第40話  美人先輩と首輪

 本日のデートも間もなく終わり、緋奈さんを住んでいるマンションまで送り届けていると、


「そうだ。しゅうくん。少しだけ私の家に寄ってくれない?」

「……べつにいいですけど」


 帰り際にそんなお願いをされ、俺は戸惑いながら頷いた。


 緋奈さんがその快諾の影でニタリと邪悪な笑みを浮かべていることなど露知らず、俺は『何の用事だろうか』と呑気に考えながら部屋まで着いていく。


 エントランスを抜け、エレベーターに乗り、彼女の住んでいる214号室に辿り着く――、


「うわっ⁉」


 緋奈さんがオートロックを解除し、玄関の扉を開けた直後だった。無言の彼女に手を引かれ、それから引き込まれるように部屋に入った。


 そのまま沈黙ちんもくしている緋奈さんに俺は壁へと追い込まれる。緋奈さんは俺の胸に顔を埋めたまま、なんとも器用に玄関扉を施錠した。


「あ、緋奈さん?」

「――ふふふ」


 俺を壁に追い込んだ張本人の肩を叩きながら名前を呼ぶも応答がない。さらに混迷を極める俺の鼓膜に、怪しげなわらい声が届いた。


「キミって本当に純粋だね」

「え? それってどういう――」


 うつむいていた顔をゆっくりと上げた緋奈さん――その目には恍惚でありながらもどこか怖気を彷彿ほうふつとさせる感情を宿しているのが垣間見えて、俺は堪らず息を飲む。


 俺は彼女のその目を二度見た事がある。


 一度目は俺の部屋で。二度目はこの家のリビングで。


 そのいずれも、緋奈さんが俺にキスマークを残そうとした時で。


「だ、ダメです!」

「なんで?」


 瞬間的に〝それ〟を察知した俺は、慌てて緋奈さんを引き剥がした。顔を真っ赤にして叫ぶ俺に対して、緋奈さんは俺が〝気付いたことに気付いて〟悪戯に問いかけてくる。


「だって、また残そうとしてるでしょ」

「うん。正解」


 主語がないにも関わらず肯定するということは、やはりそういうことか。全て察する。


「やっと跡が消え始めたんですよ」

「うん。だからまた付けなきゃ」

「なんで⁉」


 と反応したのがダメだった。

 一度は引き剥がして保たれた距離感。しかし緋奈さんはくすっと艶美な笑みを浮かべるとまたその距離を縮めて、そして今度はわずかに荒れた息遣いを繰り返しながら俺の襟元を開いてきた。


「だってキスマークこれがないと、しゅうくんが他の女の人にられちゃうかもしれないでしょ」

「そんなこと絶対にありませんよ」

「なんでそう言い切れるの?」

「うぐ……」


 なんでって、そんなの。


「……俺が、ひねくれ者で、根暗で、人生で一度もモテた験しがないからです。こんなこと言わせないでくださいよ」

「ごめんごめん」


 黒歴史を自分から暴くって超恥ずかしいな。しかもその暴露した相手が憧れの先輩とか、羞恥プレイにも程がある。


「でも、今と昔は違うよ」

「今も昔も変わりませんよ」


 現在進行形でモテないことを拗ねながら告白すれば、緋奈さんは嬉しそうに唇に弧を引いた。


「しゅうくんはモテなくていいよ。私以外にこんな素敵な人知られたくないから」

「――ぁ」


 上目遣いで見つめてくる瞳が、反論する勢いを失わせる。

 何か言おうにも声が出ない。彼女の言葉とその親愛を込められた双眸が俺の胸を歓喜で満たす。これこそ、言葉にもできない喝采。思考が緋奈藍李という女性一人で埋まる。


「あ、緋奈さん以外に好かれたいなんて、考えてないです」

「へへ。嬉しいな。でもね。しゅうくんがそう思ってくれても、やっぱり証明は必要だと思うの。キミは今、私のものだよっていう、そういう証明が」

「じゃあ、何かべつのものでもいいんじゃないんですか?」


 必死に言葉を紡ぐ。そんな俺とは裏腹に、緋奈さんは冷静に言葉を紡ぐ。


「しゅうくんがくれたストラップもあるけどね。でも、私って欲張りなの。それだけじゃ、足りない」


 緋奈さんの顔が首筋に近づいていく。距離を詰めるごとに当たる熱い息をより鮮明に実感する。心臓が早鐘を打ち、俺も自然と呼吸が荒くなっていく。


「はぁ。はぁ。はぁ」

「ふっ。しゅうくんのその顔、すごく可愛い。たまらなくそそるわ」

「どんな顔、してるんですか?」


 抵抗力が失われていく中で、それが最後の抵抗のように彼女に問いかけた。

 すると彼女はこれでもかというほど艶美な笑みを浮かべて――


「私にこれからされることを、すごく期待してる顔してるよ」

「そんな顔絶対してな――んっ!」


 言下を終える暇すら与えず、緋奈さんが首筋に唇を押し当てた。

 この間体感したばかりの、全身の産毛が残らず総毛立つ感覚が、再び俺を襲う。


「んっっ、んうぅ。れろれろっ……ふふっ……れろぉ」

「緋奈さ、ん! ……くぅ!」


 滑らかな舌が首を舐る。まるで、美食を堪能するが如く。

 味わい尽くされている。

 俺に、自分の情熱的な愛情を刻み込んでいる。


「しゅうくん。好き……好きぃ」

「くっ、あうっ……これ、やばっ」


 体に力が入らない。頭がオーバーヒートして、警鐘を打ち始めた。

 なんだ、この、全身が溶けるような感覚は。

 キスじゃない。セックスでもない――なのに、体が興奮している。高揚じゃない。彼女のものになることに、悦びを覚えてる。


「ぷはぁ。……うん。ばっちり跡付けられた」


 ようやく情熱的な印の更新を終えた緋奈さんは、ご満悦気に鼻を鳴らした。荒い息遣いには色っぽさがあり、どろどろに溶けた思考の中で『えろ』という感想がこぼれた。


「ごめんね。またやりすぎちゃった」

「ほんと……やりすぎです」


 緋奈さんが唇を押し付けた箇所がヒリヒリする。きっと真っ赤だ。一週間は消えないくらい、しっかりと跡が刻み込まれたことだろう。


 一度発情した緋奈さんがその欲望を解放したら最後、満足するまで止まらない。


 ……気を付けないとな。


 緋奈さんを暴走させたらいけない。それを肝に銘じておくも、果たして俺にそれが止められるかは別の話として。


「満足してくれました?」

「うん。大満足。これで安心だね」

「こんなことしなくても俺は緋奈さんのものなのに」

「でもまだ正式じゃないでしょ。なら、やっぱり保険は必要だと思うの」

「つまりキスマークこれは緋奈さんなりの首輪ってことですか?」


 とんとん、とキスマークが付けられた箇所を指でさせば、緋奈さんは「うーん」と数秒思案してから、ぱっと顔を明るくさせて肯定した。


「うん。そうだね。それは首輪だよ。しゅうくんが私から離れられないようにするための、大事な大事な首輪お守り


 紺碧の双眸そうぼうに慈愛を宿しながら細める緋奈さんに、俺はやれやれとため息を落として、


「じゃあ、ちゃんと付けておかないとですね」

「うん。ずっと更新し続けてあげるね」


 諦観した風に言った俺に、緋奈さんは嬉しそうに瞳を揺らしたのだった。

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