第64話  ただいま

「あら? しゅう。出掛けるの?」

「うん。遅くなるかもしれないから、俺の分の夕飯は用意しなくていいよ」

「林間学校から帰って来てすぐ出掛けるなんてねぇ」

「言うの忘れててごめん。でも、ちょっと大事な話し合いがあるんだ」

「……はぁ。今度からはもっと早く言うのよ」

「ん」

「藍李ちゃんに迷惑かけないようにね」

「分かった……じゃなくて! 緋奈さ……緋奈先輩の所に行くって決まってるじゃないだろ⁉」

「その反応が答えのようなものよ」


 呆れる母に顔を真っ赤にしながら、飛び出すように家を出た。


 既に林間学校から帰還し、一度帰宅した俺は荷物を部屋に置いてから軽くシャワーを浴びた。それからパーカーに着替え部屋で三時間ほどくつろいだあと、今はそろそろ在校生の授業も終わるというタイミングで緋奈さんが住むマンションへと向かっている最中だった。


 こうして迷わず進めるくらいには彼女の家に通っているのだと思うと、妙にむず痒い気持ちと感慨深さが湧いて。


 歩き慣れた道。行き交う街の人々。耳に填めたイヤホンから音楽を聴き流しながら、何を考えるわけでもなく通り過ぎる景色に双眸そうぼうを細める。


 そうして歩いていると、


「だーれだ」

「――っ⁉」


 イヤホンをしているせいで声が聞こえず、突然暗闇に視界を遮られた俺は何事かと驚愕した。


 生温かな感触。何度も嗅いだことのある香水の匂いを鼻孔が拾えば、この視界をさえぎる手の主はすぐに判って。


「……緋奈さん?」


 そう答えたのと同時、ゆっくりと細く、冷たい手が退けられた。


 それから恐る恐る振り返れば――そこに居たのは、およそ四日ぶりに再会した愛しの人で。


「正解。――おかえり、しゅうくん」

「ただいま、緋奈さん」


 慌てて耳からイヤホンを外せば、銀鈴の鈴の鳴るような声音が嬉しそうに弾んで。それに、俺は微笑をこぼしながら応じたのだった。



 ***



 マンションに向かう途中で緋奈さんと合流を果たした俺は、そのまま彼女と共にマンションへと足を運んだ。


「……いいよね?」

「……はい」


 道中、窺うように伸びてきた指をしっかりと握り返せば、「ちょっと見ない間に積極的になったね」と驚いたような、照れたような反応が返って来た。


 男子三日会わざれば刮目して見よ、という慣用句があるように、緋奈さんと会えなかった三日間は俺を少しだけ変えた。その象徴が、手繋ぎこれだった。


「そんなに私に会いたかった?」

「はい」

「あ、あはは。今日は随分と素直だね」


 揶揄うような問いかけに素直に肯定すれば、緋奈さんはまた驚いたように目を見開いた。そこからすぐ、俺に何かしらの心境の変化があったことを感じ取ったのだろう。


 緋奈さんが思わしげに双眸を細めた後は、ただ静かに彼女の住む部屋まで向かった。


 エントランスを抜け、エレベーターから降り、突き当りの角部屋に着くと緋奈さんは少し焦るようにオートロックを解除した。


「入って」と俺を招き入れた直後、


「――やっぱり今日のしゅうくん。変だね」

「ちょっとだけ、おかしいのは認めます。でも、こうしたかったって気持ちはずっとありました」

「ふふ。そうなんだ?」


 玄関に入ってすぐ緋奈さんを抱きしめれば、困惑するような声音が鼓膜を震わせた。


 狼狽えながらもしかし俺のことを優しく抱きしめ返してくれた緋奈さんは、俺の言葉を聞くと嬉しそうに唇の弧を引いて。


「どうですか? 三日ぶりにカノジョと再会して、抱きしめた感想は?」

「ずっとこうしてたいです」

「あはは。そんなに私の抱きしめ心地はいい?」

「最高以外の何もないです」


 サラサラな黒髪も、細くて柔らかい体も、彼女の体温も、彼女に触れる全てが愛しくて、胸にぽっかりと空いた空洞が親愛と温もりで満たされていく。


「急にすごい甘えん坊さんだね?」

「ウザいですか?」

「まさか。一昨日電話した時に言ったでしょ。帰ったらたっぷり甘やかしてあげるって」

「言いましたね」

「だから有言実行してあげる。好きなだけ、私に甘えて」

「ああもう、ほんと、緋奈さんのこと大好きだなぁ」

「あはは。しゅうくんにそう思ってもらえて私も嬉しい限りです」


 言葉にはならないほどの喜びが胸に込み上がって、また強く彼女を抱きしめた。


 少し苦しいかもしれない。そう思われても仕方ないくらい、強く抱きしめた。


 それでも、緋奈さんは柔和な笑みを浮かべたまま俺のワガママを受け入れてくれた。


「林間学校で、何かあったんだよね?」

「――はい」


 小さく頷くと、緋奈さんは「そっか」と吐息をこぼして、それから俺の頭を撫で始めた。


「もう少し落ち着いたらでいいから、ちゃんと聞かせて」

「はい。ちゃんと言います」


 ちゃんと、緋奈さんに謝らないと。

 でも、その前に、


「やっぱり俺、緋奈さんのことが大好きです」

「ふふ。知ってるよ」


 この人がくれる温もりに、もう少しだけすがっていたいと思った。





【あとがき】

昨日は6名に読者さまに☆レビューをつけていただきました。

そして、長かった林間学校もついに本話ついに終わり、しゅうは再び緋奈さんの下へと戻ってまいりました。

そして次話で2幕の完結。さして二章最終幕へと入ります。

激動の2章。最後まで楽しんでいただけると幸いです。

Ps:結局自分の2024年の元日は執筆と改稿、そして投稿と仕事で終わった。。。

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