第71話  そして瓦解する

「おはよ――うえぇ⁉」


 朝のホームルームが始まるおよそ10分前。教室に入って来た柚葉が挨拶する途中で教室の異変に気付き、そして凝然ぎょうぜんと目を剥いた。


 柚葉は戸惑いの表情を浮かべながらゆっくりと教室の端に向かっていくと、既に登校した俺――ではなく、シャーペンでうつ伏せになっている俺の頬を突いている神楽に訊ねた。


「なに? しゅう、なんで朝から死んでるの?」

「さぁ。僕が登校してきた時には既にこんな状態だったよ」

「…………」


 神楽に説明を促すも大した情報は得られず、眉間にしわを寄せた柚葉は今度こそ俺に訊ねた。


「ねぇ、なんで朝から死んでるの?」

「…………」

「返事がない。ただのしかばねのようだ」

「…………」

「いやほんと何か一言くらいちょうだいよ!」


 話す気力はおろか、まず口を開く気力がない。本当に屍同然と化した俺に、柚葉は苛立ちをみせた。不服を露にするようにその場で地団太を踏む友人を視界の端に捉えて、俺はこの世の全てに絶望したような重いため息を落とす。


 そんな俺の意気消沈とした姿を見て、柚葉は何かを直感的に悟ったように静かになった。


 そして、己の脳裏に浮かんだ思惑を確実なものにするべく、柚葉はまだ俺と彼女の関係を知らない神楽の存在を意識しつつ、断片的な言葉を並べて問いかけてきた。


「もしかして……あの人と何かあった?」

「……」


 一瞬。昨夜の出来事を二人に明かすことを躊躇ためらう自分がいた。しかし、他に頼る人はおろか相談できる相手もいないので、俺は短く嘆息を吐くいたあとに柚葉の質問に短く頷いた。


 そんな小さな肯定を受けて、柚葉は表情を一気に真剣なものへと変える。俺と目線を同じになるまで下げたあと、慎重に言葉を選びながら質問を続けた。


「そんなに落ち込んでるってことは、何か重大なことなんだよね」

「……(こくり)」

「その、これは真に聞きづらいと言いますか、たぶん今のしゅうは絶対に頷きたくないんだろうけど、でも答えてもらわないといけないから聞くね」


 柚葉は泣きそうな顔をしている俺に頬を引きつらせながら、


「もしかして……別れた?」

「……(ぶわぁ!)」

「うわああああごめん! もっとオブラートに包むべきだったね! 今のしゅうにはクリティカルヒットもいい所だったね!」

「まさか柊真が泣くとは⁉」


 決定的な質問への答えは、返事でも相槌でもなく、目頭から溢れ出した滂沱だった。


 無理解を理解しようとする作業の最中で少しずつ蓄積されていったそれが、『別れ』という単語を引き金にして決壊した。


 瞬時に惨状と化した俺の机では、柚葉が慌てふためき、神楽が混乱していた。


「その、大丈夫?」

「この状態見て大丈夫なわけねぇだろ……ぐすっ」

「だ、だよね。愚問だった」

「意味分かんねぇ」

「……柊真」「……しゅう」


 つらつらと目尻から流れて落ちていく涙を拭きもせず、机にうずくまる俺は唐突に襲った理不尽を嘆く。


 俺の何がダメで、俺の何が気に食わなくて、俺のどこが間違っていたのか、それが何も分からぬまま緋奈さんとの関係は終わりを迎えてしまった。


 結局、昨日は眠れないまま一夜を過ごした。朦朧もうろうとした意識の中で登校する間も、そして今に至っても頭はあの言葉の真意を探し続けている。


 どれだけ彼女が俺と別れるという決断に至った原因を探っても、俺の中でそれらしい答えは出てこなかった。


『好きなのに。お互いに、好きだって言ってたはずなのに。それなのに、なんでなんだよ』


 どうしてが、そんな疑問が頭の中でずっと浮かび続けている。


 分からない。


 答えが出てこない。


 知りたい。


 絶え間なく湧く疑問とその答えを求め続ける脳。そんな脳みそは昨晩からの酷使によって限界を迎えていると警鐘を鳴らしてくる。それを無視して、俺は思考を白熱させる。


 ――早く会って、緋奈さんと話さないと。


 会うことに躊躇いはある。それでも、会ってちゃんと話がしたかった。


 せめて、別れようと思った理由を知りたかった。


「……やっぱ、俺じゃダメなのか」


 ぽつりと、零れ落ちるように吐かれた言葉は、今の俺の心情の全てを物語っていて。



 ***



 どうしても別れようと思った理由を知りたくて、知れば納得できる気がして、だから――


「緋奈先輩。話したいことがあります」

「――――」


 放課後。足早に教室を出てから校門で待機していた俺は、一目で分かる黒髪の美女――緋奈さんを見つけると、立ち塞ぐように彼女の前に出た。


 緋奈さんは一度進路を妨害されて立ち止まるも、しかし立ち塞いだ相手の顔には目もくれずに避けて再び歩き始めた。


「――っ。緋奈先輩!」

「――――」

「緋奈先輩!」


 歩く彼女を追う俺の姿は、傍目からはどう映っていているのだろうか。か弱い女性に執拗に迫る男。ストーカー。粘着質な気色悪い男――そんなことどうだっていい。今は他人の目を気にしていられるほど、俺は正常ではないし正常ではいられなかった。


 ただ、先を行く緋奈さんに振り返って欲しくて。ちゃんと話がしたくて。名前を呼び続けた。


 電話だけのお別れなんて、納得なんてできないから。


「緋奈さん!」

「――なに。雅日くん」


 二人きりでいる時の呼び名で彼女を呼べば、緋奈さんはようやく足を止めてくれた。それに安堵するのもつかの間、艶やかかな黒髪をなびかせながら振り返った彼女の瞳は、思わず息を飲まずにはいられないほど冷たかった。


 その、凍てつく瞳に怯みながらも、俺はこの機だけは絶対に逃すまいと声を振り絞った。


「なんで、急に別れようって……」

「――はぁ」

「っ!」


 まだ全て言い切ったわけではない最中で、俺の耳朶に聞こえたのは落胆のため息だった。


「……納得、できません! せめて、理由を教えてください」


 奥歯を強く噛みしめて、縋るような声音で懇願した。きっと、その無様な俺の姿を見ていられなかったのだろう。緋奈さんはもう一度落胆のため息を落とすと、顔をくしゃくしゃに歪める俺を見つめながら短く顎を引いた。


「いいよ。教えてあげる」

「……どうして、急に別れようって言ったんですか?」


 声音を震わせながら、知りたくない答えを促した。


 心の準備などできるはずがない俺に、けれど緋奈さんは容赦してくれなかった。俺が答えを求めたから応じる。そんな業務的な態度を取るように、彼女は熱のこもっていない声音で淡々と理由を告げた。


「飽きたのよ」

「――ぇ」


 一言。あまりに素っ気ない答えに、俺は衝撃に耐えきれず声を失った。


 目を見開き、緋奈さんが告げた理由を必死に飲み込もうとする。けれど、咀嚼しても飲み込み切れず、身体が拒否反応を起こした。突如湧いてくる吐き気を堪える俺に、緋奈さんは顔色一つ変えず、呼吸を乱していく俺を睥睨へいげいしながら続けた。


「キミといても退屈な日常しか送れないって気づいたのよ」

「そ、んなっ……なら、頑張ります! 俺、もっと頑張るから!」

「頑張る?」


 泣いて縋るような声音に、緋奈さんは呆れたような失笑をこぼしてそれを一蹴した、


「そうやって頑張るって言い続けて、キミは私に何をしてくれたの?」

「それはっ……まだ、なにもできてません。でもっ! あと、あと少しなんです! あと少しで皆に認めてもらえるかもしれない。そうなったら、俺はちゃんとアナタに告白して――」

「ふざけないで」

「――ぁ」


 俺の必死の懇願を、緋奈さんの静かな怒りをはらんだ一言で塗りつぶした。


 冷え切った双眸。苛立ちをみせる顔。声音に乗せられた怒りに、俺は開いた口を塞げないまま、ただ立ち尽くした。


「そうやって私じゃなくて他人の目ばかり気にするキミが気に入らないの。私は、私だけを見て欲しいの。それなのに、キミは私の期待に応えてくれなかった」

「それはっ! 緋奈さんと付き合う為に、皆から認められなきゃいけないから!」

「そうだね。キミはずっとそう言ってたね。皆から認められれば、その時私に告白するって」

「そう、です。だから結果を出して、皆から認めてもらえば、もう、誰も何も言わないから。そうすればきっと、俺たちは幸せに――」


 なれると、そう言い切ろうとした声音はしかし、それを否定するような失笑に遮られた。


「幸せ? 他人の目と評価ばかり気にする恋で、それで本当に幸せになれると思う? 誰かの視線に怯えながら一緒に居て、やりたいことも我慢して……そうやって本心を押し殺しながら一緒にいるのって、すごく退屈じゃない?」

「――っ!」


 俺の決意をことごとく否定する緋奈さんは、問いかけに儚げな微笑を浮かべた。


「キミは、間違えたのよ。キミは、私を見ているようで私を見ていなかった。雅日――しゅうくんが見てたのは、他の誰とも変わらない。『お姫様』っていう、私の付加価値だった」

「ちがっ……違う! 俺は本当に緋奈さんのことが好きです!」


 心の底から彼女を幸せにしたいと思った。もう泣かせたくないと思った。


「俺は、緋奈さんに笑ってほしくて頑張ってるんです。もう俺のせいで泣いて欲しくないから。俺がもっと優秀で、誰からも認められていれば、緋奈さんをあの日泣かせることはなかった!」

「私に笑って欲しいから努力するんだ」

「好きな人に笑っていてほしいと思うのは普通でしょ?」

「もう泣いて欲しくないから、自分を他人に認めさせるんだ」

「そうすれば、誰も俺たちの関係に文句は言わない。俺が緋奈さんと釣り合う人間になれれば、緋奈さんだって嬉しいはずでしょ」


 俺は凡人だ。お姫様の王子様にはなれない。小汚いボロ家の住人は、死ぬ気で足掻いて藻掻もがいて、血反吐を吐きながら自分の価値を磨くんだ。


 そうやって磨き続ければ、いつか遠くから眺めていたお姫様の隣に立てると信じてるから――


「傲慢だよ」


 ――けれどそんな理想は、憤怒を抑えきれずに震えた声に砕かれて。


「キミがやってることは、全部独りよがりでしかない。私の気持ちなんて何も考えてない!」

「――っ!」


 怒りは悲しみに変わるように、擦れて震えた声を張り上げる。


 いつも聞いた、心地の良い銀鈴の鳴る声は今、胸裏に渦巻く激情を吐露する悲壮に満ちた声音に変わっていた。


 そうさせたのは、他の誰でもなく俺で。


「私は、『お姫様』じゃないんだよ? どうして、しゅうくんはいつから私をちゃんと見てくれなくなったの?」

「――――」


 涙を滲ませた双眸が俺を糾弾する。何も言い返せずただ喘ぐことしかできない俺に、恋人に絶望した彼女の糾弾が続く。


「私は、ただしゅうくんと一緒にいたかった。二人で笑って、二人で幸せでいられたらそれでよかった」


 俺だってそれを望んだ。それでも、周囲はそれを許してくれないから、俺は自分を認めさせると誓った。


 けれど、その決意はいつからか妄執となって俺を盲目にさせ、目の前で涙を落とす女性のたった一つの願いを無視した。


 それが、この悲劇を生んだのだと、気付いた時はあまりに遅く。


「私は、窮屈でもよかった。しゅうくんと小さな幸せを噛みしめられたら、それでよかった」


 涙が零れ落ちていく、また、俺のせいで彼女を泣かせてしまった。


 お互いに幸せになることを望んでいたのに、けれど、俺は道を間違えたんだと、その涙に気付かされて。


 既に二人の歯車が狂いだして、瓦解し始めていることに――『別れ』を告げられてようやく気付いた。


 あまりに遅すぎる後悔の訪れもはや心は悲鳴すら上げず、彼女の恋人に対する失望に納得してしまって。


「私は、最上なんか望まない。でも、雅日くんは違うんだもんね」


 伸ばした手が、虚空を捕まえる。彼女は、俺の伸ばした手を掴み返してはくれなかった。


 夕日を背景にして涙を流す彼女は、溢れた涙を指で払うと一度短く息を整えた。


 それから彼女は潤む瞳で茫然と立ち尽くす青年の顔を見つめながら、


「きっとキミなら、もっと素敵な人に出会えるよ。――さよなら」

 

 そう言って今度こそ、ずっと曖昧だった関係に終止符を打ったのだった。


 振り向き、遠く彼方へ去っていく彼女の背中を、俺は追いもせずにただ見つめ続けて、


「ごめんなさい」


 裏切った背中がもう二度と振り返ってはくれないことを悟った瞬間、俺は自分の犯した過ちと無力さを思い知った――。





【あとがき】

昨日は2名の読者さまに☆レビューを頂けました。

あとがき少ない方がより絶望感演出できるかなと思って、今回も短いです。

追記:緋奈さんがしゅうくんから雅日くん呼びに戻したのがより『お別れ』があっていいよねということで苗字呼びに戻ってます。周囲の目を気にしているからではなく、柊真に自分との関係は終わったことを示すためにね。

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