第41話  母は全て知っている?

「――――」


 こんこん。


 部屋で勉強していると、不意に扉をノックする音が聞こえた。


 走るシャーペンを止めて「はい」と応じれば、扉越しから「入るよ」と声が返ってきた。


 それからすぐに部屋の扉を開けて入って来たのは母さんだった。


「やっぱり勉強してたのね」

「ん。やることもないから」


 トレーを両手に持つ母さんは勉強している息子の姿を見て、何故か呆れたような、感服したような曖昧な吐息をこぼした。


「少し休憩したら?」


 母さんはそう言って部屋の中央に設置されているテーブルに紅茶を注いだティーカップとバウムクーヘンを置いてくれた。


 俺は「そうするよ」と頷くと、椅子から腰を上げて肩を叩きながらカーペットへと座る。


「最近頑張ってるみたいね」

「ぼちぼちかな」


 紅茶を口に含みながら苦笑すれば、母さんは「そんなことないよ」と首を振る。


「高校に入って初めての中間テストで29位だったんでしょ。しゅうにとっては快挙じゃない」

「まぁ、それなりに」


 たしかに母さんの言う通り、今までこんな上位の成績を獲ったことは一度もない。テストの点数だってそうだ。


「しゅうはやっぱり、やればできる子だったのね」

「なに。めに来たの?」

「頑張った息子を褒めるのは母親の務めよ」

「やめろよ恥ずかしい」


 柔らかな微笑を浮かべる母さんが頭をでてきて、俺は不愉快げにその手を払いのけた。

 母さんは「反抗期ね」と苦笑したあと、少しだけ声のトーンを変えて、


「頑張ってるのは、最近よく出掛けてる相手の為?」

「――――」


 一瞬。虚を突かれたように静寂が降りた。


「……そうだよ」


 数秒間を空けて肯定して、俺は母さんの顔色をうかがう。


「やっぱ遊びすぎ?」

「少し心配はしてるけどそこはしゅうの常識を信じてるわ。それに休日遊びに行くのは学生として普通の事だと思ってるしね」


 お姉ちゃんを見てみなさい、と言われたら苦笑しか返せない。たしかに姉ちゃんのほうが遊んでるな。


「むしろ貴方は今までが外に出なさ過ぎたわね。そのせいで余計に懸案してたのもあるわ」

「はは。用事が出なきゃ外に出る意味ないし」

「その人には感謝しなきゃね。息子を健全な男子高校生にしてくれてありがとうって」

「いいよそんなの。つか外に出たくらいでいちいち大袈裟」


 べつに俺は引きこもりじゃないし、今でも家でごろごろするのは好きだ。緋奈さんと過ごす時間も、圧倒的に彼女の家が多い。


 また、ずず、と紅茶を飲めば、母さんは「はぁ」と再び憂いを帯びた吐息をこぼした。


「私とお父さんが心配してるのはね、しゅう。貴方が最近頑張りすぎなんじゃないかって話なのよ」

「……べつに。そこまででしょ」

「でも貴方、最近、勉強の他に日雇いのバイトだってしてるでしょ」

「それはたまに。空いた日しか入れてないし」


 なんとなく咎められている気がして、気まずいまま答えていく。


「言っとくけど、お金に困ってるわけじゃないから。ただあればいいなってくらいでバイトしてるだけ」

「それはお母さんもお父さんもしゅうがバイトすることを認める時に聞いた。節度と余裕を持ってやるって誓ってくれたから私もお父さんも承諾したわ」

「なら何も問題は……」

「問題は起きてからじゃ遅いの」

「……うぐ」


 凛とした声音が正論を説く。たしかに、と俺は反論できず口を噤むしかない。


「はぁ。友達もそうだったけどさ、なんで俺が頑張ることがおかしいと思われるんだよ」

「だってしゅう。今まで何も本気でやってこなかったでしょ」

「……うぐぐ」


 また正論だ。そして、今回は完全に過去の俺が悪い。

 バツが悪く顔をしかめる俺の鼓膜を、母さんの真剣さをはらませた声音が震わせる。


「今までずっと、しゅうは何事もそつなくこなしてきた。テストも部活も。やりがいを見つけたのはいいことだと思う。そこはお母さんも嬉しい。でもね、だからといって無茶はしてほしくないの」

「べつに無茶なんかしてない」

「今はまだでしょ。これから先無茶されたら困るから、こうして先に釘を刺してるのよ」


 ずっと正論だ。たしかに先の事は誰にも分からない。自分でも今のペースが多少オーバー気味なのは薄々理解してた。それ故に、母さんの説教はより心に深く突き刺さる。


 俺はこれ以上の抵抗と反論は無意味だと悟り、肩を落とした。


「分かった無茶はしない。でも、やりたいことがあるから勉強は頑張る。違うな、頑張らせてください」


 頭を下げた。親に頭を下げたのはこれで二度目だ。二度目は今。一度目はバイトの了承を得る時だった。


「進学するつもりなの?」

「分からない。でも、やりたいことは見つけた……気がする」

「言ってみなさい」


 顔を上げて、真っ直ぐに見つめてくる母さんに俺はぎこちなく答えた。


「獣医になりたいと、思ってる」

「貴方が?」

「俺が獣医になりたいと夢見て悪かったな!」


 本気で言ってるの? とでも言いたげに顔をしかめる母さん。だから言いたくなかったんだよ。


「何怒ってるのよ」

「絶対心の中でバカにしただろ」

「ミーチューバ―とかゲーム実況者になりたいって言われるよりその進路の方が親として百倍安心できるし応援できるわよ」


 ちょっと驚いただけ、と母さんは柔らかな笑みを浮かべた。


「そう。しゅうは獣医を目指したいのね」

「まだ決まったわけじゃない。でも、なんとなくその考えが自分の中でピタッと填まった気がしたんだ」 

「いいと思うわ。結果的にならないとしても、その知識は将来必ず役に立つと思うから」

「認めてくれんの?」

「しゅうがここまで頑張ってるなら認めるしかないでしょう」


 意外とあっさりと認められてしまった。もっと反対されると思った俺としては拍子抜けというか淡泊というか、緊張を返して欲しい気分だった。


「でも、それなら急に勉強頑張り始めたのも納得がいくわ。獣医なら医学系とかそれを専門にした大学に目指さないといけないものね」

「うん。だから今の内から勉強する必要があったんだよ」

「それならそうともっと早く言ってちょうだい。応援できたでしょう」

「決めたのは最近だから。それに、もしかしたら急にやる気なくすかもしれないし」


 たぶん、緋奈さんに捨てられたらこの将来は必然とついえるんじゃないかと思う。今の俺のやる気は、あの人の隣に並びたいっていう不純な動機だから。


「はぁ。しゅうは高校生になっても純粋ね」

「べつに純粋じゃねえし」

「好きな人の為に頑張ってることのどこが純粋じゃないっていうのよ」

「……うぐ」


 そう言われてしまえば確かに俺は純粋だ。おまけに単純。

 不服気に口を尖らせる俺を、母さんは柔らかな微笑を浮かべながら頭を撫でてきて。


「でも、男の子のそういう健気な部分は女の子好きよ」

「べつに俺が出掛けている相手が女性って限らないだろ」

「あらやだ。今時の子らしく多様性ねぇ」

「女の人だよ! 俺は至って普通ノーマルだ!」


 何かあらぬ誤解を生む予感がして、叫びながら告白した。大丈夫。この程度の開示なら緋奈さんと決めたルールには抵触しない。あと普通にこの誤解だけは解いておきたかった。


「やっぱり女の人じゃない。ちなみに、その子ってひょっとして私の知ってる子かしら?」

「…………」


 直感的に嫌な予感がした。


 ニヤニヤと不快な笑みを浮かべる母の顔がそれを物語っている。


 ……え?


「何か見た?」

「何も見てないわよ」


 その顔に嘘は吐いてないように見えるのに、なんだ、この違和感は。

 この母親。言わないだけで絶対何かを知っている。或いは、既に勘付いている気がした。


「……絶対姉ちゃんには言うなよ」

「ふふふ。どうしようかしら」

「っ⁉ やっぱ知って――」

「緋奈藍李さんって言うんだったわね」

「なっ⁉」

「真雪のお友達」


 唖然とする息子をあざ笑うかのように、母さんは口の端をこれでもかと歪めた。


「お家によく来る子でしょ。私だってその子と交流があるんだから、しゅうだって多少なりとも交流があったはずよね」

「……ない」


 嘘は言ってない。実際、つい最近まで緋奈さんと話したことはほとんどなかった。


「しゅう」

「……なんだよ」


 名前を呼ばれて渋々と顔を振り向かせれば、そこには恋愛ドラマでも楽しんで観ているかのように笑みを浮かべている母さんがいて。


「貴方にはハードルが高そうな子だけど、諦めずに頑張りなさいね」

「ノーコメントで!」


 やっぱすでに気付いているであろう母に、俺は悪足掻きに涙目でそう叫んだのだった。


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