第70話  美人先輩と――しゅ――く

『もしもし、お母さん』

「どうしたの? こんな時間に電話してくるなんて」


 私と夫も既に入浴を済ませ、今はワインを片手にドラマを鑑賞している最中、突然藍李ちゃんの家に連泊している娘から電話が掛かってきた。


 疑問符を浮かべながら問いかけた私に、真雪はぎこちなさをはらんだ声で言った。


『ええと、ちょっと聞きたいことがありまして』

「なに? ドラマならちゃんと録画してるわよ」

『わぁありがとう! ……じゃなくて!』


 電話越しに一人乗りツッコミした真雪は、そのあとに声の抑揚よくようを抑えて尋ねてきた。


『しゅう。今どうしてる?』

「しゅう?」


 困惑を声に乗せれば真雪は『うん』と短く肯定した。夫は私を一瞥したあと、無言でテレビの音量を下げてくれた。


「どうして急にそんなことを聞くの?」

『ちょっとね。最近、しゅう勉強ばかりしてるでしょ』

「そうね。休みの日は出掛ける時以外ずっと籠って勉強してるわ。流石にずっとと言うほどでもないけど、前よりは各段に増えてるわね」


 定期的に様子をうかがうべく飲み物を持っていけばやっぱり勉強していて、ベッドに寝転がってゲームをしている息子の姿はもう何処にもなかった。


「弟のことを心配してるなら声くらい掛けてあげなさい。真雪はお姉ちゃんでしょう」

『あはは。たぶん、今のしゅうには何言っても聞く耳を持たないと思うよ』

「それはそうだけど……」


 基本的にやる気を出さないあの子だけど、重たい腰を上げると何かに取り憑かれたように脇目も振らず集中する。本人はちゃんと自制しているつもりらしいが、客観的立場から見ている私たちから言わせてもらえば「できてない」と否定できた。


 そして今は、誰の目から見てもブレーキが壊れていることが明瞭めいりょうだった。


「期末テストでいい成績を出したいんですって。私はそれまで見守ることにしたわ」

『そっか』


 私の意思を娘に表明すると、返って来たのは読み取り難い複雑な感情を宿した声音だった。


 柊真の姉として、真雪には真雪の思惑や感情があるのだろう。柊真の身を案じる気持ちは同じだが、それに対する想いは違う。


『お母さんごめん。私は、やっぱり今のしゅうのやり方には納得できない』

「……アナタ。もしかして」

『――うん』


 直感的に真雪の言葉に違和感を覚えて眉根を寄せれば、私が抱いた懐疑心を静かな声音が肯定した。


 娘の宿泊先の相手を鑑みれば、その推測は用意なものだ。


 それと、やっぱり真雪はあの時部屋で聞いていたのかもしれない。私と柊真の会話を。


 柊真の、自分を犠牲にする覚悟を。


『ごめん。二人の会話、聞くつもりはなかったんだけどさ。聞いちゃったんだ。あと、もう、藍李からも聞いてる』

「そうなのね」


 全てを知った姉に、私は瞳を伏せながら短く応じた。


『だからこそ、私はしゅうじゃなくて藍李の応援をしたい。しゅうも、藍李も、私にとっては同じくらい大切だから、私はどっちにも傷ついてほしくない』

「方法はあるの?」

『うん』


 ただの感情論では今の柊真の心は動かせない。それほどにあの子の決意は固く、壮絶なものに成り果ててしまっている。生半可な気持ちややり方では、到底それを壊すことはできない。


 それでも、真雪はできると強く頷いた。


『私は――私たち・・・は、私たちのやり方であのバカ弟に教えるよ』


 その声音にいつもの明るさはなく、あるのは決意と覚悟に満ちた弟を親愛する姉としての意地で――


『――お前が一番大切にすべきものは何なのか、あのバカに身をもって思い知らせてやる』


――『俺は――緋奈藍李さんと恋人になる為に結果を出す』


 電話越しの声と脳裏に過った声は、とてもよく似ていて。

 やっぱり二人は姉弟なのだと、場違いとは分かっていながらも笑みがこぼれてしまった。


「本当に、アナタたち姉弟はそっくりね。純粋な所も。真っ直ぐな所も。頑固な所も」

『そりゃ姉弟ですから』


 真雪がそう言うと、電話越しから複数の抑えた笑い声が聞こえた……なるほど。そういうことか。


 どうやら既に、さいは投げられる直前らしい。


 ならば、私は真雪たち・・のことも信じて見守ろう。どちらかに肩入れはしない。親としてできることは、姉弟を平等に応援し、見守ることだ。


 それでも、私は真雪なら妄執に囚われ盲目となったしゅうを救えるんじゃないかと期待を抱かずにはいられなくて。


「あとは頼んだわよ。お姉ちゃん」

『ふっふーん。お姉ちゃんにまっかせなさいっ!』


 なんとも頼もしい返事に、私と夫は思わず笑ってしまうのだった。



 ***



「――ふぅ」


 走らせたペンを投げるように置くと、俺は重たい吐息をこぼした。

 夕食後からざっと三時間ほど自習に勤しんだ俺は、今日はここまでとノートを閉じる。


「だいぶ。いい調子だ」


 初めは頭を抱えていた問題もすらすら解けていくようになると自分の成長を実感している気分になれた。やはり人は達成感を得ると自然と自信がつくようになるのだと、自らの経験をかてにそれを実感する。


 期末テストは六月上旬。それまではまあ一か月以上先があるとはいえ、10位圏内、或いはそれ以上を目指すなら先を見越してやっておくことに損はない。備えあれば憂いなし、の精神で予習と復習をひたすら繰り返し続けていく。


「風呂出て軽くゲームやったら、寝る前に少しだけ英単語復習しよ」


 もう自習はやらないと言っておきながら、無意識の内にそんなことを口にしていた。


 何時間も勉強することはやはり疲れるし、今だって相当頭が重い。それでもやらねばいけない。皆に自分を認めさせて、胸を張って緋奈さんと恋人になれるように。


 それを原動力にして、俺は少しずつ無理が生じ始めている体の悲鳴を無視して動き続ける――煽ってくる不安に、抗えなくなっていると気付かぬまま。


「あと一ヵ月ちょっと。それさえ切り抜ければ、少し休める」


 七月末には夏休みという長期休暇もある。そこで思う存分休めばいい。その頃には緋奈さんと順調に交際を進めていることを想像をすれば、俄然やる気が湧いてきた。


「うし。とっとと風呂入って勉強し、よ……緋奈さん?」


 ぐっと背筋を伸ばして椅子から立ち上がろうとした時、机に置いてあるスマホがブルブルと震えだした。点灯した画面を覗き込むと緋奈さんから着信が届いていて、俺は慌ててスマホを耳に当てた。


「もしもし、緋奈さん?」

『あ、もしもし。しゅうくん』


 いつもならメッセージを飛ばしてくるのに今日は電話なんて珍しいな思いながら応答すると、緋奈さんはほっと安堵したような息を吐いた。


『急だったけど。電話しても平気だったかな?』

「はい。ちょうど自習を終えたとこでしたので」


 タイミングバッチリです、と通話のみでこっちの仕草なんて見えないにも関わらず親指を立てる俺。そして緋奈さんは、俺の言葉を聞いて唐突に声の抑揚を落とした。


『そうなんだ。勉強してたんだね』

「え、えぇ。予習しておきたい箇所があったので、少しだけ」

『何時間くらい勉強してたの?』


 何やら問い詰められているようだと怪訝に感じつつも、俺は緋奈さんの問いかけに答えた。


『ええと、ざっと四時間くらいかな?』


 帰宅後の一時間と夕食後の三時間を合算して伝えると、電話越しの声の抑揚がさらに下がった。


『そっか。最近はずっとそんな感じなの?』

「はい。期末までまだ時間的余裕はありますけど、でも油断してたらいい点数なんか取れないですし、それに医学部目指すならこれくらいやって普通だと思います」

『頑張り過ぎだって私は思うよ』


 そうか? と眉根を寄せる。


「でも、緋奈さんだって毎日これくらいやってますよね?」

『ううん。私は、しゅうくんのようにそんなにはできないかな』

「あはは。やっぱり天才は違うなぁ」


 俺は覚えが悪く要用が悪いから、緋奈さんのようにはいかない。


 天才が凡人との差を埋めるには、ひたすらに努力と研鑽を積まなければならないのだ。


 積んで、積んで、積んで、そうしなければ、彼女には届かない。対等にはなれないのだと、思い知らされる。


「俺、もっと頑張ります。緋奈さんに認めてもらえるように」

『私はもうとっくにしゅうくんのこと認めてるよ』


 知ってる。前にもそう言ってくれたから。でも、それだけじゃ、足りない。


「緋奈さんだけじゃない。他の人たちにも俺を認めてもらわないと。そうじゃないと、俺は緋奈さんを幸せにできないから」

『……しゅうくん』


 頑張るだけじゃダメだ。結果を出して、証明しなくちゃ。自分は緋奈藍李の恋人になるに相応しい人物なのだと、そう、名前も知らぬ赤の他人に知らしめるために。


 既にそんな妄執に取り憑かれ盲目と化した俺は気付かなかった――緋奈さんがこぼした、憂慮に満ちた吐息を。


『しゅうくん』

「はい?」


 先とは違った声音に名前を呼ばれて返事をすれば、耳に当てたスマホの向こう側で深く息を吐く音がした。


 それに、眉尻を下げたのとほぼ同時――


『私たち。別れましょう』

「――は?」

『じゃあね。――雅日くん』


 それだけを言い残してプツリと切れた通話に、俺は何が起こったのかも理解できぬまま、声すらも失って唖然とした。


 待って、とそんな咄嗟に彼女を引き留める言葉も出せなかったくらいには、それはあまりに急で。


「――っ!」


 数秒経って衝撃に穿たれた身体の硬直が解かれると、俺は必死の形相で緋奈さんに電話を掛け直した。


「なんで、なんで出てくれないんだよ⁉」


 プルプルと、スマホはコール音だけを鳴らし続ける。


 何度も、何度も繋がらない電話を掛け直した。


 まだ上手く状況が呑み込めていない頭が彼女のあの言葉の意味を求めてひたすらに画面を爪で弾く。


 何度も、何度も――何度掛け直してもこの電話は彼女へと繋がらないと悟った時、胸裏に零れ落ちた感情は、失意と虚無で。


「……嘘だろ?」


 震える声が、彼女が俺に言い放った現実を受け止めきれずに苦鳴をこぼす。

 

 数秒。数分。数十分。ただ茫然とし続ける俺は、暗くなったスマホを見つめ続けて。


 ――そして、俺と緋奈藍李先輩の仮の恋人生活は何の脈絡もなく、唐突に『終幕』を迎えた。




【あとがき】

サブタイの答え合わせが本話のラストに書かれてます。

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