第68・5話 父親と母親
『俺は――緋奈藍李さんと恋人になる為に結果を出す』
息子の壮絶な覚悟を聞き届けて、母親の私が返したのは応援でも
「はぁ」
「そのため息は柊真のことかな?」
リビングに戻った私を迎えたのは、苦笑を浮かべる夫だった。
えぇ、と短く
「しゅうを応援したいけど、でもそれが正しいのか分からないの」
「男は惚れた女性の為には如何なる努力もするものだよ。その人を幸せにしたいと望むなら尚の事ね」
「ならあの子の真っ直ぐさは貴方の
「あはは。昔はそうでもなかったはずなんだけど。やはり恋は人を変えるらしいね」
「笑いごとじゃないわよまったく」
朗らかな声音は、既に息子の覚悟を理解して応援することを決めているようだった。
私がどこか呑気に感じる夫の態度に
「今のしゅうは、本当にあの頃の僕とよく似ている。僕もキミに一目惚れして、そしてキミを手に入れる為に何でもやった」
あの頃の夫は大学生アルバイトでカメラマンのアシスタントをしていた。当時読者モデルだった私に、夫は顔を真っ赤にさせて、手を震えさせながら連絡先を交換して欲しいと懇願してきたのだ。
それが私と夫の出会いであり、そして今の関係を築き上げた始まりでもある。
「好きにさせてあげなさい」
「……でも」
「いいんだよ
「それはそうだけど」
男の女の感性は違う。私は息子の身を案じているけど、夫は息子の覚悟を信じている。
或いは、男だけにしか分からない意地というものに共感しているのだろうか。
いずれにせよ、私と夫が息子に抱く感情は異なるもので。
まだ胸裏に渦巻く不安に
「大丈夫。男はちょっとやそっとのことで折れやしない。あの子は
「……貴方」
「自分の息子なんだ。信じてあげなさい」
揺るぎない
そうして寄り添ったことで伝わってくる夫の優しさと温もりが、少しずつ胸に渦巻く不安を取り除いていって――
「――お母さーん! 私今日友達の家に泊りに行って……おやおや邪魔でしたかな」
夫に慰められていると勢いよく階段を駆け下りてくる音が聞こえて、その足音はそのままリビングへ向かってきた。そうして勢いよくリビングに現れた娘――真雪は、用件を伝える途中で
「どうした真雪。そんなに大荷物で?」
そんな娘の
自分の期待した反応が返ってこなかった真雪はわずかにつまらなそうに口を尖らせたあと、仕切り直すように私たちに答えた。
「なんか藍李がね、私に大事な話と相談があるんだって」
「藍李ちゃんが?」
娘の口から出た名前に一瞬頬を硬くしつつ、眉尻を下げた私に真雪が「うん」と顎を引いた。
「それで、しばらく自分の家に泊り込んで欲しいってお願いされて」
「緋奈さんのご両親はなんて?」
「それは問題ないと思うよ。藍李、お父さんと一緒に暮らしてるんだけど、そのお父さんも忙しくて中々家に帰ってこれないみたいだから。というより、藍李のお父さん、今は会社近くのマンションに泊まり込みしてるはず」
詳しくは知らないけど、と真雪は盛大に笑って、
「とにかく細かいことは気にしなくて平気だって言ってた!」
「そうか。なら、お父さんの方は異論ないよ。ただ日曜日の夕方には一度帰って来なさい」
「うん。そのつもりだよ。制服とか鞄とかも運ばなきゃいけないし。あはは。ちょーめんどう」
口では不満を吐露しながらも、その表情はこれから始まる連日お泊り会を楽しんでいるように見えた。
私はそれに苦笑を浮かべながら、
「藍李ちゃんに迷惑掛けないようにね」
「それは保証しかねる! なんたって藍李の手料理食べ放題だからね!」
「はぁ。そういうことなら真雪。これを持っていきなさい」
「え⁉ 一万円もくれるの⁉」
夫は一度立ち上がると、不思議そうに小首を傾げる真雪の下に歩み寄った。それからポケットから財布を取り出すと、そこから紙幣を一枚真雪に渡した。唐突に渡された『一万円』を前に、真雪はそれを「ボーナス⁉」と驚愕したあとに割れんばかりに目を輝かせた。
その場ではしゃぐ娘に夫は「違うよ」と柔和な声で否定したあと、
「これを緋奈さんに渡しなさい。ご飯を作ってもらうんだからその食費としてこれを渡すんだ」
「なんだそういうことかぁ」
「あとそれでお菓子や飲み物を買いな。女子会を盛り上げるには嗜好品が必須だろう?」
「ひゃっほー! お父さんJKのことよく分かってるぅ!」
「ふふ。そうだろう」
夫は娘に小腹を突かれて嬉しそうに微笑を浮かべる。
年頃の娘と仲良くできる夫の手腕には素直に感服だ。私を落とした男だけあって、どういう物や行為が女性に喜ばれるのかよく熟知している。そういえば夫は昔からよく気が利く人だったなと、父娘の睦まじい光景を見つめながら懐かしき過去に双眸を細めた。
そうして一人で青春の記憶を
「それじゃあ行ってくるね、お母さん!」
「えぇ。気を付けていってらっしゃい」
いつまでも曇らぬ太陽のような娘の笑顔に元気をもらいながら、私はひらひらと手を振り返した。
そうして真雪が足早にリビングから去ると、再び夫と二人きりの時間が訪れた。
「真雪はいつも元気だねぇ」
「そうね。あの子の
大抵のことは気にしない豪快な性格。それがあの子だ。長女らしく気丈に育ってよかった半面、まだまだそそっかしくて目を離すことができないのが複雑な親心。
「それにしても、緋奈さんの家に泊まり込む事になったとはね」
「そうね。妙にタイミングが良すぎて余計な詮索をしてしまうわ」
息子とあんな話をした後で、今度は娘が彼女の家に急遽宿泊することになった。
そこに何の関連性もないはずなのに、脳が勝手に二つの事象を結び付けようとする。
夫がせっかく取り除いてくれた不安が、まだ胸裏に
「なんにせよ、親としてはただ、柊真と真雪を見守るだけだよ」
「えぇ。貴方の言う通りね」
娘のご機嫌を窺うのも得意な夫が、妻である私の変化に気付かないはずがない。
胸裏に漠然と広がり始める不安の影。それは広がり切る前に夫の温もりある手によって再び振り払われた。
その次に胸を満たすのは言葉には表し難いほどの安寧――それを感じるのと同時、少しだけ、どうして息子があそこまで
『……あぁ、あの子もこんな風に彼女の不安を取り除いてあげたいのかな』
きっと、そうなのだろう。
しゅうは早く、想い人に安心して欲しいのだろう。
お前には自分がいると、そう、彼女に教えてあげたいのだろう。
それを理解してしまえばもう、気付いてしまったら、もう息子の母親ができることなんて一つしかなくて。
「ねぇ。
「どうした? 梨乃?」
こてん、と私はわざとらしく夫の肩に頭を乗せた。それから縋るような声音で彼の名前を呼ぶと、優しい眦が私を見つめ返してくる。
「今、少しだけ、しゅうが努力する理由が分かった気がするの」
「そうか。なら、あの子の親としてちゃんと見届けて応援してあげよう」
「えぇ。きっと、それが一番正しいのかもしれないわね」
「大丈夫だよ。僕とキミの子だ。心配せずとも、自分で答えを見つけて前に進んでいくさ。それに、時には躓くことだって人生には必要だろう?」
「ふふっ。たしかにそうね」
「梨乃はもう十分に柊真を育てたさ。あとは、大人になろうとする息子の背中を見届けてあげればいい」
「うん。貴方が言うなら、そうすることにする」
「頑張ったね、梨乃」
「ずるいわ。今私を慰めるのは。甘えたくなっちゃう」
「存分に甘えればいいよ。僕は今も昔も変わらず、キミが僕に素直でいてくれることに喜びと誇りを感じることができるからね」
「むぅ。ならお言葉に甘えちゃうかしら」
ほんと、久遠くんには敵わないわね。なんて心の中で彼に脱帽する。
そういえば、こんな風に彼に甘えるのはいつぶりだっけ、と自分らしくもない
「……今日は久しぶりに、久遠くんに愛して欲しいな」
「あはは。それじゃあ、今日は柊真にお留守番させることになるな」
求めるように揺れる瞳を、夫は
「僕も久々に、梨乃に触れたい。思いっ切り愛していい?」
「嬉しいわ。まだ私を求めてくれるなんて」
「僕はずっと梨乃を愛してるよ」
あぁ、やっぱり柊真は久遠くんの子だ。その言葉と真っ直ぐに見つめ返してくる瞳に、改めてそれを思い知らされる。
ならもう、息子を心配するのはやめよう。
私がするのは心配ではなく、信じることだ。彼が言ったように。
頭は依然息子のことを慮っている。けれど、それも次第に最愛の夫への愛に塗り替えられていって。
「私も、貴方をずっと愛しているわ」
「あぁ。知ってるよ」
きっと彼女も、こんな優しい笑みに落ちたのだと思うと、同じ笑みに落ちた女としては同情せずにはいられなかった。
【あとがき】
昨日は5名の読者さまに☆レビューを付けていただけました。
そして本話にて柊真と真雪の両親の名前が判明しましたね。
お母さんの名前は『
お父さんの名前は『
二人ともいい名前でしょ。ひとあまは既に名前からそのキャラの性格がにじみ出るように工夫してます。緋奈藍李と雅日梨乃は凛々しくも可愛らしい印象を出せるように頭めっちゃ捻りました。
他にもこの作品の設定に関して知りたいことがあればネタバレにならない範囲で答えていく所存ですので、気軽にコメントくださいね。
ps:改稿に一時間近く掛かるのなんで?
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