第95話  ブレーキなんて効かない

 しゅうくんの傘がマンションの出入り口から離れていく光景を、私は雨の上がったベランダから見届けてからリビングに戻った。するとすでに自宅に戻って来ていたお父さんの目尻がほんのりと赤く染まっていて、それを見た瞬間、私は全てを察した。


 お父さんが彼に私たちの過去を打ち明け、そして、それを彼が受け入れてくれたことを。


「どうだった? しゅうくん」

「あぁ。藍李の言っていた通り、とてもいい子だった。まだ若人だなと思う反面、けれどそれ以上に見ていてとても誇らしい子だった。彼は、私に足りなかった全てを持っている子だよ」

「そうでしょ。だってしゅうくんは私の自慢の恋人カレシだもん」


 そう言ったお父さんの顔は、心の底から彼の事をうらやんでいるような表情をしていた。


「どんな過去であれ、柊真くんは藍李と共にいることを望んだよ。一緒に幸せになっていきたい、だって」

「あはは。しゅうくん。そんなことお父さんに言ったんだ」

「あぁ。まだ高校生になって間もないというのに、それほどの決意を固めていたよ。よほど藍李のことを愛しているんだろうね。盲目なほどに」

「あの子は本当に私のことが好きだなぁ」


 まぁ、私も同じくらいしゅうくんが好きだけど。

 そして今もまた、彼に抱く愛慕は更新されていく。際限なく。


「藍李。柊真くんのこと、手放しちゃいけないよ?」

「そんなの分かってるわ。誰にもしゅうくんは渡さない」


 彼だけだ。私の愛情を全力で受け止めてくれるのは。


 彼だけだ。私たちの過去を知って、それでも私たちと一緒にいることを笑顔で望んでくれるのは。


 彼だけだ。


 私が、愛している男性は。


 雅日柊真。ただ、一人だけ。


「あぁ、やっぱり。我慢できる自信ないなぁ」


 壁に身体を預けて、焦燥をはらんだ吐息が口唇から零れ落ちていく。


 好きって気持ちを更新されると、その後に訪れるのは決まって不純な欲求だ。


 次の休みまであと何日だっけ。


 今日は水曜日だから、あと二日か。


 それまでに、この身体の火照りが少しは収まってくれることを願おう。


「お父さん」

「どうした?」

「来週の休日。私大事な儀式しないといけないから、家に帰ってこないで」


 一瞬、私の言葉の意味が理解できずに眉根を寄せるお父さん。けれどすぐにその意味を察したお父さんは、何とも言えない複雑な表情で娘を見つめていて。


「あまり柊真くんを困らせてはいけないよ」

「無理」


 もう自分を抑えきれなくなっている私を見て、お父さんはただ困ったように微苦笑を浮かべた。



 ***



 ――そうして体の火照りはしずまらぬまま、土曜日を迎えてしまった。


 私としゅうくんは昼食を済ませたあと、期末テストに向けた最終調整を行っていた。


 とはいっても私は順位に拘ってもなければ結果を出すことにも固執していないので、しゅうくんが勉強に集中している間は暇つぶし感覚で各教科の問題を解いていた。


 時折休憩を挟み、また勉強を再開する。やはり獣医を目指そうとしているだけあってなのか、しゅうくんは集中力を切らすことなく貪るように問題を解き続けていた。そういう真面目な部分も可愛いなぁ、とシャーペンを止めて見つめていたのは彼には内緒にしてほしい。


 少しは私に振り向いて欲しいのに、という欲望を抑えることざっと四時間。


 すっかり窓辺に差し込む日差しも茜色に変わってしまった頃、ようやく本日の勉強会が終了し――


「うわっ!」

「やっと集中力切ってくれた」


 しゅうくんがノートを閉じ、机にシャーペンを置いたと同時に無言で彼の下に駆け寄る。


 そのまま勢いを殺すことなくしゅうくんをカーペットに押し倒すと、見下ろす顔には驚愕と困惑が濃く浮かび上がっていた。


「な、なんで急に押し倒されたんですか俺?」

「本日の勉強会が終了したからだよ」


 目を瞬かせるしゅうくんに、私は既に滔々とうとうとした表情を完成させながらそう答えた。


「むぅ。すぐ近くに愛しの恋人がいるのに、それをそっちのけにして勉強集中するなんてどういうことかな?」

「い、いや。だって今日藍李さんの家に来た目的それじゃないですか」

「うん」

「……うん、て」


 勉強会のはずでしょ? と正論をたどたどしい口調で言う彼に私はこくりと頷きながらも、


「でも恋人の家だよ? 少しはイチャイチャしたいって気分にならなかったの?」

「いや普通になりますけど」

「じゃあなんでしゅうくんは何もしてこなかったんですか?」

「も、もしかして全く藍李さんを構わずに勉強そっちのけになってしまったこと怒ってますか?」

「怒ってない。悶々としてるだけ」

「悶々⁉」


 なんで、と言いたげなしゅうくんの顔。

 あぁ、本当に分かってないんだ。

 私をずっと幸せ絶頂な気分にさせておいて、なのに、キミはそれを無自覚でやってるんだ。



「ずるい子だなぁ。しゅうくんは」

「え、俺マジで何やらかしたんですか?」


 分からないから教えて欲しい、そう懇願するカレシ。


 まぁ、分かるはずもない。だって彼は、お父さんと話しただけで、その後のことは何も知らないのだから。


 私がキミに過去を受け入れられて喜んでいることも、愛さている事実に浮かれていることも。キスとかハグとか恋人繋ぎとか――しゅうくんを犯したくてたまらないこともなにもかも、私は一言もキミに教えてないもんね。


「私に押し倒されちゃった理由。知りたい?」

「教えて欲しいです」

「じゃあ、教えてあげる」


 我慢できない。


 自分を抑制できない。


 愛して欲しいと、愛したいと――そう自分の心が渇望していることを、艶美に浮かべた笑みとともに彼に教えてあげた。


「んんぅ」

「――んっ⁉」


 見つめ合って数秒。しゅうくんは直感的に私にキスされると理解したのだろう。脊髄反射せきずいはんしゃのごとく閉じられたまぶたに応じるように、私は熱をこぼす吐息をそのままに彼の唇と自分の唇を重ねた。


『あぁ、足りない。まだ、全然足りない』


 初めてのキスはしゅうくんからだった。そして次、二度目のキスは私から。


 しゅうくんからしてくれたキスが優しくて心を満たすようなものに対して、私のキスは強引で強請ねだるようだった。


 全神経を唇に注いで、彼の唇の感触を堪能する。


『ダメだ。止まらない。収まらない。ふはっ。理性が全然働いてない』


 熱い。身体が。疼く。胸が。五月蠅い。心臓。黙って。


 今はただ、しゅうくんを感じていたいの。その邪魔をしないで。


「ぷはっ! あ、藍李さん……ながっ……んんっ⁉」

「ぷはぁ。しゅうくん。もっとしよぉ」

「んむっ⁉」


 散々欲望を貯め込まれたのだ。たった数秒程度の口づけでそれが満たされるはずがない。もう一度、彼に息継ぎする間も与えずに私は二回目のキスを強引に交わした。


 柔らかな、けれど少し硬い。男の人の唇。それを、漫勉なく味わう。


『好き。好き。好き――大好き』


 愛して欲しいと身体が訴えてくる。その切望が思考を支配し、眼前に映る青年にその欲求を満たしてもらおうと一心不乱に食らいついた。


 たぶん、急にこんなキスなんてされて思考がぐちゃぐちゃになっているはずだ。


 それなのに、しゅうくんは困惑しながらも私を受け入れようと唇を重ねてくれた。


 そういうの、ほんとずるい。


 もっと、もっと、彼を求めたくなる。


 故に、私の暴走は歯止めが効かなくなる。


「――れろぉ」

「~~っ⁉」


 発情娘はその興奮冷めやらぬ熱の発散場所を求めるように、あるいは、いっそこの熱に浮かされてしまおうと諦観を悟るように――彼の咥内こうないへ舌を侵入させた。





【あとがき】

昨日は2名の読者さまに★レビューを付けていただきました。応援をちゃんと受け取って更新していきます。


そして…はい。我らが藍李さんが見事にやらかしてくれましたね。次話はしゅうくん視点で藍李とのこの大人のキスの続きが描かれます。


ぐへへ。特甘シーンだから★が入ること間違いなしだぜ。…え? 叡智じゃないからダメ? これ以上やったら運営ポリスメンが来ちゃうでしょうが! 


Ps:第3章は本当に藍李がやべぇ。

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