第79話  カノジョと名前呼び

「そうだ。忘れる前に伝えておくわ。俺、緋奈さんと付き合い始めたから」

「…………」

「なにその顔?」


 新たな誓いを互いの胸に刻み込んだ夜。カノジョの自宅から名残惜しくも自分の家へと帰宅した俺は、丁度完成した料理を運んでいる母を見つけて素っ気ない口調で報告した。


 少し照れ交じりに告げると母さんはぱちぱちと目を瞬かせていて、俺はそんな母親の反応にいぶかるように眉根を寄せた。


「そんなこといちいち報告しなくていいわよ」

「そういう訳にはいかない。これからは帰りも遅くなるだろうし、それなら事前に恋人ができたこと報告しておいた方が後々詮索されなくて済むだろ」

「合理的というか律儀というか」


 息子の抗言こうげんに母さんは呆れたように嘆息をこぼした。

 それから、母さんは俺の茶碗を静かに置くと、感慨に浸るような吐息をこぼして、


「でも、そう。ちゃんと付き合えたのね。藍李ちゃんと」

「ん。心配かけてごめん」

「心配が掛かるのはこれからでしょう」


 数日前に母親と口論したことが未だに胸の中で尾を引いていた。その謝罪とぎこちなく頭を下げれば、母さんは困ったような笑みを浮かべて背中に手を添えてきた。


「藍李ちゃんに迷惑掛けちゃダメよ。あと失望もさせちゃダメ」

「分かってるよ。あの人を泣かせたくないし、緋奈さんにはずっと笑顔でいてほしい」

「そういう所、ほんとお父さん譲りねぇ」


 母さんは後ろのソファーでバラエティ番組を観てる父さんと俺を交互に見つめながら唇に薄く弧を引いた。


 まるで親と子を似重ねているような表情に、俺は思わず照れくさくなってそれを紛らわすようにコホンッ、と咳払いする。


「そういうわけだから。今後は夕飯も要らなくなる日が増えるかもしれない」

「なに? もう藍李ちゃんの家に泊る気?」

「流石にそこまでは考えてねぇよ。でも、夕飯は食べてから帰ってくるかも」

「あまり無茶はさせちゃダメよ」

「俺もそう言ったんだけど、俺にご馳走したくて仕方ないんだって」

「愛されてるわねぇ」

「自覚してるよ」

「そこは少しは恥じらいなさいよ」

「恥じらう訳ないだろ。緋奈さんからもらえる好意は、俺にとっては全部誇りなんだから」

「そういうのは自分の母親じゃなくてカノジョに言ってあげなさい」

「言えるか。んな恥ずかしいこと」

「さっきと言ってること違うわよぉ」


 間違ったことなんて何一つ言ってるつもりはないのだが、母さんは言及するような視線を送って来る。


 当事者か当事者ではないかでこの言葉の重みは違ってくる。こんな歯の浮くような台詞、恋人である緋奈さんの前で言えば俺はきっと顔を真っ赤にするだろうし、緋奈さんも照れてしまって収集がつかなくなってしまうかもしれない。


 ただでさえ今はお互い初めてのカノジョ・カレシが出来て浮かれ状態なのだから、その破壊力は想像に易い。


「父さんも! 俺、これからはカノジョに家に行くことが増えるから帰り遅くなること伝えておくわー」

「うん。緋奈さんによろしくね」


 後ろのソファーでくつろいでいる父さんにも一応伝えると、父さんは朗らかな笑みを浮かべながら承諾してくれた。


 こんな風に子どもの意思を尊重してくれる両親でよかったと、心底そう思わされる。けれど、その想いは恥ずかしくて絶対に言葉にはできない。緋奈さんには言えるけど。


「ん。ちゃんと伝えておくよ」


 なにはともあれ両親への報告も済ませたので、これでようやく後腐れなく緋奈さんと付き合える。


「さ。そろそろ夕飯にするから、お父さんは席に座って。しゅうはお姉ちゃんを呼んできてちょうだい」

「了解」

「……それと、今度藍李ちゃんを家に呼んできなさい。いつもご飯作らせてばかりでは親としても申し訳ないし。これを機に私も藍李ちゃんともっと仲良くなりたいわ」


 それは姉を呼ぶついでに頼む事ですかね母さんや。

 俺は苦笑を浮かべながら、


「はいはい分かったよ。できるだけ早く、母さんと父さんに俺の自慢の恋人を紹介するよ」

「ふふ。きっと、カノジョとは長い付き合いになるだろうから、今のうちに色々と準備しなくちゃ」

「気がはえぇよ」

「あら。案外そうでもないかもしれないよ?」


 緋奈さんとは既に面識のある母さんは、将来のお婿さんになるかもしれない恋人に気分上々だ。そんな母を憂う俺の肩に手を乗せた父さんまでも不敵な笑みを浮かべていて。


「もうしゅうの緋奈さんに寄せる愛慕は家族全員が知ってしまっているからね。しゅうが言った通り、カノジョがしゅうを見捨てなければ、二人の関係はずっと続く。そしてきっとそれは、僕や母さんよりも長くね」

「そうかな?」

「未来は信じなきゃやってこない。……別れる気はないんだろ?」

「無粋だろ、その質問」


 半目で睨めば父さんは息子の反応が答えただとでも言いたげに微笑を浮かべた。

 俺はやれやれとため息を吐いて、


「ないよ。別れる気なんて微塵も。幸せにしたいし、絶対に幸せにする」

「今はその気持ちだけで十分だよ」


 俺はまだ学生で、子どもで、責任なんて何一つ取れやしない。けれど、だからこそこの胸に強く誓いを立てる。

 そんな俺の覚悟を、父さんは穏やかな笑みとともに肯定してくれた。


「それじゃあ、父さんにも早くしゅうの可愛い恋人に会わせてくれるね?」

「それは緋奈さんの気持ち次第だな。まぁ、あの人なら二つ返事で来ると思うよ」


 それはもう、押しかけ女房のように。我を強く。ヤンデレの如く。


 緋奈さんはそういう人だ。


 何なら誘えば今週末にはもう挨拶にやって来そうだと思ったのは、ここだけの秘密にしてほしい。


「ま、流石にそんなすぐ家には来れないか」

「だね。父さんもちょっと浮かれちゃったかな」

「「あははっ……はは」」


 お互い、まさかそんなはずはないと笑う。


 しかし、その笑みの奥で『あれ、これフラグじゃね?』と邪念が過ったことは、父と息子の暗黙の了解で口には出さなかった――。



 ***



「そっか。ご両親に付き合ったこと報告したんだね」

「はい。今後のことを踏まえれば、先に報告した方が色々と気後れしないと思いまして。迷惑でしたかね?」

「ううん。私は得策だと思うよ。しゅうくんのご想像通り、今後は私に家に来てもらう機会も増えるだろうし、そのまま泊まる日だってあるしね」

「断定してるんですね」

「ふふ。そういうことを期待してたから先に手を打っておいたんじゃないの?」

「……ノーコメントで」

「あはは。その反応が答えのようなものだよ」


 露骨に視線を逸らす俺に、緋奈さんはくすくすと口許を抑えながら笑う。


 こういう他愛もない会話も随分と久しぶりな気がするな、と自然と双眸が細くると、不意に伸びてきた彼女の手が俺の左手を絡みとって。


「ちなみに、私は期待してるよ?」

「――っ!」


 思いがけぬ一言に俺の顔が一気に真っ赤になる。そんな恋人の反応を見て、見つめてくる紺碧の瞳が慈愛を灯して揺れる。


「あはは。可愛い反応。これだからしゅうくんを揶揄うのは止められないな」

「~~っ。あんまり揶揄いすぎると、いざする時に後悔しますからね」

「お仕置きしてくれるんだ?」


 なんでちょっと嬉しそうなんだよ。


「年下男子の意地を舐めないでくださいね」

「じゃあその時を楽しみにするとして……どうする? 今日、さっそくうちに泊ってく?」

「いくらなんでも進展早すぎます! 俺たちはまだ……その、き、キスだってしてないんだから」

「じゃあ今しよっか」

「学校ですけどここ⁉」


 急展開についていけないと目を回せば、そんな俺を見て緋奈さんは心底愉快そうにお腹を抱えて笑った。……しまった。また揶揄われた。


 目尻に涙を溜めて笑う彼女に俺は大仰にため息を落とす。


「はぁ。なんか、藍李・・さんの揶揄い癖悪化してません?」

「……」

「藍李さん?」

「――っ⁉」


 彼女の悪い癖に嘆いていると途端に笑みが消えて、それに眉根を寄せて振り向けば愛しの恋人が目をぱちぱちと瞬かせているのに気付いた。


 もう一度彼女の名前を呼ぶと、困惑していた顔が次は驚愕きょうがくに変わった。


「しゅうくん。今、私の名前……」

「あはは。すごい動揺してますね」


 まだ戸惑いをはらむ声音が、震えながら訊ねてくる。瞳に歓喜を少しずつ貯めていく彼女の姿に俺は思わず笑ってしまいながら――もう一度、黒瞳が映す最愛の人の名前を呼んだ。


「はい。なんですか――藍李さん」

「――っ‼」

 

 今度こそ恥じらうことなく、しっかりと大好きな人の目を見て名前で呼ぶと、彼女は声にもならない小さな悲鳴をあげた。


 の空いた口を両手で抑える緋奈さん――藍李さんに、俺は照れ交じりの笑みを浮かべながら言う。


「ずっと、正式に付き合い始めたらアナタのことを苗字じゃなくて名前で呼ぼうと決めてたんです。ほら、そっちの方が恋人っぽいし、それに藍李さんは最初からずっと俺のことを下の名前で呼んでくれてたのに、なのに俺の方は付き合っても苗字呼びじゃ格好がつかないかなって」

「――――」

「それに、俺は藍李さんの名前がすごく好きだから」

「――っ!」


 呼んでいて心地よく響きのいい名前だと思う。凛々しく、気高く、高潔で、けれど俺といると年相応に可愛い反応を見せてくれる彼女にピッタリな名前だと思った。


 緋奈藍李。


 俺が一目惚れした女性で、ずっと憧れ続けて、そして今は愛してやまない人。


 そんな彼女の名前を言の葉に乗せれば、胸に湧くのは言葉にはし難いほどの幸福と感慨で。


「――あ、あぁ。や、急に名前なんて呼ばれたら、だめ」

「……ひょっとしなくても照れてます?」

「今は顔見ちゃダメ!」


 なんだかやけに静かだなと思って隣に座る藍李さんの顔を覗き込もうとすれば、彼女は慌てて真っ赤にした顔を両手で隠した。


「なんて可愛い反応だ!」

「ふ、不意打ちはずるいよ! まだしゅうくんに名前を呼ばれる心の準備できてなかったのに!」

「これで少しは俺の気持ち分かってくれましたかね?」

「――ぁ」


 珍しく狼狽する藍李さんが面白くて、つい悪戯心が働いてしまう。


 照れて真っ赤にする顔を隠す両手。その左右の手首を掴んで、俺は無理矢理真っ赤になっている顔を拝んでやった。


「はは。照れてる藍李さん。超可愛い」

「や、や! 今は顔見ちゃだめえ⁉」

「いいじゃないですか。もっと見せてください。照れた藍李さんも可愛いですよ。世界一可愛い」

「今名前呼びと誉め言葉の波状攻撃しないで~~っ⁉」


 顔を真っ赤にして瞳まで潤ませて、俺に名前を呼ばれた程度で悶える藍李さん。


 普段の凛々しい姿からは想像できないほどに狼狽えた表情が、余計に男心をあおってくる。


「いつもいつも俺を揶揄ってくるお返しと思って我慢してください。――藍李さん」

「わざと名前呼んでるでしょ⁉」

「この名前好きだって言ったでしょ。何度も呼びたくなるくらい」

「意地悪なしゅうくん嫌い!」

「俺は年下男子に揶揄われる藍李さんが大好きですよ」

「うぅぅぅぅ⁉ ……いつからそんな、年上のお姉さんを弄んで悦ぶ悪戯っ子になっちゃったのよ」

「今なりました。ちなみに、俺をそうさせたのは藍李さんですからね」

「私何もしてないよ⁉」

「してますよ。アナタが可愛い反応魅せるのが悪い」


 可愛いから、ついイジメたくなってしまう。藍李さんだって俺と同じ気持ちだから、これまで散々俺を揶揄ってきたんだ。


 なら今回は俺の番ということで。思う存分カノジョさんの可愛い反応を堪能しよう。


「俺をこんな風にした責任、ちゃんと取ってくださいね。――藍李さん」

「~~~~っ! ……いいよ。ちゃんと取ってあげる。覚悟してね。――しゅうくん」


 やられてばかりでは年上の矜持が保てないと悟った藍李さんは、潤んだ瞳で俺を睨みながら凶悪な笑みを浮かべた。その凶悪ながらも可愛い笑みに応えるように、俺は唇を綻ばせて――


「言質取りましたからね。俺から逃げないでくださいね」

「逃げないよ。これからしゅうくんが私にくれる愛情全部、受け止めて、それ以上にして返してあげる」

「あははっ! それは楽しみですけど……うん。ちょっと怖いなぁ」

「なんでよ!」


 藍李さんと共にいられる幸福を、俺は強く、強く噛みしめるのだった。




【あとがき】

長かく、怒涛の展開も続いた第2章もこれでついに完結です。最後はこれまで藍李に散々揶揄われてきた柊真の反撃で幕を閉じました。藍李呼びからの両手掴んで照れた顔拝むとかちょっとSっ気あるのいいよね。

これからは二人のそういった愛情表現がもっと増えていきます。お互いに愛情を注ぎ合って、溺れちゃうくらい。もう誰にもこのバカップルは止められません。というか止まりません。


何度も告知していますが、続く第3章は、晴れて正式な恋人となった二人の甘々な展開を中心にして物語が進んでいきます。ちょっと暗い話もありますけど、でも9割甘い話で構成されてます。


そういった詳細はこの後に公開される蛇足2でお伝えしていきます。蛇足2も見逃せない情報がたくさんありますよ。

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