第60話  受け取ったバトンの重み

 ようやく泣き止んだ柚葉の顔は、涙の痕やら鼻水だったりでぐしゃぐしゃだった。


 そんな顔を袖で優しく拭う度に、彼女に対する贖罪しょくざいの気持ちが募っていって。


 涙で滲んでいく袖を見る度に、後悔と忸怩じくじが際限なく湧き上がり、そして胸裏を襲って――。


「……足、どんな感じだ?」

「軽くひねっただけ。もうだいぶ痛みは引いたよ」

「そっか。なら立てそう?」

「うん。あ、でももう少しだけ休ませて」

「分かった。つーか、靴紐くつひも解けてるじゃねえか」

「ほんとだ」

「ぼーっとしてたところで靴紐が解けてそれで足捻りましたって……なに? お前の足呪われてんの?」

「う、うっさい! 誰も怪我したくて怪我してるわけじゃないもん!」


 膨れっ面で背中を叩いてくる柚葉に、俺は「いてぇ」と鼻にシワを寄せながら彼女の解けた靴紐を結び直していく。


「つか、お前足の怪我多すぎ。中学の時も何かと大事なレースで足負傷したんだから、いい加減落ち着け」

「うっ……しゅうにしては珍しく正論だから何も言い返せない」

「毎度毎度ハラハラさせられるこっちの身にもなれ」

「三年生の時は怪我しなかったもん!」

「自慢すんな。そもそも、選手なんだから怪我なんてしないことが前提だろうが」

「今はもう選手じゃないし」

「だからって怪我していい理由にはならないだろ。……心臓に悪いからやめてくれ」

「……ごめん」

「柚葉がそれを分かってるなら、俺はそれで充分だよ」


 やかましいくらい元気な柚葉がこうも素直だと調子が狂ってしまう。


 なんとなく接しづらさを感じながら靴紐を結び終えた、その直後だった。


「――しゅうの好きな人ってさ、緋奈先輩だよね」

「――――」


 不意に――違うな。ずっと、それを聞くタイミングをうかがっていたのだろう。顔を上げれば柚葉の顔がそれを如実にょじつに語っていて、揺れる瞳が答えを求めて見つめている。


 逡巡しゅんじゅんが生まれた。


 あのルールがまだ活きている以上、俺は柚葉に事実を伝えたくてもできない。


 緋奈さんに迷惑を掛けるわけにはいかない。そう判断した俺は、彼女に嘘の答えを

――


「――そうだよ」


 そんなこと、できるはずがなかった。


 もうこれ以上、柚葉に隠し事なんてできなくて、俺は彼女の問いかけを静かに肯定した。


 その答えに、柚葉はやっぱり、そう言いたげな微笑をこぼして、


「あのうわさが広まった時から、ずっと気掛かりだった。あの人がしゅうと一緒に帰ってる時点で、しゅうとは何かあるんだろうなって薄々勘付いてた」

「――――」

「二人はさ、付き合ってるの?」


 ごめん。緋奈さん。裏切って。

 胸裏で、大切な人に何度も謝りながら、


「うん。付き合ってる」

「……そ、っか」


 柚葉は、深い吐息とともに複雑な感情を虚空に向かって落とした。


 俺はそんな彼女から視線を逸らすなんて無粋な真似はせず、真っ直ぐに見つめたまま緋奈さんとの関係を明かした。


「俺は、緋奈先輩と付き合ってる。でも、それはまだ正式ではないんだ」

「え? それって、つまり?」

「その、これを女の柚葉に明かすのは男として情けないヤツだと思われても仕方がないんだけど……俺、緋奈先輩に付き合って欲しいってお願いされたんだ」

「嘘⁉ しゅうの方からじゃなくて、緋奈先輩の方からしゅうに告ったの⁉」

「あぁ」


 目を白黒させる柚葉に俺は思わず苦笑してしまいながら、


「でも、俺はあの人に釣り合わないからって理由でその返事を保留にしてる。俺が緋奈先輩に釣り合う男になった時に正式に付き合おうって約束して。だから、俺と緋奈先輩の今の関係は、仮の恋人同士なんだ」

「その関係ってさ、いつから?」

「だいたい一か月くらい前だよ」

「……一ヵ月」


 何かと照らし合わせるように復唱した柚葉は、はは、と失笑をこぼした。


「やっぱそうかぁ」


 気付いていたと、そう思わせる吐息だった。


「しゅうの様子がおかしくなったのも一か月くらい前だったもんね」


 いつも気だるげな俺が急に元気になり、勉強なんてこれまで一ミリもやる気をみせなかったくせに急に高得点を出すようになり――二人と、少しだけぎくしゃくする日々が続いたり。


 その積み重ねが柚葉に俺に対する猜疑心さいぎしんを生ませ、そして疑念を抱かせた。その疑念はやがて不信感へと肥大化して、俺を遠ざけさせた。


「――ごめん。今まで、何もかも隠して」

「謝らないでよ。しゅうがそうしようとしたこと、私も神楽も今の話聞けば納得できるから」

「怒ってるよな?」

「それは当たり前」


 怯えながら訊ねれば、柚葉はムッとした顔で俺の頬を抓んできた。それからわずかに口角を上げて、


「でも、話してくれたからスッキリした。私たちに言わなかったんじゃなくて、言えなかったんだもんね? ずっと苦しそうなしゅうの顔見てきてから、分かるよ」

「言い訳だと思われるのは承知で言うけど、緋奈先輩と付き合ったら、すぐに二人に伝えるつもりだったんだ。それから隠してたことを謝ろうとも思ってた」

「なら、どうしてこのタイミングで教えてくれたの?」


 疑問を抱いたような、無理解に苦しむような視線が俺の瞳と交差する。


 何度か呼吸を整え、俺は柚葉にこれ以上隠し事なんてしたくなかった己の弱さを認めた上で吐露した。


「柚葉に突き放された時、すげぇ後悔したんだ。嘘を吐いてることを。隠してることを。これ以上嘘を重ねてお前や神楽と友達でいられなくなることを想像したら、自分の考えの浅はかさを思い知ったよ。――こんなものは、天秤てんびんに掛けるまでもないって」


 俺にとって緋奈さんは何者にも代えがたい大切な人だ。けれど、それは柚葉たちだって同じだ。


 この天秤は、決して片方に傾けてはいけないのだと、彼女に糾弾きゅうだんされて初めて気付いた。


「俺は、お前たちとずっと友達でいたい。……いや違うな。柚葉と神楽とずっと友達でいる為に、もう隠すのはやめようって決めたんだ」


 二人にこれまで伝えられなかったのは。二人を心の底から信用していなかった己の弱さだ。そんな未熟なままでは、到底緋奈さんと釣り合うような男にはなれない。


 そうでなくとも、俺はこれまでずっと柚葉と神楽に助けられてきたのだから。


「俺は、緋奈藍李さんが好きだ。彼女の本当の恋人になるために、周りの人たちに俺を認めてもらえるよう努力してる。たとえそれが苦難の連続であっても、あの人に対する想いは変わらない」


 変えようがない。この想いは。だって、俺はずっと、あの人に惹かれていたのだから。


 そしてそれを、きっと柚葉は知っているから。


「これが、柚葉に隠してた全部だよ。今まで、何もかも伝えられなくてごめん」

「――――」


 もう、隠し事はない。洗いざらい全てぶちまけた。


 緋奈さんに対する恋慕も。柚葉に対する懺悔の感情も。雅日柊真の弱さも全て。


 それを静かに聞いていた少女は、今は何を想っているのだろうか。


「しゅう。目、開けて」

「……ん」


 罵倒ばとうされることを覚悟して反射的に閉じた瞳。暗闇の視界の中で、ひどく穏やかな声音が聞こえた。


 その声に促されるままにゆっくりとまぶたを開けると、そこにいたのは憤怒でも悲しみでもなく、嬉しそうに微笑をかたどっている、柚葉が黒瞳こくどうに映っていて。


「ほんと、ばかだなぁ。しゅうは」

「なっ⁉」


 くしゃっと笑った柚葉が、俺の両頬を抓んだ。いつもの、じゃれ合いのように。

 

 予想外の反応に面食らう俺に、嘆息をこぼす柚葉は抓む頬をくにくにと捻りながら言った。


「しゅうは単純なんだから、隠し事したってすぐに気づかれるに決まってるじゃん」

「そんな単純じゃないだろ」

「すごく単純だよ。オンとオフの差が激しすぎるんだよ、しゅうは」


 柚葉の指摘に俺はうまく言い返せず、バツが悪そうに口を尖らせる。


「しゅうがご機嫌になるのは決まって緋奈先輩関係。中学の頃からずっとそうだったじゃん」

「そんなはずな……」

「なくない」


 咄嗟に否定しようとするも、しかし柚葉がその口に指先を押して反論を無理矢理封じた。


「ずっと、私はしゅうのこと見てきたんだよ。それこそ、しゅうが想像してる何倍もね」

「――――」

「嬉しそうな顔してるしゅうに何があったのか聞くと、決まって「緋奈先輩が笑ってくれたぁ」とか「緋奈先輩とちょっとだけ話したぁ」とか、すーぐ鼻の下伸ばすんだよ」

「そ、そうだっけ?」

「そう」


 力強く肯定されて、俺は途端恥ずかしくなって顔を真っ赤にする。

 そんな俺を、柚葉がどうしようもないヤツと可笑しそうに笑って。


「緋奈先輩は、ずっとしゅうの憧れだったんだもんね」

「――うん」

「私がしゅうのことをずっと見てきたのと同じくらい、しゅうも、ずっと緋奈先輩を見てきたんだもんね」

「――うん」

「本当に、緋奈先輩のこと大切に想ってる?」

「うん。想ってるよ。あの人の為に、俺は俺のできる全部をやりたい」

「あはは。ゾッコンじゃん」

「ゾッコンだよ。俺のことを好きだって言ってくれたんだ。その好意を裏切りたくない」


 声に熱がこもる。その言葉を嘘にしたくないと、胸の奥底が燃えていると錯覚するほど熱くなる。


「私たちより緋奈先輩の方が大切?」

「そんなの比べられない。緋奈先輩はたしかに大切だけど、柚葉だって緋奈先輩に負けないくらい大切な友達なんだ」

「……そっか」


 嘘はない。この天秤は傾けられない――それを、この瞬間思い知らされたから。

 頬に添えられる指先が、また柔らかく抓んできた。


「ほんと、しゅうはいつ見ても真っ直ぐだなぁ」


 ぽろりと、零れ落ちた言葉には、羨望せんぼうと慈愛が込められていて。


「しゅう」

「なに?」


 こっちが泣きたくなってしまうほどの笑みを浮かべる少女は、儚げに笑いながら、


「しゅうならきっと、立派なカレシになれるよ。私はそう信じてる――だから、頑張れ」

「――。あぁ。藻掻もがき続けるよ」


 大切な、大切な親友から受け取ったバトンを、しっかりと握り締めたのだった。






【あとがき】

まだ柚葉の恋に決着は着きません。そして第2章・2幕もそろそろフィナーレ間近となって参りました。2幕なげぇ。

Ps:よろこべカクヨムコンユーザー。な〇うとアルファ〇リスの投稿、こっちの改稿凝り過ぎて全然できてない。1日3話更新とかしてるせいだよなぁ。実質カクヨムオンリー。

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