第71・5話  ――さよなら

「おかえ――」

「――――」


 玄関を開けると丁度階段から降りてきた母さんと邂逅かいこうした。洗濯籠を両手に持つ母さんは俺の帰宅に声を掛けようとするも、しかしそれは最後まで言い終えることはなく虚空に消える。


 ふらふらと、足元が覚束ずに歩く俺は、そのまま無言で母さんの前を通り過ぎていく。


 一歩。階段を踏む足が鉛のように重かった。途中、何度か段差を踏み外して転倒しかける。身体が階段に崩れ落ちては這い上がり、這い上がり――力の入らないその足でどうにか自分の部屋まで辿り着けば、扉を半開きにしたまま、リュックを落としてベッドに倒れ込んだ。


『――さようなら』

「……っ」


 頭の中で何度も反芻する別れの言葉。そして、それを告げた女性の顔が脳にこびりついて取れない。


 奥歯をこれでもかと強く噛みしめ、布団にシワを作るほど力強く握った。


 押し寄せる忸怩じょうどう悔悟かいごの激情。涙すら枯れ果て、零れ落ちるのは嗚咽おえつばかりだった。


 自分は、どこで道を間違えたんだろうか。


 緋奈さんを幸せにしたいと懇願したあの瞬間からか。


 緋奈さんの笑顔を守りたいと切望したあの瞬間からか。


 緋奈さんの隣に立ちたいと願ったあの瞬間からか。


 あるいは――彼女の告白を受け入れた、最初からか。


 分からない。


 今はもう、何もかもが間違いだと思えた。


「……そうだ。勉強しないと」


 死体のように生気の抜けた体が、習慣化された本能に反応を示した。ピクッと動いた指先は、けれどその先に向かうことはなくて。


「もう、意味ないじゃん」


 俺が必死こいて勉強していたのは、全て緋奈さんの為だった。彼女と結ばれる為に、他人に自分を認めさせる方法として最短の道を選んだ。しかし、彼女と別れた今、その意味は潰えた。


 他人に認められたところで、緋奈さんに認められなければ努力する理由がない。


「はは。やっぱバカだな、俺」


 自分の思考に矛盾が生じていると、こと今更になってようやく気付く。


「緋奈さんに認められなきゃ、何の意味もないのに」


 他人に認められたいと切望していたのなら、今でも体は机に向かっていたはずだ。けれど、そうではなかった。


 緋奈さんに認められないと悟った瞬間、まるでそれまでの自分の気力が虚飾きょしょくだったかのように抜け落ちた。


 これまでの努力は徒労と、俺の決意の一切が無意味で無価値だったと、彼女と別れて痛感する。


 なんたる皮肉だろうか。


 自分に似合わぬ努力をした結果、全てを失ったのだ。


 そのあまりの馬鹿さ加減に、この口唇からはもはや嘲笑すら枯れ果ててしまった。


「……大切だったのにっ」


 涙はとっくに枯れ果てているのに慟哭どうこくは続く。


「……大好きだったのにっ」


 もうあの笑顔を見れないと理解わかってしまえば、それは絶望以外の何もなくて。


「……もっと、一緒に居たかったのに」


 その未来はもうやってこない。どれほど懺悔と後悔を重ねようと、結果は変わらない。


「……あぁ、くそ。全部夢ならよかったのに」


 そうすれば、この痛みも苦しみもなかったことにできたのに。


 けれど、この胸を引き裂く痛みと苦しみは間違いなく本物だった。夢でも幻でもない。それ故に、彼女との破局が酷薄に現実だと思い知らせてきて。


「もうなにもかも、どうでもいいや」


 失ったものの大きさを、失って初めて実感して。


 そうして俺は、運命に抗うことを諦めた。







【あとがき】

林間学校編以上の重苦しい展開はないでしょ、なんて余裕ぶっこいていた読者さま一同。ここ数話を読んで「…もっと地獄じゃねえか」と揃って声にもらしたのではないでしょうか。

本話も実にラブもなければコメもない地獄展開ですが、果たしてここから入れる保険はあるのだろうか?


でも皆続き気になるよね? 早く読みたいよね?

読者を自分の作品に夢中にさせることこそ、その原作者としての本懐であり責務です。


いつも長ぇあとがき書いてるのは、それだけ読者さんがひとあまを楽しんでくれているという証拠ですので、あとがき長くなるのは許してください。


Ps:ひとあまヤバい。めっちゃ面白い! と思った方は是非☆レビューといいねを! 応援や感想も気軽に送ってくださいね。

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