第99話  私っ、痴女だ!

 7月上旬ということもあり、時刻的には夕方だが太陽はまだ水平線に沈むことはなく晴天に座している。それでもうっすらと茜色を差し始めた空をわずかに見上げながら、俺は藍李さんと恋人繋ぎで街を歩いていた。


「なんか新鮮だね。こうやって二人で夕飯の買い出しに行くの」

「そういえばそうですね。そもそも、藍李さんの家で夕飯食べるのって今日が初めてですし」

「やっと夕飯食べに来てくれましたか」


 少しだけムッと拗ねた表情で睨んでくる藍李さんに、俺は頬を引きつらせる。


「い、一応自分の中で決めてたんです。一番最初に藍李さんが作ってくれた夕飯を食べる日は、泊る日がいいなって」

「むぅ。そういう言い方はずるいよ。そんなこと言われたら嬉しくなって許しちゃう」


 藍李さんにはこの言葉が言い訳に聞こえただろうか。俺にとってこれは嘘偽りなく本心であり、ずっとこの日を迎えるために心の準備をしてきた。


 たかが夕飯如きで大袈裟だと思われるかもしれない。でも、今日はそれくらい俺にとっては大切な日なんだ。


 一生彼女の傍に居続ける未来が確約されているのなら、今日という日を俺の記念日にしたかった。藍李さんが初めて俺に夕飯を振舞ってくれる日で、初めてカノジョの家に泊った日で、そして互いの初めてを捧げる日――これだけの初体験を一日で重ねるのだ。後者はまだ未体験だが、俺はきっと今日という日を生涯忘れることはないだろう。


 何気ない日常。その延長線上に、一つ一つ。最愛の人との思い出を作っていく。――それを『記念日』と人は言うのだ。


「ほんと、しゅくんは人をおだてるのが上手だね」

「藍李さんほどじゃないですよ」

「私が得意なのはしゅうくんを褒め尽くすことだけ。まぁ、真雪を褒めて頑張らせるのも得意だけどね」

「姉弟揃って藍李さんに手綱たづな握られてるなぁ」

「二人ともすごく分かりやすいだもん」


 くすくすと笑う藍李さんの顔には親愛が込められていて、それを感じ取ると俺のも自然と双眸が細くなった。


「これからも姉共々お世話よろしくお願いします」

「ちゃっかり姉のお世話まで入れてきた。……ふふ。そんなに私にお世話されたい?」

「これ、答えたらどうなります?」

「どうなると思う?」


 質問に質問で返さないでくださいよ。


 悪戯な笑みを浮かべる恋人に俺はやれやれと肩を竦めながら、その期待をはらませる瞳に向かって答える。


「本音、言っていいですか?」

「もちろん」

「なら。藍李さんにずっとお世話されたいです」


 こうやって馬鹿正直に気持ちを吐露できるくらいには彼女に懐柔されている。そして、今まさに俺をダメ人間にさせようと計画中の恋人は、その答えに心底嬉しそうに微笑みを浮かべて。


「うん。私がキミを一生お世話してあげる。だから遠慮せず私に甘えて」


 揺らぎない眦でそう言い切ったのだった。


 ――あぁ、ほんと。俺はこの人に堕とされていくなぁ。なんて心情を苦笑で模らずにはいられなかった。



  ***

  


「もしかして今日の夕飯はハンバーグですか?」


 藍李さんが住むマンションから徒歩約10分ほどにあるスーパーにて。今は買い物カゴを持ってお肉コーナーにいた。


 そして藍李さんが挽肉ひきにくをカゴに入れたのを見て、俺はそんな思案に至ったわけだなのだが、果たして答えは。


「うん。今日はハンバーグだよ」


 正解、と藍李さんはウィンクした。


「それからコンソメスープにサラダ。カノジョが作ってくれる料理としては定番でしょ?」

「カレシとしては作ってくれるだけでありがたいです」


 本当にその通りで、だから毎週の彼女が俺の為に料理を振舞ってくれることに感謝は尽きなし、今だってその想いは変わらない。


「食べ終わったら感謝の皿洗いと、肩もみしてあげないと」

「気が利くカレシだねキミは。いい旦那さんになれるよ」


 将来のお嫁さんにいい旦那認定された。よっしゃ。


「こんないいお嫁さんをもらえるんですから、今のうちに好感度Maxにしておかないと」

「安心して。もう私がしゅうくんに対する好感度はMaxだから。今は上限超えてそろそろ大気圏超えそうよ」

「俺のこと好きすぎでは?」

「檻に入れて一生お世話したいくらい好き」

「ヤンデレだっ⁉」

「冗談よ……三割くらい」


 じゃあ七割は本気ってことかよ。


 日を追うごとにメンヘラとヤンデレ要素が強まっていく婚約者に頬を引きつらせつつ、買い物を順調に進めていく。


 そろそろカゴの隙間もなくなり始めた頃、俺と藍李さんはとあるコーナーの前で足を止めていた。


「今日のデザートはどうしようか。しゅうくん」

「アイスかスイーツか。悩みますね」


 俺と藍李さんが足を止めたコーナーはスイーツが陳列されている棚だ。

 お互いに甘いものが好きなので、顎に手を置いて真剣に悩んでいた。


「ちなみに藍李さんの方は本日はどちらの気分で?」

「私は夕飯の献立もかんがみてプリンの気分だわ」


 味がこってりした物のあとに甘くて舌触りがいいプリンで口をリセットする。なるほど実に名案だ。


「流石です。やっぱり藍李さんは天才ですね」

「たかがデザート決めるだけで大袈裟だよ⁉」

「たかがデザート、されどデザートでしょう!」


 今日は特に夕飯後に送る時間が大事なのだ。身を清める前からちょっぴり残念な気分にはなりたくない。今日はここから最後まで、最高の気分を保っていたいのだ。


 なので、このデザート選びも重要なのだ。いつもより慎重に選ばねば。


「あぁでも、さっぱりしたいって意味ではコーヒーゼリーもいいですね。それともここは口に残った脂を完全に相殺してくれる味の濃いミルク・・・プリンにするか……ってどうしました藍李さん?」

「…………」


 色々と商品を手に取りながら悩んでいると、ふと先ほどまで一緒にデザート選びで盛り上がっていたカノジョの声が急に静まった気がした。


 それを怪訝に感じて顔を振り向かせると、何故か藍李さんは頬を赤く染め上げていて、顔を俯かせていた。


 急にそんな、まるで何かを恥じらうような表情を浮かべた藍李さんに俺は訳が分からず困惑するばかりだった。


「あぁぁぁ! 私っ、痴女だぁぁぁ!」

「痴女って……いったい今の会話のどこに自分をそう卑下する部分が……」


 あるんですか、と鼻で笑おうとした瞬間だった。ふと、自分が今手にしている商品に自然と目がいった。


 じぃ、とそれを無言で見つめて、真っ赤に染め上げた藍李さんの反応と照らし合わせていく。


『濃いミルク』に『痴女』――その二つの単語が脳裏に浮かんで、それが電撃的に結ばれた瞬間だった。


 藍李さんが途端に顔を真っ赤にした意味を悟ったのは。



「ぶっ⁉ なんてこと想像してるんですか⁉」

「そ、想像したくて想像したわけじゃないもん!」


 彼女が悶絶している理由わけ。それを理解した瞬間、俺まで顔を真っ赤にしてしまった。


 どうやら『味の濃いミルク』という言葉に、愛しのカノジョさんは数時間後の出来事を無意識に連想してしまったらしい。そんな不埒ふらちな思考に至ってしまった自分に羞恥心を覚えて顔を俯かせていたのだ。


 思春期の俺ですらその発想には至らなかったというのに、この人はしてしまった。たしかに、それならば自分を痴女だと思うのも無理はないし、俺も彼女のその心情に複雑だが納得してしまった。


「はぁ。俺より藍李さんの方が楽しみにしてるじゃないですか」

「す、好きな人と早く結ばれたいって思うのは当然のことでしょ?」

「その返し方はずるいっ!」


 真っ赤に染めた顔を両手で隠して、その指の隙間から羞恥で潤んだ瞳がそう言い返してきた。おかげで俺も顔が真っ赤になってしまった。


 くっそっ。もうこのままカゴを置いて藍李さんをお持ち帰りしたい。こんな場所で期待してますってアピールは卑怯だ。感情がぐちゃぐちゃになる。


 ようやく落ち着いてきた心臓が、また早鐘を打ち始めた。


 そんな逸る心臓に急かされるように、俺は藍李さんの手を少し乱暴に繋ぐと、


「さっさと買い物終わらせて、家に帰りますよ」

「――うん」


 たぶん。お互いもう一秒だって我慢できない。緊張や不安や焦りが、一秒ごとに相手に触れたいという欲求に変わっていく。


 ――早く夕飯食べて、それからすぐにシャワー浴びよう。一秒でも一分でもコンマ一秒でも早く、しゅうくんに抱きしめてほしい。

 ――ああくそ。可愛い過ぎんだろ、この人。


 余すことなく絡み合う五指から、お互いの胸に抑えきれない想いが溢れ出して、そして伝わっていく。




【あとがき】

いつか藍李がしゅうくんの味の濃いミルクをごっくんする話を書けたらいいなと思いつつ、そんなの書いたら確実に運営からブゥゥゥゥン! されるので誰かその話書いてくれ。


Ps:ゆのや。ブゥゥゥゥン! の準備をしろ。→分かったでやんす! 

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