第94話  過ちも、いつか報われる時が来る。

「――なに。よくある話さ。夫が仕事に熱中になりすぎて家族とろくに向き合えず、妻がそんな夫に愛想を尽くして出ていってしまった」

「――――」


 雨の音がする。それまでずっと鉛色の空模様を保ち続けていた天気は、一人の男性の心情を表したかのように崩れ始めた。


 ざぁざぁと、激しい雨音が聞こえる。虚しい音だった。


 その、一人の父親としての過ちを聞いていた俺は、張り詰める空気に頬を硬くして、胸に押し寄せる感情を堪え切れずに缶コーヒーを強く握りしめた。


「当時の私は友人とともに作ったばかりの会社の経営維持に明け暮れていてね。それはまだ藍李が五歳の頃だったよ」

「……五歳」


 べつに、父親が仕事で家にいないのなんて有体にいえば普通の話だ。かくいう俺の父親だって平日は仕事で遅くまで帰って来ることはなかった。母さんも時折友人からの依頼で仕事を引き受けることがあって、俗にいう共働きの状態で俺と姉ちゃんを育てていた。


 母さんは基本テレワークだったけど、けれどどうしても俺たちの面倒を見れない瞬間があった。その間、まだ言葉もろくに話せない俺の相手をしてくれていたのは、決まって一つ年が上の姉ちゃんだった。姉弟揃って両親に構ってもらえない日は、そうやって二人でいつも遊んでいた。


 でも、藍李さんは一人っ子だ。俺と姉ちゃんのように、寂しさを紛らわせてくれた存在はいなかったと思う。


 その思案に答えを差し伸べるように、海星さんが続けた。


「妻は、きっと育児に疲れたんだろうな。朧気おぼろげだが、当時の藍李はよくワガママを言う子だった。……はは、そんなことまで憶えていないとは、我ながらに父親失格だと思うよ」

「そんな……っ」


 そんなことはない、そう否定しようとして、けれど咄嗟とっさにその言葉が喉に詰まった。


 どうしてか、それは海星さんと自分の父親、久遠を重ねてしまったからだ。


 俺の父さんはたしかに、家に居ない日が多々あった。けれど休日はずっと俺たち家族と一緒にいてくれたし、俺は藍李さんの同じ年の頃に父さんと色々な事を経験した覚えがある。


 父さんも、成長した俺を見る度に「昔の柊真はあんなに素直で可愛かったのに」と、まるで昨日のように幼かった俺と過ごした日々を今でも大切に覚えてくれている。


 だから、小さかった頃の藍李さんとの記憶が朧げな海星さんを咄嗟にフォローすることができなかった。


「べつに無理にフォローしてくれなくて結構だよ。これは、私が受けるべき相応の報いだ。だから、今はこうして娘ときちんと向き合おうとしているし、娘の父親として振舞う資格がない私にキミとの交際に関して私情を挟むこともできない」


 これ以上娘に嫌われたくないからね、と海星さんは乾いた笑みを浮かべた。


「藍李さんは、絶対に海星さんをそんな風に想ってません」

「はは。そうかな」

「はい」

「…………」


 少なくとも、今日の二人を見た限りでは藍李さんが海星さんに嫌悪感を抱いているように思えなかった。むしろその逆で、藍李さんはきちんと、海星さんを自分のただ一人の父親だと認めている。


 だって、そうでなくてどうして、俺に自分の父親と会って欲しいと懇願こんがんした時、きっと海星さんが俺のことを婚約者だと認めてくれると断言できた。


 そう信じていたのは、きっと藍李さんが自分の父親を信じていたからだ。俺にこの人と会わせようとしたのは、俺とこの人なら理解し合えると信じていたからだ。


 俺は、それを信じた彼女を、信じる。


「――やっぱり、キミは眩しいな」

「――ぇ?」


 不意に、ぽつりと零れ落ちた言葉を耳朶じだが拾い上げて、俺は眉根を寄せた。

 そんな俺を、海星さんは憧憬しょうけいを宿した双眸で見つめて。


「昔の私に、今の君のような、ただひたすらに相手のことを想い合う気持ちがもう少しでもあれば、このような結果にはならなかったのかもしれないな」


 後悔のない人生なんてない。どれだけ順風満帆じゅんぷうまんぱんな人生を送っていたとしても、きっと、どこかで必ず、つまづいてそれを後悔する日が訪れる。


 それが過去かこであれ現在いまであれ未来みらいであれ、遅かれ早かれ確実に。


 人は、そうやって過ちを繰り返しながら前へ進んで、失敗や後悔を糧に誰かと向き合っていくのだ。


「キミは、藍李を愛しているかい?」

「はい。藍李さんは必ず、俺が幸せにしてみせます――いや、少し違うな」

「?」


 力強いまなじりが一度そう断言して、けれど途中で意見を変えた。


 それを聞いていた海星さんは怪訝を示すように小首を傾げた。疑問を宿しながら見つめてくる深蒼しんそうの双眸に、俺は確かな決意を胸に刻み奮わせながら告げた。


「俺は、藍李さんと一緒に幸せになりたいです。あの人と一緒に色々いろんなことを経験して、苦難を乗り越えて行って、手を取り合いながら未来まえに進んでいきたい。それは片方だけの想いじゃ実現しない。一緒だからこそ、きっといつまでもお互いを想い合っていける」

「――っ!」

「俺はそんな風に生きていける道があるって知ってるから」


 その『理想』とも呼べる夫婦の在り方を、硬く手を繋ぐ二人の男女の背中を小さな頃から見てきたから知ってる。


 そうやって互いを想い合って生きていく事こそ、いつまでも変わらぬ久遠の愛情を交わし合って生きていけるのだと、そう、敬愛する父と母から学んだから。


「だから俺片方だけの想いじゃなくて、藍李さんの想いも大切にしながら一緒に生きていきたいです。あの人はきっと、俺を離そうとはしませんから。だからその受け取った愛情を、返せるかどうかは分からないけど、ちゃんと返していきます」

「――――」

「大丈夫です。海星さん。俺は何があっても藍李さんのことを裏切りませんし、過去のことも、まだ藍李さんが引きっているなら、俺がどうにかしてみせます」


 もっと愛情を注いで欲しいとお願いされればそれに応えるまでだし。

 

 もっと一緒にいて欲しいとお願いされれば、それはむしろ俺の方からお願いしたい。


 どこにも行かないでと懇願されたら、俺はいつまでも彼女の傍にいよう。


 俺は、緋奈藍李から離れない。簡単には離れられないくらいにはあの人に夢中で、ゾッコンで、あの人無しじゃ生きられない体に改造されてしまっている。


「俺はいつまでも変わらず、緋奈藍李さんと共に在り続けます」


 それはいずれ義父ぎふとなる者への、悔悟かいごを抱き続ける男性への、大事な一人娘を託そうとしてくれている父親へ捧げる誓いだ。


 俺と藍李さんが結んだちぎり。それを、今一番理解して欲しい人に伝える。


 雅日柊真は、緋奈藍李の寂しい思いもまとめて受け止めて愛すと、そういう決意と誓いを。


 それをただ静かに聞いてくれていた海星さんは、唇をきゅっと結んで、胸裏で奔流する感情を必死に隠すように目元を手で覆った。


「はは。やっぱりキミは眩しいね。どこまでも一途で、純粋で――そして、藍李を想ってくれている」

「俺にはあの人しかいませんから」

「娘のことどれほど好きなのさ、キミは」

「世界で一番愛してます」

「迷いなく答えた上に婚約者の父親に向かってそれを言うか」

「知って欲しいんです。海星さんに。俺が、貴方がずっと大切に見守り続けてきた娘さんを本気で愛していることを」

「――っ!」


 海星さんが己の過失に気付かないまま藍李さんとも向き合えずにいたら、この親子関係にはより確執が生じていたはずだ。


 反抗期に入って何らおかしくない高校二年生の少女が父親を嫌悪せず、それどころか親愛の眼差しを向けているのだ――それはただひとえに、海星さんが藍李さんを大切に想いながら育てたことの何よりの証明だろう。


 そんな人のどこが、父親じゃないだ。


 俺からすれば海星さんだって、一人の立派な父親として映って見える。


 むしろ、俺は海星さんに感謝しかない。


「ありがとうございます。海星さん。俺を、藍李さんと出会わせてくれて」

「は、はは。本当にキミって子は、娘だけでなく、父親までたぶらかすつもりかい?」

「そんなつもりないですけど⁉」


 目元を隠しながら呆れたように失笑する海星さんに、俺は照れくさそうに頬を掻いた。


 それからしばらくは、感情を整理するのに必死な海星さんが落ち着くまで缶コーヒーを飲み進めながら待って。


 ようやく目元を開けた海星さんの瞳には、潤みと赤みが差していた。けれど、その顔立ちに憂いは見えなくて。むしろ憑き物が晴れたように感じた。


「――こちらこそ、ありがとう。柊真くん。キミのような子が藍李の恋人になってくれて、心から嬉しく思うよ」

「あはは。まだ未熟者ですけど。それでも、藍李さんを幸せにできるよう頑張っていきます」

「ふふ。キミならきっとできるさ。娘と一緒に、どうか幸せになってくれ」

「はい。ありがとうございます。海星さん」


 この人とならきっと、俺は上手くやれていく気がする。

 この子なら必ず、娘を幸せにしてくれる。


 それぞれの想いを胸に宿し、俺と海星さんは強く、硬く互いの手を握り合った。





【あとがき】

これで晴れて両家公認の婚約者となりました。

さて、次話はとてもとても面白い話です。何で本話がこんな感動する話なのに次回面白いんだよという疑問は明日、あのお方が暴走とともに答えてくれます。

次話も目が離せませんね。


Ps:緋奈藍李がアップを始めた模様です。



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