第65話  『愛』という楔

 玄関で緋奈さんにひとしきり甘えたあと、俺と彼女はリビングに場所を移した。


 何か飲む物を入れてくるとキッチンに向かおうとした緋奈さんを引き留めて、俺は少し強引に彼女をカーペットに座らせた。


 緋奈さんはわずかに困惑したまま、けれどすぐに俺の意思を理解すると一度まぶたを閉じて、それからゆっくりと開かれた紺碧の瞳には戸惑いが消えていた。


 緋奈さんの理解力の高さに救われながら、俺は林間学校で柚葉に秘密を打ち明けたことを彼女に告白した。


 それだけじゃない。


 一日目に柚葉と喧嘩けんかしてしまったこと。二日目の夜の肝試し中に俺との喧嘩が原因で柚葉がはぐれてしまったこと。彼女を見つけたあと、この関係を告白しなければいけないと思ったこと。そして三日目の夜に告白され、それを断ったこと。


 何もかも――唯一、キャンプファイヤーで刹那の時間だけ恋人同士になったことは秘匿して――それ以外の全てを、緋奈さんに告げた。


 訥々とつとつと林間学校で起きた出来事を語る俺に、緋奈さんはただ黙って静かに聞いてくれた。けれど時折、紺碧の瞳に複雑な感情を覗かせていて。


「――ごめんなさい。ルール破って」


 深々と、それこそカーペットに額が擦りつけるまで頭を下げた。土下座した。


 元々は俺が決めたルールなのに、それを自分が先に反故してしまった。なんとも不甲斐な上に不誠実な男だなと、この身を絶え間なく襲う忸怩じくじに奥歯を噛みしめた。


 どんな罰でも受け入れる覚悟で頭を下げる俺に、緋奈さんは努めて穏やかな声音で「顔を上げて」と促した。


「私、何も怒ってないよ」

「……でも、俺が誰にも口外しないってルールを決めたのに」


 促されるままに強張こわばった顔を上げた俺に、緋奈さんは「それも違う」と首を振った。


「決めたのはしゅうくんじゃなくて、私たちでしょ。それに、私はしゅうくんの判断は間違ってなかったと思う」


 許す、許さないの話しではないのだと、緋奈さんはそう言って、慚愧ざんぎに苦悩するように瞳を伏せた。


「むしろ謝るのは、私の方かも」

「どうして? 緋奈さんは何も悪くないでしょ?」


 緋奈さんは柚葉との一件には何も関係がない。そもそも緋奈さんは柚葉と関わりがない。そのはずなのに、けれど彼女は俺の言葉を強く否定した。


「ううん。悪いよ。しゅうくんにも。その子にも、私はまた身勝手な行いで、知らない間に周囲を傷つけた」

「ちがっ……」


 違うと、そう反論しようとする声はしかし、紺碧の双眸に宿す悔悟にさえぎられる。


「もし、私がしゅうくんに告白なんてしなければ、今頃その子はしゅうくんと結ばれたかもしれない」

「それは、結果論でしょ」

「そうだね。どんな理由があるにせよ、先にしゅうくんに告白したのは私。でも、しゅうくんに向ける感情は違う」

「どういう意味ですか?」


 怪訝に眉根を寄せる俺に、緋奈さんは自嘲する者がみせる歪な笑みを浮かべながら言った。


「きっと、その子はずっとしゅうくんのことが本気で好きだった。でも、私は違う。私がしゅうくんに告白した時は、興味本位の告白だったから」

「――っ!」


 それはきっと、覚悟の差なのだと、それまで無理解だったものが彼女の言葉を聞いて理解へと変わった。


「あ、もちろん今は本気だよ。本気でしゅうくんのことが好き。この想いはきっと、その子にも負けてない」


 それでも、俺の恋慕を抱いてくれた年数でいえば、柚葉の方がずっと長く一途で。


 それを思い知らされる度に、俺の中で終わったはずの一つの『恋』に胸が締め付けられる。


 それは俺だけじゃない。きっと、緋奈さんも同じなのだろう。


 俺は、自分を想い続けてくれた少女に。緋奈さんは恋敵だった少女に、それぞれ想いを馳せ、そしてもう戻れない過去に奥歯を噛みしめた。ギリッ、と歯音が聞こえるほど強く。


「興味本位で告白した私がしゅうくんと仮でも付き合えたのは、しゅうくんが私に好意を寄せてくれていたから。でも、もし告白する順番が変わっていたら、結果は違っていたかもしれない。その時はきっと、こんな歪な関係じゃなくて正々堂々とした『恋人』になれたはず」

「ごめんなさい。俺が、貴方に釣り合わない男のせいで、こんな関係を強いてしまって」

「謝らないで。元を辿れば全部私がいけないの。皆の理想ばかり叶える『お姫様』を演じたせいで、しゅうくんに負担を掛けさせてしまったせい」


 緋奈藍李は皆の『理想』だ。


 まるで絵本から出てきたような存在。『お姫様』のような顔立ち。『お姫様』のような立ち振る舞い。『お姫様』のような存在感――全て、他人が描いた『理想』を忠実に再現した女性。――違う、緋奈藍李は、他人の描いた『理想』を忠実に再現できてしまった『普通の女の子』なんだ。


 彼女に向けられる羨望が、期待が、偶像崇拝が、緋奈藍李という『お姫様』を創り出してしまった。


 故に、他人の期待に応えなければいけない『お姫様』は自分から恋を始めることができない。


『お姫様』の相手は、白馬に乗った王子様でないと――そう、皆が勝手に決めつけて、そしてそうでないと許されない状況が作り上げられてしまったのだ。


 彼女の意思に関係なく。他人が、彼女を持ち上げ続けたせいで。


 そして、俺はそんな皆の『理想』に手を差し伸べられた。


 自分が分不相応だと理解していたくせに、白馬に乗った王子様ではないと自覚していたくせに。それなのに、彼女が俺に好意を向けてくれたことが嬉しくて、離れたくなくて、簡単には抱いていた恋慕を諦めら切れなくて――彼女が差し伸べたその手を握ってしまった。 


『お姫様』の手を握ってしまったあの日から、俺の運命の歯車は狂い出したんだ。


「――その子と一緒にいれば、しゅうくんはこれまでのような辛い思いはしなかったかもしれない。私がしゅうくんを振り回したせいで、大勢の人に迷惑をかけた」


 泣きそうなほどに震える声音が、もうどうにもならない過去を懺悔する声音がひたすらに鼓膜を貫く。


「その子だけじゃない。きっと、しゅうくんのことを好きになる人がこれからたくさん現れるかもしれない。ううん。きっと現れる。でも、その子たちは私が抱いた『希望』のせいでしゅうくんと結ばれない」


 緋奈さんが俺に抱いてくれた『希望』は、その外皮を剥げば本性は『呪い』にも似た歪なものだった。


 希望の対は絶望。祝福の裏は呪い。そうやって廻る因果に、俺たちはことごとく苦しめられている。


 けれどその因果は、くさびは、壊そうと思えば容易に壊せるもので。


 けれどそれは、俺と彼女の関係が終わることを意味していて。


「ねぇ、しゅうくん。本当に私でいいの?」

「――――」


 それを示唆する問いかけが、葛藤する胸裏に波紋のように広がった。


「私なんかと一緒にいれば、少なからずしゅうくんが苦しむ未来が確実に訪れる。その被害はキミだけじゃなくて、もしかしたらキミの大切な人も巻き込んでしまうかもしれない。貴方が大切に想う姉だって、私たちのせいで辛い目に遭うかもしれない」

「――――」

「でも、私以外の子を選べば、そんな未来はやってこない」


 いつからか。


 約束は鎖に変わって。希望は呪いに変貌わって。夢見る未来が地獄絵図に成り果てようとしているのは。


 お互いを好きになればなるほど、惹かれ合うほど、絆を育むほど、悲惨な未来が確定していって。


「今ならまだ、何もかも間に合うよ」

「――――」


 そんな未来が訪れるくらいなら、いっそ俺たちの関係なんてここで白紙にしてしまった方が楽なのかもしれない――


「しゅうくん。私と別れ――」

「嫌だっ!」

「――っ‼」


 ――そんな未来が訪れるくらいなら、いっそ俺たちの関係なんてここで白紙にしてしまった方が楽なのかもしれない――それでも、俺は足掻き続けたい。


 その想いを伝えるように、離れたくないと意思を示すように、彼女を強く抱きしめた。


「俺は、緋奈さんと別れたくなんかありません」

「……でも、私と別れれば、しゅうくんは幸せになれるんだよ?」

「じゃあ緋奈さんはどうなるんですか?」

「――っ!」

「俺が違う人と結ばれて、それで幸せになって、それで緋奈さんは幸せになれるんですか?」

「それは……」


 俺の問いかけに緋奈さんは息を飲む。何度か答えようとするも喉に言葉がつっかえて出てこない様子だった。


 その葛藤こそ、ただ一つの答えじゃないか。


「俺はそんなの死んでも御免ですよ。好きな人が幸せになれない未来なんて」

「私は、どうでもよくて……」

「どうでもよくなんてないっ!」

「――っ⁉」


 自分を否定しようとする、自分を傷つけようとするそんな彼女を許さないと訴えるように、俺は声を張り上げた。震える声音を、無理矢理決意で固めて。


「俺は、緋奈さんが大切なんです。この世界の何よりも。なのに、俺が大切にしたい人が自分をそうやって無碍むげにしようとするのはやめてください」

「……ごめんなさい」


 緋奈さんに泣いて欲しくない。ずっと笑っていてほしい。この人には、幸せになってほしい。


 そこに、俺がいなくてもいいから。


 彼女の歪さを否定したくせに、自分の歪さは肯定しようとするのは卑怯だと思う。それでも、この歪さだけは貫き通さないといけなかった。


「興味本位で始まったからなんですか。それの何がいけないんですか」


 たしかに柚葉が俺に抱いてくれた恋心の強さは、緋奈さんが俺に抱く恋慕に勝るかもしれない。


 今緋奈さんと別れて柚葉に泣きつきながらカノジョになってくださいと懇願すれば、カノジョはそんな俺に呆れながら許してくれるのかもしれない。そうやって手を握り合えば、俺はきっと彼女と平々凡々としながらも充実した幸せな日々を送れるかもしれない。


 それでも、それでも、だ。


 俺は、この人のことがずっと好きだった。


 初めてアナタを見た時からずっと、好きだった。


 その想いを、否定したくない。


 彼女自身にも、否定させない。


「始まりは少し歪だったかもしれない。でも、今はもう違うでしょ。俺は緋奈さんに対する恋慕は本気です。緋奈さんは、俺のことどう思ってるんですか」

「そんなのっ、好きに決まってる!」


 緋奈さんは一切躊躇う素振りをみせずにそう答えてくれた。それが、たまらなく嬉しくて。


「しゅうくんが好き! 大好き! 私だって! 本当は別れたくない! 私がしゅうくんのこと幸せにしたい!」


 子どものように泣きじゃくりながら、緋奈さんは胸に押し殺していた本音をさらけ出していく。その胸襟きょうきんに歯止めはなく、溢れていくばかりだった。


「もっといっぱいしゅうくんとデートしたい! 唇のキスだってまだなのにっ、まだ、しゅうくんとしたいことがたくさんあるのにっ、その全部を遂げられないまま別れたくなんてない!」

「なら、それが答えじゃないですか」


 例え、約束が鎖に変わっても。


 例え、希望が呪いに変わっても。


 夢見る未来が地獄絵図だったとしても。


 絆が、楔に変わってしまったとしても。


 俺は、


「俺は、緋奈さんのことが好きです」

「私も! しゅうくんのことが大好き!」


 その不幸よりも、彼女と共にいられる幸せを噛みしめたいから。


 その幸せを噛みしめられるように足掻くと、大切な友達と約束したから。


 俺はこの人を諦めない。


「――つけて」

「え?」


 喘ぐ緋奈さんの口から不意に何かが呟かれたが上手く聞き取れず、眉根を寄せると緋奈さんはもう一度、今度はちゃんと俺に聞こえるように、耳元で囁いた。


「キスマーク、つけて」

「――――」


 抱き合う体が離れて、顔をくしゃくしゃにする緋奈さんが視界に映る。


 ぷつ、ぷつ、とワイシャツのボタンを三つ外して、紫色の下着まで見えてしまうほど襟を広げた緋奈さんは、俺に強請るような視線を注いだ。


「……まだ、前につけた痕が残ってますよ」

「知ってる。でもちょっと薄くなっちゃったから、またつけて」

「いいんですか」

「我慢できないの」


 四日ほど前につけたキスマーク。時間が経って薄くなったそれを指先で触れながら意味もなく緋奈さんに問いかければ、返って来たのは熱の籠った吐息だった。


「しゅうくんにもう一度つけてほしい。今度は、この前より強く。首筋ここに刻んで」

「今、自分のこと抑えきれる自信ないんで、どうなっても知りませんからね」

「私も自分抑えきれないから、しゅうくんのこと襲っちゃうかも」


 お互いに感情を剥きだしにしたせいで、理性の蓋が緩くなってしまっている。そんな状態でこんなことをしてしまえば、間違いを犯しても何ら不思議ではなかった。


 頭は何度も止めた方がいいと警告してくれているのに、けれど理性が言うことを効かない。


 心が、魂が、求めている。


 緋奈藍李を。

 雅日柊真を。


 ただ一人の、かけがえのない最愛の人を身体こころが求めていた。


「俺、今すげぇ緋奈さんのこと求めてます」

「うん。私も、すごくしゅうくんのこと求めてる」


 どうしたってこの想いにブレーキなんて効かないから。


 だから――、


「――んっ」

「――ふ、んぅっ!」


 刻み込むんだ。彼女に対する恋慕。その想いの強さを。誰にも、俺たちの本気を否定させない為に。


「はぁ、はぁ、んくっ! ……しゅう、くん。もっと、もっと、強くして……っ」

「んっ! んちゅぅ、はあむっ!」


 赤い痣ができるほど、強く強く唇を首に押し付ける。甘い香りと鼓膜に届く艶やかな矯正が欲望をさらに刺激して、理性なんて軽く吹っ飛ばした。


 唇と唇が触れ合うものでも、性行為セックスでもない。それなのに――否、それ故に、体の奥が疼いて仕方がなかった。


 早くこの人を俺のものにしたいと、そんな抑えきれない欲望と衝動が唇に、舌に、行動で証明されていく。


「はぁ、はぁ、緋奈さん……」

「うん。次は、私の番だね」


 一分にも及ぶ彼女の首に赤いキスマークを刻み込んだあと、荒い息を繰り返しながら今度は緋奈さんが俺の首にかぶりついてきた。


「絶対、離さない……しゅうくんは、わたしだけのもの」

「うっ! ……はい。俺は、緋奈さんのものです」


 互いを想って合っていられるよう、互いが離れぬよう、そんな強い印を残す。


 例え、それが『愛』というくさびであっても。


 その楔が、今の俺と彼女には必要不可欠なものだから。


『――絶対、緋奈さんは俺のものにする。誰にも渡さない』


 彼女の舌の滑らかさと熱に浸りながら、俺は胸裏にそう強く誓った――。





【あとがき】

激動の林間学校編。本話にて完結です。

最後はお互いに絆を確かめ合ってさらに深めたしゅうと緋奈さんで幕が閉じられました。

続く二章三幕目は、今回二人が確かめ合った『絆』がしゅうを追い詰めます。

そして、その先に待つ答えは――。

それでは次回からの第二章・三幕――【告白大作戦! 編】をお楽しみください。


2章バカほど重いけど、ここでリタイアすると超後悔します。あと数20話ほど。頑張ってついてきてくれっ。


Ps:三幕のサブタイとあらすじのギャップが凄いとか言うなよ?


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