第43話  さよなら平穏

「緋奈、先輩!」


 約5分ほど遅れて校門で待つ緋奈さんの下に駆け付ければ、彼女はぱっと顔を明るくさせた。しかし、俺が「先輩」に戻したことに気付き、やや不服そうに口を尖らせる。


「ううん。全然待ってないよ――雅日くん」


 緋奈さんも俺に合わせてかは分からないけど、互いに決めたルールに則って俺を苗字で呼んだ。

 俺は多少荒い息を繰り返しながら、


「ほんと、唐突過ぎですよ」

「ふふ。私もそう思う」


 糾弾きゅうだんするようににらむも、緋奈さんはその視線など全く意に返さず微笑みを浮かべた。


 周囲には俺と緋奈さんのことをどういう関係かと興味深そうに覗いてくる生徒たちが多数いる。中には視線をこちらに注ぐあまり電柱にぶつかる生徒までいた。


「ここじゃ目立つし、早く行こうか」

「――――」


 周囲は懐疑心かいぎしんを。俺は緋奈さんに疑念を抱く。一体全体どういう心境で急に放課後デートをしようなんて言い出したのか、その真意が全く推測できない。


 意味深に唇を歪める緋奈さんに怖気を覚えながら、俺は無言で頷くとそのまま歩き始めた。


「――――」

「――――」


 無言の時間が続く。たぶん、こんなに長く話さなかったのは付き合ってから初めてだった。


 いつもはこれでもかとくっついてこようとする緋奈さんが、今日は大人しい。


 嵐の前の静けさ。とでも言えばいいのか。


 まるで何かを窺うような、距離感を図るような、周囲の目を気にしているような、何かのタイミングを見計らっているような不気味な静けさだった。


 互いに言葉なくいくらか信号機を通り過ぎると、ようやく俺たちと同じ制服を着た生徒の姿が見えなくなる――その、瞬間だった。


「――えいっ」

「うおっ」 


 くるっ、と途端振り返った緋奈さんが急に抱き着いてきた。咄嗟とっさのことで思わずよろけてしまいながらも彼女を抱き留めれば、それまで恐ろしいさを覚えるほど神妙な顔をしていた緋奈さんはもうどこにもいなくて。今は、カレシに甘えんとするカノジョの顔になっていた。


「ごめんね。急にこんな大胆なことさせて」

「やっぱりわざとだったんですね」

「怒ってる?」


 生徒の姿がなくなったとはいえ、周囲にはまだ大勢の人が――いない。俺はいつの間にか、人気のない路地裏に連れ込まれていた。


 異様なほど静かな緋奈さんに気を取られて、人気のない路地裏に連れ込まれたことに気付かなかった。


 それも計算済みかは分からないけれど、今は上目遣いで見つめてくる緋奈さんとの対話に集中することにした。


「少し怒ってます。いくらなんでもやりすぎです」

「ごめん」


 俺たちが決めたルールには確かに抵触していない。しかし、だからといってこのやり方は少々強引だ――実際、今日のことで俺たちの関係に興味を抱く者たちが湧くはずだ。


「明日が土曜日でよかったですけど、月曜日はきっとお互い質問攻めですよ」


 それこそ、下賤な輩たちから。

 想像しただけで、背筋が凍るほどの怖気を覚える。胸に抑えきれない恐怖心が、指先からこぼれるように緋奈さんの華奢きゃしゃな肩をぐっと握った。


「俺は、べつにどうだっていいんです。全部無視するし、脅されようとやり返せるから」


 でも、


「でも、緋奈さんは違うでしょ?」

「――――」


 俺は男で、緋奈さんは女の子だ。大した関わりもない男から執拗しつように責められるということは、精神的にも辛いはずだ。それが、おそらく、いや確実に起こる。


「嫌なんです。俺は、緋奈さんが辛い目に遭うのは。たぶん、絶対に緋奈さんが快くない言葉を吐かれる」


 分かってしまう。身分の差というものは、自分のたちに関係なく周囲の反感と非難を買う。


 俺はそれを分かっているから、俺が周囲に認められるまでこの関係を口外しないように尽力してきた。俺のせいで、緋奈さんが傷つくのは嫌だから。


「ごめんなさい」


 初めて、緋奈さんの本気の謝罪を聞いた気がした。

 瞠目する俺に、緋奈さんは紺碧の瞳を伏せて続けた。


「でも、いつまでもこのままなのも嫌なの。他人の目を気にしてこの関係を秘密にし続けるのは。べつに、私たちは何も悪い事はしていないでしょ?」

「それは。そうですけど……」

「私としゅうくんは、ただお互いを想い合ってるだけ。それって、悪なのかな?」


 そうだ。俺たちは何も悪い事などしていない。普通の高校生同士が普通にお付き合いしているだけ。それのどこに問題があるのかと問われれば疑問しかない。


 それでも、周囲は俺と緋奈さんの関係に納得しないだろう。


 ただ好きだから一緒にいるというだけでは、周囲は納得しない。否、認めない。


 なんでお前がと、どうしてお前程度なんかと、あんな奴のどこがいいんだと、絶対にやめろと非難と嘲笑を受ける。それは俺じゃなく、緋奈さんがだ。


 俺に対する周囲の嫉妬は、俺にではなく緋奈さんに向けられる。


 それが嫌で、怖くて、理不尽で、彼女に苦しい思いをさせたくなくて、その歯止めが効かなくなる激情を伝えるように体が無意識に彼女を抱きしめた。


「ごめんなさい。全部、俺のせいなんです。俺がもっと、優秀だったら、人気者だったら、誰にでも認められる存在であったなら、緋奈さんにこんな辛い思いをさせなかったのに」

「……しゅうくん」

「ごめんなさい。アナタの期待に応えられない俺で」


 後悔が募る。彼女を抱きしめる手が震えた。悔しさで強く奥歯を噛んだ。

 早く、他人に認められなければ、と焦燥が全身を支配する。


「しゅうくんが謝る必要なんてないよ。悪いのは私――私が、お姫様だからいけないの」


 他人が勝手に作りだした偶像を演じてしまった自分を、緋奈さんは今更になって後悔していた。


 誰もが羨望し、崇め、彼女を崇拝する。そうさせたのは他人だが、それを受け入れてしまったのは彼女本人だ。


「こんなことになるなら、始めから何もかも捨てちゃえばよかったんだよね」

「――」

「しゅうくんと一緒にいられさえすれば、私は満足なのに」


 嫌々ながらもお姫様を演じると決めたのは彼女本人の意思だ。もしかしたら、演じなきゃいけないと、過去の彼女にそう決意させた原因があるのだろうか。いずれにせよ、過去の緋奈さんを知らない俺に思惑を張り巡らせる資格はない。


「面倒だね。私たち」

「なんでこんなことになっちゃったんでしょうね」


 お互いに、クソみたいな現実に嘆く。


 きっと、別れてしまえば楽なのだろう。俺たちはまだ仮の関係で引き返すのは容易だ。その先へと臨む苦難よりもずっと。


 それでも、


「でも、俺は緋奈さんと別れたくないです」

「私も、しゅうくんと別れたくない」


 この関係を、終わらせたくない。


 例え苦難の連続だとしても。周囲に白い目を向けられようとも。例え、俺たちの関係を誰に認められなくたって。


 緋奈藍李という女性が、好きだから。

 雅日柊真という男性が、好きだから。


「緋奈さん」

「なに? しゅうくん」


 きっと、今の俺の頭は正常に働いてない。先のことを考えすぎるあまり思考がぐちゃぐちゃになってしまっている。

 しかし、だからこそ、俺の心がそれを純粋に渇望した。


「――今、キスマーク、残してくれませんか?」


 制服の襟を開いて、目を見開く緋奈さんに首筋を見せる。そこには、五日も経って薄くなってしまった、前回彼女に刻み込まれたキスマークがあった。


「いいの?」


 期待をはらんだような、戸惑いをはらんだような問いかけ。俺はそれに強く頷いた。


「はい。緋奈さんがこんな場所でするのが嫌じゃないならですけど」

「愚問だよ。それ」


 緋奈さんはおかしそうにくすっ、と笑った。

 それからすぐ、熱い吐息が首筋に当たる。


「ねぇ、今日はいつもより強く刻み込んでもいい?」

「お願いします」

「やった」


 これまでそれをされるのに恥ずかしさと躊躇いがあった。けれど今回は、自分から強請るように頷いた。


「嬉しいな。しゅうくんから求めてくれるなんて」

「だって、キスマークは今の俺と緋奈さんを繋いでくれるリードだから。これがあれば、俺は、緋奈さんのものだって証明になるから」

「うん。しゅうくんはわたしのものだよ」

「だから刻み込んでください。今は少しでもいい。緋奈さんとの繋がりを感じていたいんです」


 ただ、欲しかった。


 緋奈さんとの繋がりが。


 誰にも、何人にも断ち切れない繋がりが。


 他人に嘲笑われようとも、さげすまされようとも、非難されようとも――緋奈藍李という女性との繋がりを、心と身体が求めていた。


「それじゃあ、いただきます」

「くっ!」


 きっと、このもどかしさと苦しさは、誰にも分からない。これを理解できるのは、俺の首に無我夢中で愛情の印を刻み込む彼女だけ。


 ちゅぅぅ、柔らかな唇から必死に楔を打ち込む音と、焼き印のような熱を感じる。


「ぷはっ。……刻み込めたよ、しゅうくん」

「ありがとうございます」

「――っ! ……今日のしゅうくんはいつもより大胆だね」


 胸の中で、緋奈さんの嬉しそうな声が聞こえた。


「ごめんなさい。でも、今は緋奈さんを無性に抱きしめたくて」

「謝らないで。もっと、私を抱きしめて。強く、決して離さないように」

「絶対に離しません」


 どうしてか。

 いつもはこんな大胆なこと、恐れ多くてできないのに。

 けれど今日は何故か、容易く彼女を抱きしめることができて。

 離れたくないとでも伝えるように、俺は緋奈さんをぎゅっと強く抱きしめた。


「お互い、頑張ろうね」

「――はい」


 優しく、けれど強く抱きしめ返してくれた緋奈さんに、俺は静かに頷いたのだった。





【あとがき】

しゅうは藍李と付き合って(仮)からそれまでの過ごせていた鬱屈としながらも穏やかな平穏を失いました。

そんな平穏と藍李を天秤に掛け、選んだのは後者。藍李の傍にいるという試練に挑み続ける道を手に取ったのです。

サブタイはそんなしゅうの現状を物語るものにしました。

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