第73話  馬鹿野郎でいい

「なーんもやる気がしない」


 ついにベッドから起き上がる気力すらなくなって、学校をサボった。


 おそらく親が学校へは連絡しているだろう。いったいどんな理由で俺を休ませてくれたのかは分からないが、正直そんなのどうでもよかった。


 ベッドに寝転んだまま、いったいどれほど時間が経っただろうか。


 スマホを点けて時刻を確認しようとするも、画面が真っ暗なままで何の反応も示さない。そういえば、昨日から一切充電してなかったっけ。


 じゃあもういいやと手繰り寄せたスマホを投げ捨てた。時間なんて気にしても無意味だ。


 もう何もかもが、無意味だ。


「……お腹も空かねぇや」


 昨日の夕方から何も口に含んでいないはずなのに、胃は一向に食事の催促さいそくをしてくることはなかった。いや、正確には何度かはあった。けれど、それを全て無視した。

その果てに、腹は音を鳴らすことを止めて、胃は空っぽでいることを黙認した。


 それがまるで今の俺みたいで、ふっ、と乾いた嘲笑ちょうしょうが口からこぼれた。


 泣くことや憤ることに疲れて彼女を諦めて、以前の自分に戻ることに納得した今の自分に、この腹と胃の状態はよく似ていた。


 そんなところで自分の現状を映し出されても何も嬉しくないし下らないと思いながら、俺はまた布団の中でうずくまった。


「はは。寝すぎたせいで寝れねぇ」


 蹲ったところで睡魔はやって来ず、真っ暗闇の中でため息を落とすくらいしかやることがなかった。


 でも、そうやって殻に閉じこもっていると、辛い現実を忘れられるような気がして安堵した。それが刹那的であれ、錯覚であれ、惨めになった自分を救ってくれるなら喜んで縋った。


 そうして一人の殻に閉じ籠っていると、不意にドアをノックする音が聞こえた。


「入るよ」

「――――」


 母の声でもなく、父の声でもない。朗らかで甲高い声音は、姉ちゃんの声だ。


 その姉の一報を無視するも、扉は勝手に開かれて姉ちゃんが部屋に入って来る。


 俺は変わらず布団に潜っているので姉ちゃんの姿は見えない。ただ、近づいてくる足音と食器が揺れる音だけは聞こえて、その後にベッドのふちきしむ音がした。


「今日。学校休んだんだって?」

「――――」

「どうした? 体調悪いの?」


 ベッドの縁に背中を預けた姉ちゃんが、布団の中で蹲る俺に問いかけてきた。しかし、それに俺は何一つ答えず、その問いかけが一方的な語りかけのようになる。


「最近調子よかったのにどうしたのさ?」

「――――」

「皆褒めてたよ。しゅうのこと。お母さんもお父さんも、私だってしゅうのことすごいなーって思ってたのに」

「――――」


 だから何だよ、と胸裏で一蹴いっしゅうする。


 どんなに努力して、それを認められたって、一番大切な人に認められなきゃ意味ない。


佐野さのセンに言われたよー。アンタの弟が林間学校で虫に噛まれた子を助けたって。二人揃ってすごいじゃんって」

「――い」

「テストだって超いい結果だったんでしょ。アンタのせいで私がお母さんに叱られちゃったんだから。アンタもしゅうを見習ってもう少し頑張りなさいって」

「――ない」

「お母さんもお父さんも、私も、皆しゅうのこと見直したんだよ。やっぱりアンタはやればできる子だって――」

「意味ないんだよ!」


 ほがらかな声が紡ぐ言葉を乱暴にさえぎるように、布団の中から叫び声を上げた。姉の激励を否定するように。俺はそのまま胸に渦巻いたどす黒い感情を爆発させる。


「全部無意味だったんだよ! 俺がこれまで努力してきたのはっ! 全部ッ、全部あの人と一緒にいたいからだった! その為に必死に頑張った! 苦しいって、もう止めたいって何度も弱音を吐きかけた! それでも! あの人とっ……緋奈さんと一緒に居たかったから、他人に認められるように藻掻いてきた。……でも、その全部が間違いだった」

「――――」

「俺の努力は、結局俺の一人よがりでしかなかった。他人を認めさせればいいって……そうすれば緋奈さんを悲しませなくて済むって、そうやって自分一人で決めつけて、勝手に頑張ってただけだ」


 きっと姉ちゃんは、何も知らない。俺と緋奈さんの関係を。そして、今この慟哭に彼女の名前が挙がる理由も。


 姉にだけは、俺たちの関係を知られるわけにはいかなかった。この曖昧あいまいな関係は、緋奈さんを大切に想っている姉にとっては不愉快でしかないはずだから。


 いや、それも今となっては言い訳だ。


 本当は、怖かったんだ。姉に弾劾されるのが。


 不甲斐ない自分のせいで緋奈さんに窮屈きゅうくつを強いていることを、それを糾弾されるのが怖かった。


 だからずっと隠し続けてきたのに、今でもその意思は変わっていないはずなのに、それなのに、制御が効かなくなった感情から彼女の名前がつらつらと零れ落ちていく。


 大好きだった人の名前が、涙とともに零れ落ちていく。


「……また、緋奈さんを悲しませた。苦しめた。もう俺に、あの人の隣にいる権利なんてない」


 こんな情けない男なんて切り捨てられて当然だと、彼女にフられた今なら分かる。


 努力しているつもりで、本当は逃げていただけだ。彼女の隣に立つという、その重圧から。


 そうやって逃げ続けてたから、緋奈さんは俺を見限って捨てた。もうそこに、何の不条理さも湧かない。あるのはただ、自分への無力さだ。


「だから、もういいんだ」


 結局は自分は井の中の蛙で、世間知らずなガキで、どこにでもいる極々平凡な男子高校だった。


 研鑽けんさんを積めば王子様になれると勘違いした――


「俺は、あわれな馬鹿野郎だよ」


 あれほど己惚れるなと自分を自制してきたはずなのに、いつからかそのタカが外れて己惚れていた。本当に、どうしようもないほどの大馬鹿野郎だった。


 吐き捨てるように自嘲したあとはもう何も話さなかった。やり場のない感情は、喪失感となってこの穴の開いた胸に残り続けている。


 ただ俺のおごりを無言で聞いていた姉は何の返事もみせなかった。


 ついに姉にも見捨てられたか、と嘲笑が零れ落ちようとした瞬間だった。


「――いいんじゃないかな。馬鹿野郎で」

「――は?」


 俺の忸怩じくじ悔悟かいごを静かに聞き届けていた姉が、それを肯定するように小さく笑った。


 布団の中で呆気取られて喘ぐ俺に、姉ちゃんは優しい声音で続けた。


「べつにさ。しゅうの努力が間違ってたなんて誰も言ってないし、思ってもないよ」

「…………」

「これまでしゅうが藍李の為にって思ってしてきたことは、何も間違ってない。少なくとも、お姉ちゃんは立派だなぁ、って思ってる」

「…………」

「誰かの為に行動する。それって簡単に見えて、実際はかなり大変じゃん。それをしゅうは今日までやってきたんだよ。それを、しゅう自身が否定しちゃいけない」

「……でも、結局俺は、緋奈さんを傷つけた。あの人のことをちゃんと見なかったせいで、呆れられた」

「しゅうはちゃんと藍李のこと見てたでしょ。これまでずっと。だから、あんなに必死で頑張ってきたんでしょ。頑張りすぎて周りが見えなくなっちゃうくらい、藍李のことを幸せにしたいって気持ちでいっぱいだったんだよね」

「――っ」


 姉ちゃんの言葉に、乾き切っていた何かが再び疼く感覚した。それはすぐに胸の中であふれ出し、そして留め切れず目頭から『涙』となってベッドにシミを滲ませていく。


 どうして、姉ちゃんは分かるんだろうか。俺ですら気付かなかった、俺の彼女への想いに。


「でもね、しゅう。それは藍李も同じなんだよ。しゅうのことを大切に想ってるから、しゅうに悲しんだり傷ついて欲しくないから、自分の気持ちを押し殺してしゅうと別れた」

「――――」

「藍李はずっと、しゅうと一緒にいることを望んでた。それでも自分のせいでしゅうが傷つくならって、自分と離れてしゅうが幸せになってくれるならって、しゅうのことを思ってしゅうと別れたんだよ」

「――――」

「しゅうはさ、それでいいの?」

「――――」

「このまま蹲ったままで、本当に藍李との関係を終わらせちゃっていいの?」


 暗闇の中から、静かな声音がそう問いかけてくる。


 まるで俺自身の心に訴えかけてくるような、こんな結末で満足しているのかと叱責しているような、そんな、立ち止まった背中を押すような問いかけ。


「みっともなくても、惨めでも、醜くてもいいじゃん。藍李は『お姫様』なんかじゃない。どこにでもいる、普通の女の子なんだよ」

「――――」

「それをしゅうが一番理解わかってるんじゃないの?」


 知ってる。


 彼女がそんな人だって、俺はよく知ってる。


 笑顔が素敵で、何気ないことに大はしゃぎして、喜んで。


 よく不満そうに頬を膨らませたり、拗ねて口を尖らせたり、年相応に色んな表情をみせてくれて。


 何よりも、年下の男子を揶揄うのがたまらなく好きな、意地悪なお姉さひとんだってことを、俺は誰よりも知ってる。


 だって、俺はずっと、あの人のことを――緋奈さんのことを見てきたんだから。


「――知ってるよ。緋奈さんは『お姫様』なんかじゃない、俺を揶揄うのが大好きな人だってことは、俺が一番よく知ってる」

「だよね」


 彼女と重ねた日々を思い出しながら、胸に灯った温もりを握り締めながら声を震わせた。


「姉ちゃんほどではないけど」

「あはは。当たり前じゃん。あたしの方が藍李との付き合い長いんだから。親友舐めんなよ?」

「はは。おみそれしました」


 声を振り絞りながら暗闇から抜け出せば、白い歯を魅せて笑う姉ちゃんがいて。

 それから、俺は静かに姉ちゃんの隣に腰を下ろした。


「ごめん。勝手に弱気になって」

「そうだそうだ。まだ何も終わってないぞ」


 テーブルに置かれた紅茶を一気に飲み干してから謝罪すると、姉ちゃんはけらけらと笑いながら俺の背中を叩いた。


 少しだけ、戻って来た活力。それを感じ取りながら、俺は視線を姉に向けて。


「全部、緋奈さんから聞いたんだ?」

「――うん。全部聞いたよ」


 短い肯定に、俺は驚くことはなく納得したように呼気を吐いた。


 先ほどまでの会話は、俺と緋奈さんの関係を知っていなければ成立しなかったものだ。それこそ付き合うまでの過程と別れるまでの顛末の一部始終を知っていなければ、俺が緋奈さんの名前を上げた時点で姉ちゃんは戸惑っていたはずだ。


 それなのに、会話の中で姉ちゃんは一切動揺をみせなかった。だから俺も、自ずと答えに辿り着けた。


「――今はまだ、俺の方からは話せない」

「うん」

「姉ちゃんの言う通りだ。まだ何も終わってない」


 終わったはずの恋は、しかしまだその火種を微かにだが残している。限りなく残滓ざんしに近いが、俺が諦めない限りその火種は消えることはない。


 ――諦め悪いなぁ、俺。


 我ながらにみっともない男だと呆れる。それでも、この恋は、この恋だけは、簡単には諦めたくなかった。 


 簡単に諦められるくらいなら、最初からあの人に惚れてなんてないから。


「全部終わったら、その時にちゃんと話すよ。それで、ちゃんと姉ちゃんに謝らせて」

「分かった。約束だぞ?」

「あぁ。約束する」


 間違っても、人はやり直せる。それを教えてくれた、気付かせてくれた姉に、俺は力強いまなじりを向けて誓った。


 お互いに微笑みを交わし合い、その約束を胸に刻む。


「おおぅし! 最終決戦に挑む弟の為に、この姉直々におにぎりでも作ってあげますか!」

「はは。緋奈さんに告白する前に死にたくないからマジ勘弁して」

「なにをぉ⁉」


 ――ありがとう。姉ちゃん。


 バカな弟だけど、そんな俺を見捨てないでくれて、本当にありがとう。


 世界で一番大切な姉からもらったバトンをしっかりと握り締めながら、俺はもう一度、折れた覚悟を再起させるのだった。





【あとがき】

これまでどことなく蚊帳の外だったお姉ちゃんが、最高の形で絶望に沈む柊真を再起させた神回。これは文句なく神回だと思います。


実は改稿前は前話・72話と繋がっていた本話。ただ読者様の反応を鑑みて、分割した方がよりお楽しみいただけるかなと思い、本話を改稿、加筆して公開しました。


読者様が本話をどう受け止めてくれるかは分かりませんが、作者的には過去話の中でもダントツで面白い1話だと思ってます。

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