第50話 緊急事態
一面に生い茂る緑はまさしく都会の風景と隔絶された空間であった。
木々が風に揺れる音、野生動物の鳴き声が静謐な空気と木霊する様は神秘的ですらある。
済んだ水が絶え間なく流れ続ける音は普段耳にK‐POPとかアイドルソングとかアニソンしか聴かない学生たちの耳と意識に不思議な安寧を与え、地球の鼓動を感じている錯覚さえ覚えさせるほどだ。
それはまさしく、教員たちが学生に体感してほしかった生命の本質、自然の豊かさと力強さ、人がいずれ還るべき原点の安らぎで――そんな自然の景色は、今学生の大行進によって
「はい学生のみなさーん。あともうちょっと山頂ですからねぇ」
インストラクターのマイクで拡張された声が、整合性のない声を森中に響かせる学生たちの耳に届く。
そうした学生の大行進の最中、その中央列でぐったりと項垂れる青年こと俺が愚痴をこぼしていた。
「四時間バス移動。んでその次に山登りとか、明らかに初日にやっていいローテじゃない!」
「なに弱音吐いてのさ。去年まで陸上部だったくせに息上がるの早すぎ!」
「うるせぇ。陸部だった事とこの山登りに何の因果関係もない! あるとすれば長距離組だけだ! 短距離は山登りなんかしない!」
はぁはぁ、と荒い息を繰り返す俺をまだ体力に余裕のある柚葉がけらけら笑いながら背中を叩く。
たしかに柚葉の言う通り、俺も去年まで陸上部でそれなりに鍛えていた。だが約一年のブランクが想定よりも大きく身体に反映されていたのだ。その表れが今の無様な姿である。
「どうせいつも家でごろごろしてたんでしょ。これはその代償だぞ!」
「家でごろごろしてたのは否定しない。代償というのも甘んじて受け入れよう」
「じゃあもう反論材料ないじゃん」
「あぁ、ない。今回はお前の勝ちだよ、柚葉」
「いやべつ口論してるつもりないんだけど。というかその顔止めて。負けを認めたくせに妙に清々しいめっちゃムカつく」
舞台が学校だろうが林間学校だろうが柚葉とのじゃれ合いは変わらない。
いつものように腐れ縁の女友達と小突き合いをしていると、そろそろ仲裁に入って来る声がしかし今日はいつまで経ってもその気配を見せなかった。
俺と柚葉は互いの脇腹を狙い合う拳を止めると、それからぎこちなく首を後方へと曲げた。
「はぁぁ……はぁ、うあぁぁ」
俺たちの視線の先、そこには――いつも爽やかな笑みを絶やすことはない少年が、その面影すらみせず死んだ顔をしていた。
「……えっと、その、大丈夫? 神楽?」
「へ、へい、き……」
「いや大丈夫じゃないよねぇ⁉ 明らかに死ぬ間際の返事だよね⁉」
息も耐え耐えの神楽の返事に、俺と柚葉は苦笑をこぼす。
勉強ができて何事もそつなくこなせる神楽だが、唯一、彼にも弱点があった。
それは体力だ。
神楽は、絶望的に体力がないのだ。
「はぁ。大丈夫か神楽」
「あ、ありがとうしゅう、で、でも僕は本当にだいじょ、ぶ」
「もう死にかけじゃねえか。ほら、手引っ張ってやるから頑張れ」
「……ぜぇ、ぜぇ」
もはや返事する気力すら振り絞れていない神楽に、俺はやれやれと嘆息。
体力がないやつに山登りなんてさせれば、当然すぐに限界がやってくる。けれど今回、神楽は頑張った方だ。中学最後のマラソン大会なんて完走できなかった奴が、あともう少しで頂上に辿り着くまで懸命に歩いているのだから。
それは走りと徒歩の違いもあるのかもしれない。けれど、神楽が運動音痴な上に体力が絶望的にないことを知っている俺と柚葉からすれば、この事実は感慨深くさえある。
そんな友人を頂上まで登り切らせるべく手を引いていると――
「――痛っ!」
すぐ近くで甲高い悲鳴が聞こえた。
反射的にその声のした方に振り返った俺と柚葉、神楽は地面に尻もちを着いた生徒を捉えた。見覚えがある、というより同じ班員の女子だった。名前は、たしか
そして、そんな彼女のことをもう一人の女子、こちらも同じ班員の
これ、マズいやつだ。
脳が直感的に警鐘を鳴らし、その判断に俺も
俺は柚葉に体力が底をつきかけている神楽を渡して指示を
「柚葉。神楽連れて先いけ」
「でも……」
「俺たち、丁度列の真ん中にいるせいで先生気付けてない。皆も足止めたいけど止めらない状況だ。後ろにいる先生が来るまで俺が対応しとく」
できるの、と言いたげな憂いをはらむ視線に、俺は「分からない」と苦笑しながら彼女の頭に手を置いた。
「山頂着いたらまず佐野先生に連絡しろ。神楽は……うん。無理そうだから柚葉が頼りだ」
「わ、分かった! すぐ佐野先生に報せてくる!」
「頼む」
緊急事態に錯乱しながらも強く頷いた柚葉に俺は深く顎を引いた。互いに今すべきことを冷静に判断し、課された任務に全力で対応する。
いつも口では柚葉のことを小馬鹿にしているが、内心では彼女に全幅の信頼を置いている。故に、神楽の
こういう時、頼りになる親友がいてくれて心強いと思った。心底、そう思う。
「ほら神楽! 足止めてる暇じゃないよ!」
「分かってる! 最悪僕置いて行っていいから……頼むよ、柊真」
「大事じゃないことを祈っててくれ」
各位やるべきことを胸に刻んで、柚葉と神楽は前へ。俺は後ろを振り向く。
「どうした⁉」
「――ぁ、と」
そして慌てて倒れている雛森さんの下へ駆けつると、彼女は痛みを
上手く、口が開けないのか。目尻に涙を溜める彼女の代わりに、すぐ傍で付き添っていた八重さんが状況を説明してくれた。
「その、私もよく分かんないんだけど、朱夏が急に悲鳴を上げて倒れたの。それで足抑えてるから挫いたのかと思って見てみたら……」
「赤い斑点……もしかして刺されたのか?」
八重さんの言葉に促さられるままに視線を雛森さんの足へ下げれば、くるぶし辺りに赤い斑点が浮かんでいるのを捉えた。
しかし刺されただけでこんなに赤い斑点が浮かぶものか、と思案していると、それまで痛みを堪えるのに必死だった雛森さんが「違う!」と声を荒げて俺の言葉を否定した。
「噛まれたのぉ! 急に草むらからムカデが出てきて、それで噛まれたんだよお!」
「んなバカな」
泣きじゃくるように答えた雛森さんに、俺は驚愕せずにはいられなかった。
たしかに、ムカデには口があるから噛むこと事体はある。しかし、それは稀だ。ムカデは肉食性であるが人を噛む事は滅多にない。それこそ、刺激を与えた時くらい。
「草むらから急に出てきたってことは、葉っぱに着いて休んでた所を、誰かが通りかかった拍子に葉にぶつかって、それでびっくりして飛び出したのか? それを運悪くたまたま通りかかった雛森さんの足にぶつかってそのまま噛んだ?」
どんなミラクルだよ。と苦笑せずにはいられない。
日頃の行いが余程悪いか、彼女自身が神様に好かれていないレベルの悪運だ。
とにもかくにも、経緯を解き明かすよりもまずは雛森さんの応急処置が優先だ。
「ムカデは? どれくらいの大きさだった?」
「分からない。これくらいだった気がする」
雛森さんが指尺でムカデのサイズを教えてくれた。大体2~4センチ程度ということは、まだ幼体か。
「足はまだ痛む?」
「超痛い!」
「分かった。なら痺れはある?」
「う、うん。結構、ひりひりする。あと、ちょっと
「やっぱ噛まれてるな。食いつきからしてもけっこうガッツリいってる」
「……ねぇ、ムカデってたしか毒持ってるんだよね?」
「じゃあ、私死ぬ⁉」
震える声音で呟いた八重さんに、雛森さんは目頭からぶわっと涙を吹き出した。
「嫌だぁ! 私まだ死にたくないよぉ⁉」
「幼体ならまだそんなに毒性は強くないから死ぬことないはずだよ」
「ほ、本当?」
「こんな状況で嘘なんか吐くはずないだろ」
少しだけほっとしたような表情をみせた雛森さん。その声音だけ聞き取って、俺は携帯していた小型のバッグを肩から外して地面に置いた。それから、ファスナーを開けていく。
「ねぇ、なにそれ?」
「救急箱」
「そんなの持ってきたの⁉」
俺がバックから取り出したそれに眉根を寄せた八重さんが訊ねてくる。
男子のくせに意外、とでも言いたげな視線を意図的に無視して、俺は黙々と応急処置に取り掛かる。
「まず噛まれた所を洗い流したい。二人のどっちか、水は持ってる?」
本来ならば流水がいいが贅沢を言っている暇はない。まずは表面上の毒だけでもいいから洗う事が先決。二人の顔を交互に見ながら問いかければ、それに頷いたのは八重さんの方だった。
「う、うん。もういくらか飲んじゃったけど」
「それでいい。雛森さん。その水で患部洗うけどいいね?」
「……うん」
わずかな抵抗をみせるも、それよりも足の痛みを和らげたい欲求が勝ったのだろう。渋々と頷いた雛森さんに「ごめん」と小さく
「左の靴と靴下も脱がすけど、これは俺じゃない方がいいかな?」
「あ、あたしがやるよ!」
「助かる」
緊急事態とはいっても、やはり男側が女子の生肌に触るのは
「ごめんね、育美」
「こんなことで謝んな。友達がピンチの時に助けないでどーする」
そんな美しい友情に思わず頬が緩んだ。その間にも靴を脱がせ終えた八重さんが振り向き、俺に確認してくる。
「これでいいんだよね?」
「うん。ここからは俺がやるよ。ちょっとだけ肌に触るけど許して」
「助けてもらってる手前怒れるわけないじゃん」
互いに苦笑を交わし合って、俺は雛森さんの左足を支えるように手を添えた。
それから、八重さんから
「本当はぬるま湯が適切なんだけど、今は応急処置だからこれで勘弁してほしい」
「……詳しいね?」
「来る前に調べただけだよ。もしかしたらやらかす人がいるかもって、
「……ごめん」
「雛森さんが謝る理由なんて何一つないよ。起きちゃった不慮の事故は仕方がない。ムカデも急にこんなに人が来てびっくりしただけだと思うから、怒らないであげてね」
「うん」
「……ムカデに神対応する人とか初めてみたわ」
俺のやらかす人とは柚葉のことだったんだけど、勘違いしてしまった雛森さんがしゅん、と項垂れてしまった。そんな彼女に気にしなするなと念押ししつつ、俺はペットボトルの水が空になるまで患部に流し続けた。八重さんには後で水を弁償をしないとな。
「ちなみに、ムカデの毒は口で吐き出そうとしたらダメだよ」
「そうなの?」
「うん。毒を抜こうとして付けた皮膚が逆に
「私、キミが来なかったらやろうとしてたわ⁉」
その場でテンパってくれていたのは図らずも英断だったというわけだ。
俺は「危なかったな」と苦笑いを浮かべてから、次にバッグからハンカチを取り出した。
「安心して。予備の為に持ってきたやつだから綺麗なやつだよ」
「は、ハンカチまで予備で持ってるの?」
「男なのにマメ~」
少しずつ、緊張と恐怖で満たされていた空気が
次からはタオルにしよう、と早速反省点を見つけて自分に減点を科しながら、俺は救急箱を開けてある物を求めて手を突っ込んだ。
「これだ」
そうして手に取ったそれを二人が見て、眉根を寄せて訊ねてくる。
「それってもしかして薬?」
「そうだよ。塗り薬。ムカデとかの毒に効くんだ」
なんでそんなもの持ってきてるの、という視線はもはや無視だ。こういう事態に備えて色々と準備してあるのだから、持ってきて当然である。
適当な量を患部に塗り広げ、その上からガーゼとガーゼ用テープで傷口を塞ぐ。
生憎女性用の替えの靴下は持ってきていなかったので、八重さんに脱がせた靴下をもう一度雛森さんに履かせるようお願いしたあと、俺は額に滲んだ汗を袖で拭った。
「ふぅ。これで応急処置はできたはずだから」
「いや、これ応急処置というか普通に手当てじゃない?」
「ダメだ。ちゃんと保健の先生とペンションの人に診てもらって」
「わ、分かりました」
気圧されたように頷いたのを確認して、俺は肩の力を抜く。
俺ができるのはここまで。あとは後続にいる先生に気付いてもらって、雛森さんをペンションまで運んでもらえば神楽たちと合流できる。
「――本当に、ありがとう」
ふと、聞こえた感謝の言葉に下げていた視線を上げれば、弱弱しくも口許を綻ばせる雛森さんがいて。
それに、俺は淡い微笑を浮べ返して。
「雛森さんが無事でよかったよ」
「――っ!」
安堵する俺の耳に、少女の、何かが芽生えた感情が落とした小さな吐息が聞こえることはなかった。
【あとがき】
林間学校編始まってからたった2話でもう緊急事態発生です。
今回は柊真の知識無双の回でした。緋奈さんがこの場にいたら軽く五回は惚れ直してますね。
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