第76話  いざ、決戦へ

 一歩、階段を踏む毎に、心臓の鼓動が早まっていくのを感じた。


 けれど頭はクリアで、吐く息に重みはありながらも苦しさはなかった。


 大丈夫。


 真っ直ぐに、歩けてる。


 そう自分に言い聞かせるようにして前へ前へと進んでいけば――辿り着いた先で待っていたのは好奇の視線だった。


「ねぇ、誰?」

「あんなイケメン私たちの学年にいた?」

「胸ポケットのバッチで分かるじゃん。一年生でしょ」

「一年生が何の用だろ?」


 四時間目の前の休み時間。一つ学年が違うだけで雰囲気も異なって見える空間の中で静かに息を整えて、そして俺は声を震わせた。


「こちらに緋奈藍李先輩はいらっしゃいますか?」


 やや緊張をはらむ声音が教室に響き渡れば、男子は瞬時に俺に警戒心と敵愾心てきがいしんを宿した視線を向け、女子の方は即座に何かを察したように視線をスマホに落とした。


 男女の反応の露骨さに胸中で失笑しながら誰かしらの応答を待っていると、教室の前の席で見覚えのある人たちを捉えた。


「ほーら藍李。本日の挑戦者チャレンジャーだぞ」

「早く行って対応してあげないと」

「分かってるわよ。時間もないんだし手短に済ませてくる」


 ツーサイドアップの茶髪髪の少女とウェーブの掛かった水色髪の少女は双方愛らしい顔にニマニマとした歪な笑みを浮かべている。その二人――心寧さんと鈴蘭さんに揶揄われる黒髪の女性は、それを煩わしそうに口を尖らせた。


 ちらっとその三人の後ろに視線を移せば、こちらを心配そうにチラチラと見てくる姉ちゃんがいて。


『安心しろよ。俺は逃げないから』


 それに思わず苦笑がこぼれてしまう間にも、艶やかな黒髪を揺蕩たゆたわせる女性、緋奈先輩が教室の出入り口に近づいてくる。


 そして、彼女が俺の前に立つと、


「何の用?」

「――――」


 しゅうくん、とようやく聞き慣れてきた軽やかに弾む銀鈴の声音はもうどこにもなく、俺の鼓膜を震わせたのは冷ややかな、それこそ凍てついてしまいそうなほどに刺と距離感のある声音だった。


 紺碧の瞳にも同様の色を湛え、緋奈先輩が関係を終わらせた男子を見つめる。


 教室の空気が俺と彼女の間に漂う剣呑けんのんな空気に一斉に静寂と化したその中で、俺は彼女その冷たい態度に動じずに口を開いた。


「今日の昼休み。話があります。お時間頂けないでしょうか」

「生憎今日のお昼は先約があるの。また今度でもいいかしら?」

「今日がダメならまた明日。明日がダメならまた明後日――アナタが応じてくれるまで、俺は何度だってアナタの下に来ますよ」

「…………」


 まるでストーカーのような言い分だ。脅迫きょうはくにも似た懇願に、緋奈先輩は諦観したように吐息を落とすと、


「いいわ。今日の昼休み。中庭で待っててあげる」

「……あの、できれば体育館裏がいいんですけど」

「そこ以外は受け付けないわ」


 ツンとした態度でそう言い切られ、俺は胸中で『……強情だな』と頬を引きつらせる。まぁ、なにはともあれ話を聞いてくれるならそれで構わない。


「分かりました。今日のお昼。中庭で大事な話をさせてください」

「えぇ。そこでなら貴方の話を聞いてあげる」

「ありがとうございます」


 緋奈さんからの要求に承認と短く顎を引けば、緋奈先輩は「じゃあまたね」と素っ気ない態度で自席へと戻っていった。

 その背中に一礼して、俺も教室を後にする。


「……ふぅ」


 まずは前哨戦を制した。

 あとは、昼休みを待つだけ。

 そこで、俺と彼女の恋に本当の決着がつく。



 ***


「――ふぅ」


 真雪の言う通り立ち直ったしゅうくんからの宣戦布告を受けて、私はひとまず安堵の息を吐いた。


「よかったね。弟くん。藍李とちゃんと向き合う覚悟決めたみたいで」

「これでうちらの計画もいよいよ大詰めって感じですなぁ。あとは弟くんがビシッと決めるだけ!」

「うん。私も、もう覚悟はできてるから」


 私の席に集まっている心寧と鈴蘭の二人はその時が親指を立て、それに私は短く顎を引く。


 それから私はもう一人の親友、真雪へと視線を移せば、彼女は机に項垂れながら深い吐息をついていた。


「ふあぁぁ。観てるこっちが心臓止まるかと思ったよ!」

「それな。ちょっち弟くんへの態度きつくなかった?」


 真雪の言葉に鈴蘭と心寧が同感だと眉根を寄せて私を睨んでくる。そんな三人に、私はぎこちない笑みを浮かべながら答えた。


「あはは。その、本当はあんな態度取るつもりじゃなかったんだけど、今は一瞬でも気を緩めるとすぐにしゅうくんを求めそうになるのが怖くて、それであんな態度取っちゃった」


 皆がこれまで紡いできてくれた努力を私の弱さで台無しにするわけにはいかない。その為に己を律し、彼に縋りそうになる心を無理矢理プライドというテープで補強した。ただ少々それを貼り過ぎて、気の強い侯爵令嬢みたいな態度を取ってしまったけど。


「まぁ、今朝までの落ち込み具合を考えれば頑張って『緋奈藍李』を演じたほうか」

「ね。弟くんをフってからの藍李の気の沈みよう半端なかったよね。朝は起き上がれないし登校中は電柱に頭ぶつけるし、ご飯なんて鈴蘭と真雪が食べさせてたもんね」

「どんだけしゅうのこと好きなんだよとは思ったけどねぇ」

「電話する時なんてまさか二時間も掛かるなんて思ってもなかったよ」

「笑いごとじゃないわよっまったく!」


 あれは相当覚悟してしゅうくんをわざとフってるんだから。嘘とはいえ、その賭けに負ければ、私と彼の関係は本当に白紙になってしまう上に、他の女の子たちが傷心中のしゅうくんに付け入る時間を与えてしまう危険リスクともなっていた。今回は天が私に味方してくれたけど、次はそう上手くいくとは思わない。――ううん。次なんて、そもそもないんだ。


 私はこれまでの過去と、これからの未来の全てをチップにBETした。


 しゅうくんに他のどの女の子でもない。『緋奈藍李』を選んでもらう。私はその賭けをしたのだ。運命という名の見えない未来を手に入れるために。


 この賭けに負ければ、私はしゅうくんの記憶にはただ強情で、傲慢で、彼を弄んだ最低な悪女として残り続ける。賭けに勝たなければ、私は所詮、彼にとってはその程度の女でしかない。


 その程度の女のために、彼が傷つく必要はない。その程度の女のために傷つくくらいなら、自分から身を引いたほうがマシだ。


 でも、もし私が彼にとってその程度の女じゃなかったら、彼にとって私が世界で一番必要している存在だとしたら、その時はどんな困難も乗り越えていける二人になれる。気がするんじゃない。そう、信じてるんだ。私は。


 だから、私は私の全てを掛けてあの時彼をフッた。


 そして彼は立ち直り、また私の所へ来てくれた。


 それこそ、私が望んだ未来。二人で共に幸せになるための、その始まりだから――


「ま、告白のあとのことは任せなさいな。既に私と心寧のほうであらかた扇動は済んでるからさ」

「うぃっす。藍李は心置きなく弟くんとイチャつけばいいよ」

「わ、私も! 二人に何かあったときは、生徒会の権限使って全力で守るよ!」

「あはは。ありがとう。皆。大好きだよ」


 向けられる微笑みに、私も同じ笑みを象って心からのお礼を告げた。


 私は一人じゃない。それを、ここにいる三人が教えてくれる。


 だから、


「――昼休み。ちゃんと待ってるからね。しゅうくん」

 

 だから私は、胸を張って彼と向き合えるんだ――。



 ***

 

「……ふぅ」


 ――四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いて、俺は静かに息を整える。


「はぁ。――行くか」


 ノートと教科書を閉じて机に仕舞って、席を立つ。

 歩き始め、教室を出ようとした直前だった。


「しゅう」「柊真」


 背後から親しみのある声音に名前を呼ばれて、俺はゆっくりと振り返る。


「顔、すごいことになってるよ」

「うっせ。言われなくても分かってるよ」


 顔を向かい合わせると神楽が頬の硬い俺を見て苦笑を浮かべた。それに悪態を吐きながら返せば、今度は柚葉が言った。


「今にも吐きそうな顔してるね」

「まぁ、これから告白しようって相手のことかんがみれば、こうなりもするだろ」

「し、深呼吸しな! 私も一緒にしてあげるから! はいっ、せーの!」

「大丈夫。緊張はしてるけど、退く気はないよ。それに……」


 柚葉は顔面蒼白な俺を見てはらはらとしていた。そんな柚葉に俺は微笑を無理矢理作って浮かべてみせて、


「俺が緋奈先輩にフられたら、その時はスタパおごってくれる約束だろ?」

「お、奢らせるなよ!」


「そうならないよう祈っててくれ」


 柚葉と神楽が俺にスタパを奢る時は、きっと俺の顔は今よりももっと酷いことになってると思う。

 だから柚葉と神楽には、俺が二人に奢る未来に期待してて欲しい。


「じゃ、行ってく……」


 る、と二人に背中を向けた――その、瞬間だった。


 バチン! と快音が背中で鳴って、俺は目を見張る。


 咄嗟とっさのことで、最初は戸惑った。けれど、ジンジンとした熱さと痛みが背中から全身に駆け巡ると、二人にされたことを理解して。


 それと同時、それまで緊張で強張っていた頬に自然な苦笑が浮かび上がった。


 衝撃でわずかに浮いた足。それが音を立てて着地した時にはもう、未来に足をすくめる俺はいなくて。


「頑張れ! しゅう!」

「決めてきな! 柊真!」

「――おうっ!」


 柚葉と神楽。背中を押してくれた友人に応えるように、俺は力強い一歩を踏みしめた。


 ――そしてついに、俺は決戦の舞台へと上がった。




【あとがき】

次回。ついに告白回です。そして1/11(木)、第2章のラストにもなります。

波乱と怒涛の展開が続いた第2章。そのフィナーレをどうか最後までお見届けください。温かい目で見守るかは読者さまに委ねます。

ps:あ、蛇足まだ書いてねぇや。

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