近づけてくると、くすっと微笑んだ。その、ぶるりと背筋が震えそうな甘い吐息を耳朶に感じて、俺はこの胸の高鳴りを彼女に伝えるように強く抱きしめた。


「あぁやば。今日、本当に藍李さんのペットになっちゃいそう」

「あはは。こんなに可愛い恋人わんちゃんなら私は大歓迎だよ。たっぷり私に甘えて、そして私の虜にさせてあげるからね」

「もうなってます」

「知ってる。でも、私としてはまだ足りないから、もっと身体に染み込ませてあげる」


 艶やかに微笑む彼女は、そのまま恋人を掴んで決して離さない。既に首輪リードは付けられているというのに、この人はまだ足りないらしい。


「じゃあ、今日はもう藍李さんからずっと離れません」

「私はもとよりそのつもりだよ。今日はずっと一緒にいたい」

「今日だけじゃなくてこれからもずっと一緒ですよ」

「あはは。うん。これからも、ずっと一緒だね」


 際限なく溢れてくる愛情を、互いの器に注いで満たし合う。そうやって満たされた心は、微笑みを浮かばせ、幸福というたしかな時間を俺たちに共有させてくれた。


 きっと今日は、俺が童貞を卒業する日で、藍李さんは初夜を迎える日。


 お互いの思い出に残り続ける、大切な一日になる。



 ***



 昼食を済ませたあと、俺と藍李さんはリビングで動画を観ながらまったりとした時間を過ごしていた。


「へぇ。これがアクアテラリウムっていうんだ」

「そうです。制作してる所見ると結構面白くないですか?」

「そうだね。特に投稿者によってテーマやテイストが変わるのは目を惹くものがあるね」

「いやぁ。これを分かってくれる人がいるの嬉しいなぁ」

「友達にいないんだ?」

「俺の場合はそもそも友達が少ないですし、一人はこういう虫とか水生生物が苦手で、もう一人は微塵みじんも興味を示してくれません」


 なので、藍李さんが俺の趣味に興味を持ってくれるのが嬉しいのだ。


「そうなんだ。なんだか少し勿体ないね。こうして観ると生き物について楽しく知識を得られるし、見識も深められるのに」

「まぁ、こういうのに詳しくなったところで披露する場面が少ないですけどね」

「そうかな。しゅうくんの趣味や好きなものって、他人からすればけっこう興味深いものだったりすると思うよ。特に男性同士だと意外と盛り上がるんじゃないかな」

「男はゲームの話の方が盛り上がりますよ」

「それはたしかに。でも、しゅうくんゲームも好きだよね?」

「男子ならほとんどがその道を通りますからね。ゲームだけじゃなく漫画も好きです」

「あはは。まさに男の子って感じだね」


 弾む会話に互いの体温を感じながら、心地よさに身をゆだねていく。


「ねぇ、明日は一緒にゲームしようよ」

「もちろん。あ、それなら今からやりますか?」

「ううん。今日はずっとしゅうくんとこうしてたい」

「んぐっ」

「あは。照れてる照れてる」


 そんなこと言われて照れない人はいないです。

 藍李さんは嬉しそうに唇を薄く弧を引きながらより身体を密着させてきた。


「あぁ、やっぱりしゅうくんの温もりを感じると落ち着くな」

「俺も、藍李さんの温もり大好きです」

「じゃあもっとくっつこ?」

「これ以上くっついたら色々と爆発しちゃいそうなんですけど?」

「それは夜まで我慢してね」

「くぅぅっ。男の焦らし方をよく分かってらっしゃる!」


 お預けと唇に一指し指を当てられ、可愛さとじれったさに悶絶する。そんな奥歯を噛みしめる俺を見て、小悪魔なお姉さんは満更でもなさげに微笑んだ。


「これで俄然夜が待ち遠しくなったでしょ?」

「むぅ。藍李さんのいじわる」

「大事な儀式はきちんと下準備を済ませてから挑むものなんだよ」

「分かってますよ。つまみ食いも我慢します」

「あはは。うん。我慢した分だけそれを美味しくいただけるもんね」

「藍李さんは絶対に美味だろうな」


 それも極上の。たぶん、一度味わったら二度とこの人以外の女性では満足できない気がする。


「そっちの相性もよかったらいいね」

「大丈夫です。きっと、相性いいです」


 分からないけど、でも断言できた。それに根拠なんてものはない。けれど不思議と、自分たちの身体の相性はいい気がする。そう思うのはやっぱり、これまで長い期間を通してお互いを知って来たからもしれない。


 わずかに憂いに揺らいだ瞳に確固たる意志を以て言い切れば、藍李さんは一瞬目を見開いたあと、ゆっくりと双眸を細めていって、そして微笑んでくれた。


「うん。私たちならきっと、愛し合えるよね」


 不安なんて抱かせない。俺が男として、ちゃんとリードしないと。


 その意気ごみが虚栄だとしても、この人の不安を取り除けるならなんでもいい。


『――正直上手くできるか不安はあるけど、今は一旦それを忘れて藍李さんとこの時間を楽しもう』


 少しずつ夕暮れ時が迫って来る。それと同時に胸裏には緊張と不安が募っていく。


 それを藍李さんに察知されないように細心の注意を払いながら、俺は静かに固唾かたずを飲んだのだった。




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