第63話  おつかれさま。

「お疲れ。柚葉」

「……神楽」


 一夜限り。5分限りの淡い夢の時間は終わりを迎え、ぽっかり胸に穴が開いたような喪失感と妙な達成感に浸りながら部屋に戻ろうとした時、どこからともなく現れた神楽が労いの言葉を掛けてきた。


 私たちは近くの壁に移動して、それから背を預ける。


「……告白、したんでしょ?」

「うん。返事は要らなかったんだけどね。でも、そこはやっぱりしゅうだから。律儀に断られたよ」


 大切な人たちにはとことん誠実で律儀であろうとするのがしゅう。そんな彼は私の三年間の想いを全部受け止めてくれた。本当に、不器用なくらい優しい人だ。


「あーあ、これからどうしよっか」

「柚葉ならきっとすぐにいい人に出会えるさ。それこそ、柊真以上の男に」

「あはは。たしかに案外すぐ出会えるかも」


 鈍感でこっちの気も知らないでいつも喧嘩するばかり男だ。そんな彼よりいい人なんてきっと星の数ほどいる――いる、けれど。


「あ、あれ? なんだ、これ?」


 ぽたぽたと、唐突に目から零れ落ちていくそれに、私は戸惑う。


 拭っても拭ってもそれは絶え間なく流れ続け、混乱する私を無視してさらに大きな雫となっていく。


 まるで雨のように。今の私の心情を写し取ったそれは――涙だった。


「お、おかしいな。告白もして……すっきりしたはずなのに。全然、悲しくなんかないのに、なのに、なんで泣いてるの私?」

「……柚葉」


 胸に生じた喪失感が、次第に苦しみに変わっていく。

 妙な達成感は、いつの間にか悔悟かいごに変わっていて。


「うっ。あぁ……あぁぁ!」


 足に力が入らず、その場に崩れる。

 感情の防波堤が決壊して、押し殺そうとした感情が津波のように押し寄せてきた。声にもならない慟哭どうこくに心が震えた。魂が――悲鳴を上げた。


「頑張ったね。柚葉」


 激情を押し殺す私の鼓膜に届いた声音は、これまでの私の努力をいたわってくれるかのような声音だった。


 肩に乗せられた手に込められた温もりは彼とは違くて、それがどうしもうないくらい辛くて、苦しくて、悔しかった。


 もう、彼には触れないのだと。


 もう、彼には触れてもらえないのだと。


 肩に乗せられる友達の手の優しい温もりが、その事実を残酷に告げてきて。


「……っ!」

「――っ!」


 一瞬、私の意思を無視して流れる滂沱の涙が止まった。


「……なに、して」

「ごめん」


 彼の思わぬ行動に息が詰まり、瞠目する。困惑する渦中で辛うじて声音を紡げば、返ってきたのは震えた声音の謝罪だった。


「僕じゃ柊真の代わりにならないなんて分かってる。でも、今だけは、こうさせてほしい」


 懇願にも似た哀願は、私の意思なんて無視して泣き叫ぶ心を抱きしめた。


「神楽、カノジョいるんじゃ……」

「志穂はここにいない。僕からも、柚葉からも言わなければ絶対にバレない」

「だからって……」

「ずっと見てきたんだ。柚葉の恋を」

「…………」

「ずっと、柚葉が必死に柊真を振り向かせようとしている姿を見てきた。そんなキミの今の姿を、僕は見たくない」


 決して少なくはない時間を私たちは過ごしてきて、友情という絆で結ばれた私たち。その中でも神楽は私がしゅうに抱く恋心に気付いて、そしていつも傍で応援してくれた。


「これが正しくないことなんて分かってる! でも、でもっ、泣いてる柚葉なんて見たくないんだ」

「……神楽」


 理屈じゃどうにもできない感情が。理性では抑えきれない衝動が。神楽を動かしている。


 泣いている私を慰めようと、彼なりに必死になって。


「好き、だったの」

「……うん」

「ずっと、ずっとずっと好きだったの! 三年間! しゅうのことが大好きだったの!」


 儚く散った恋心が、再び感情を剥きだしにして暴走する。今度こそ自分では手が付けられなくなったそれは、大きな雫たちとなって私の下から零れ落ちていく。


「悔しいよ! 勇気さえあればっ……しゅうのカノジョになれたかもしれないのにっ! 自分の弱さがッ……あの人が憎い!」

「うん」

「なんでっ! 好きだって気付いてくれなかったんだよ、ばかぁ! 頑張ってたじゃん! 一緒にいたじゃん! なのにっ、なんで気付かないんだよぉ、あのばかぁ」


 八つ当たりだ。負け犬の遠吠えだ。浅ましくて醜い。


 こうなってしまったのは結局、〝友達〟という関係に甘えていた私なのに。


「簡単に忘れられるはず、ないじゃん……それくらい、好きだったの」

「知ってるよ」


 あふれる涙は、きっとそれだけ私が彼に本気だった証。


「ばか。ばかしゅう。くろやろぉ」

「そうだね。柊真はばかだ。こんな可愛い子をフったんだから」

「私可愛くないもんぅぅぅ!」

「柚葉はとても可愛い女の子だよ。僕が言うんだから間違いない」

「じゃあ付き合ってよぉ」

「それは無理」

「じゃあなぐめるなぁ」

「それも無理。せめて、柚葉が泣き止むまでこのままでいさせて」


 力強く抱きしめる両腕に、私も縋るように抱きつく。彼の恋人には決してこんな慰め方をしてもらっただなんて言えないほどに、強く抱きしめ、抱きしめられる。


「泣くな、柚葉」

「ひっく……うっ、ううぅ……」


 唇を噛む。血がにじみ出るほど強く。この感情を清算する為に。溢れる涙を、止める為に。


 涙の泉がカラカラになってしまう前に、急いで防波堤を建て直さないといけない。


「僕がいる。キミの隣に。ずっとはいられないけど、それでも、柚葉の傍にいるから」

「――ひ、っく」

「おつかれさま。柚葉」

「……あり、がと……神楽」


 泣き止むまで慰めてくれる友達に感謝して。


 大切な人を裏切ってまで私の気持ちに応えてくれた友達に感謝して。


 そして。


 ――私の長い三年間の初恋は幕を閉じた。

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