第33話  水族館デート➂――頬にリップをつけて

「ねぇねぇしゅうくん。せっかくイルカショー観るのに、前の席じゃなくていいの?」


 イルカショーが始まる少し前、後部座席に腰を下ろした緋奈さんが俺の服を引っ張りながらそう尋ねてきた。

 そんな彼女に俺はステージに入場し始めるイルカとキャストに目を配りながら答える。


「はい。座席が後ろの方が全体的にショーの様子とか観れますし、それに水飛沫みずしぶきもあまり飛んでこないので。まぁ、水槽パネルの高さ的に前でも問題なさそうですけど、どうしましょうか。今からでも前の席に移動しますか?」

「ううん。しゅうくんがこっちの方が観やすいっていうならそれが正しいんだよね。それに替えの服も持ってきてないから大人しく後頭部座ここ席にします」

「分かりました。あ、一応念の為、ミニタオル持ってきたので使ってください」

「わぁ。しゅうくんは気が利くねぇ」


 ありがとう、と淡い笑みを浮かべた緋奈さんは、渡したミニタオルを受け取って膝の上に乗せた。


 防水対策としては心許ないが、座席もなるべく後ろの方を取ったしまぁ濡れることはないだろうと判断して意識を切り替える。


 そうして二人で短い会話を重ねていると、会場にポップなミュージックが鳴り始めた。


「そろそろ始まりますよ」

「楽しみだねっ」

「ふふ。ですね」


 こどものようにはしゃぐ緋奈さんを見届けて、俺は薄く微笑みを浮かべる。今日の緋奈さんは終始上機嫌で、俺もそんな彼女の表情にほっと胸をでおろす。


 感慨に耽るのもつかの間、キャストのお姉さんが観客である俺たちに向かって挨拶を始めた。


「皆さんこんにちはー」

「「こんにちはー!」」


 休日は家族連れも多く、お姉さんの挨拶に頭部席の子どもたちが元気に返事していた。

 その微笑ましい光景を開幕の合図として、遂にイルカショーが始まった。


『ピィ、ピィ、ピィィン!』


 四頭のイルカたちが、お姉さんたちの挨拶に呼応するようにくるくると回る。


 序盤はお姉さんたちがイルカの泳ぎ方や生態について説明しながら、イルカたちは水中を好きに泳いだり背ビレを使って器用に立ったりしていた。


「あっはは。見てよしゅうくん。イルカ可愛いよ!」

「……ですね」


 緋奈さんはイルカに、俺はそんな緋奈さんを見つめながら呟く。


 こんなに間近ではしゃぐ緋奈さんを見るのは初めてだ。


 学校で見る彼女はいつも凛々しく、笑う時もこんな風に破顔はしない。淑やかに、蕾がひっそりと花開くように彼女は微笑を浮かべる。


 容姿や相貌、佇まいは常人とは逸脱している彼女も、こうして無邪気に何かを楽しんでいる姿は他の人と何ら変わらなかった。今、俺の隣に座っている彼女は、目の前のイルカショーを心の底から楽しんでいるごく普通の女の子なんだと、満面の笑みを咲かせる顔を見てそう強く実感させられる。


 これがいわゆるギャップ萌えなのだろうか、と思案している間にも、ショーはますます盛り上がりを魅せる。


「うわっ! すごーい! あんなに高く飛べるんだ⁉」

「あれはまだ序の口ですよ」

「そうなの⁉」

「えぇ。イルカのジャンプ力って、体重には関係なくて水面でどれだけ勢いをつけられるかでその高さが決まるんです」

「ふむふむ」


 二頭のイルカが背面ジャンプを決め込むのを眺めながら説明すると、緋奈さんはそんなイルカたちに視線を注ぎながらこくこくと頷いた。


「端的にいえば、人間でいう所の助走が大事ってことですね。勢いを付けた分だけ、空中に高く飛べるんです。水族館で飼育されているイルカのジャンプ力は水槽の関係でだいたい5~7メートルって感じですけど、壁がない海じゃ10メートル以上ジャンプできるらしいですよ」

「……イルカ博士」


 ぼそりと呟く緋奈さんに、俺は苦笑しながら首を振る。


「まさか。ただネットの知識を拾っただけです」

「それでもイルカの動きに合わせて説明できるなんてすごいよ。しかもキャストの人たちの説明に補足するような絶妙なタイミングで入れてくるんだから」


 脱帽したような眼差しを向けられ、俺は照れ隠しに苦笑いと頬をぽりぽり掻く。


 どれもこれも、緋奈さんに水族館という素敵な場所を楽しんでもらいたいという想いから得た知識だ。せいぜい素人に毛が生えた程度の知識。まだまだ浅薄であるそれらを、それでも彼女が喜んでくれるなら覚えた甲斐があったと、向けられる微笑みがそう思わせてくれて。


「ほら、そろそろイルカの大ジャンプやりますよ。見逃していいんですか?」

「絶対に見るわ!」

「ふふ。ならちゃんと前見ないと」


 胸に際限なく湧き上がる感情。それを隠すために緋奈さんの意識をイルカへ戻す。


 お姉さんの合図で、イルカが水槽を大きく旋回。大ジャンプの為の助走に入る。


 緋奈さんはそれに息を飲み、瞳いっぱいに好奇心と興奮を宿したそれを見つめていた。


 俺はこの胸を満たす温もりを、彼女への溢れて止まない恋慕を伝えるように、そっと左手を大ジャンプに挑むイルカに夢中の彼女の右手に乗せた。


「もうそろそろかなっ?」

「もうすぐですよ」


 ――気付かなくていい。俺を意識しなくていい。でも、少しだけ。アナタに触れさせてほしい。


 水飛沫が上がる。


 歓声が会場に湧く。


 隣でこの一瞬を心の底から楽しんでいる彼女が目を大きく見開いて驚く。


 俺の愛しい恋人の視線を釘付けにさせたイルカは、空高く、天を舞うようにジャンプ。


『お前のカノジョ、超可愛いな』

『だろ』


 くるくると宙を舞うイルカにそんなことを言われたような気がして、俺はたまらず苦笑いを浮かべたのだった――。


***


「あー。今日はすっごく楽しかったなー!」

「緋奈さんが満足してくれてよかったです。俺も楽しかったな」


 舞台はデート場所である水族館から既に遠く離れて、緋奈さんが住むマンション付近の道路へ。


「イルカショー見たのも小学生以来だな。ペンギンも可愛かったぁ」

「そもそも水族館に行くことが珍しいですもんね。近場だと気軽に足運べるけど」

「今度はまた別の水族館に行こっか」

「緋奈さんとなら何処へでも」

「言質取ったからね」


 にしし、と白い歯を魅せる緋奈さんに俺はこくりと頷く。


「あーあ。もっとしゅうくんと一緒にいたいなー」


 夕ご飯でも食べてく? と誘う緋奈さんに、俺はふるふると首を振った。


「すいません。母親に夕飯は食べると言ってしまったので」


 破ったら怒られます、と苦笑交じりに言えば、緋奈さんは「そっか」と残念そうに視線を落とした。


「今はまだ。でも、いつか夕飯をご馳走してください」


 男がこんなこと言うのは情けないと思ったが、緋奈さんは俺のお願いに嬉しそうに微笑みを浮かべた。


「うん。いつか私がしゅうくうに夕飯を振舞ってあげる。その時は腕によりをかけてあげるね」

「楽しみです」

「私もだよ」


 微笑みを交わし合うと、段々と今日の終わりが近づいてくる気配を感じて。


「あ、そうだ。別れる前に渡しておかないと」

「?」


 別れを惜しむ感傷が忘れていたその存在を思い出させて、俺は鞄の中に大切に仕舞っていたそれを取り出した。


「緋奈さん。手、出してください」

「う、うん」


 ぎこちなく頷いた緋奈さんが俺の言う通りに手を差し出した。俺は一つ深い息を吐くと、覚悟を決めて――


「今日のお礼です。受け取ってください」

「――これって」


 緊張で早鐘を打つ心臓に急かされながら、震える手で持つそれが、しゃらん、と音を立てて彼女の手のひらへと渡っていく。そして、俺から渡されたそれを見た瞬間、緋奈さんは小さく驚いた。


 言葉を失くしたまま、目を見開く彼女に、俺は顔を赤くしてプレゼントしたものを告げる。


「イルカのストラップです」


 でも、それはただのストラップじゃない。俺が緋奈に渡したそれは、

 

「それ、俺のやつと対になってるんです」

「――っ!」


 左手に持つ青いイルカのストラップを掲げれば、緋奈さんは紺碧の瞳を大きく、一際に大きく揺らした。


「緋奈さん。イルカショー観た時一番楽しそうにしてたから。それで、あげたら喜んでくれるかなって……いや、違うな」

「……え?」

「本当は、アナタとの繋がりが欲しかったんです。ほら、俺たちって休日はこうして一緒にいられますけど、学校だとそうはいかないじゃないですか。まぁ、それも元を辿れば俺が意気地なしのせいですけど」


 本音と苦笑が同時にこぼれ、


「だから、その、会えなくてもこれを見たら今日のことを思い出せるかなって」

「……」

「……やっぱり迷惑でしたかね?」


 さっきからずっと、緋奈さんが顔を俯かせているせいでどうしても不安を覚えてしまう。


 せめて今、彼女がどんな顔をしているのか知りたい。及び腰のまま顔を覗き込もうとした――その、瞬間だった。


「しゅうくんのそういう所、本当に好きだよ」

「うわっ⁉ あ、緋奈さん⁉」


 万感の想いを言の葉に乗せながら、俺に抱きついてきた。

 咄嗟とっさの出来事に狼狽する俺に、緋奈さんは胸に抑えきれない想いを吐露するように熱い息をこぼした。


「迷惑なんかじゃないよ。嬉しい。すごく、すごく嬉しい」

「――っ! そう、ですか。緋奈さんが喜んでくれるなら、贈って正解でした」

「大切にする。一生、大切にするよ」

「一生て、大袈裟ですよ」

「大袈裟じゃない。それくらい嬉しいの。分かって」

「は、はい」


 まさかストラップ一つでこんなに喜んでもらえるとは思わず、俺は照れよりも驚愕の方が勝ってしまった。


「ごめん。今、しゅうくんに顔見せられない」


 もう少しこのままでいさせて、と緋奈さんは俺の胸に顔を埋めながら懇願してくる。


「必死に抑えようとしてるのに、でもダメ。ニヤニヤが止まらないの」

「あはは。いいですよ。今は奇跡的に人も通ってませんし。緋奈さんが落ち着くまでずっと付き合います。死ぬほど恥ずかしいけど」

「私は死ぬほど嬉しいわ」


 緋奈さんは俺をさらに強く俺を抱きしめたあと、埋める顔から潤んだ瞳だけを覗かせた。

 俗に言う上目遣いで見つめてくる緋奈さんは、どこかもの足りないとでも言いたげな声音で俺に問いかけた。


「しゅうくんは抱きしめ返してくれないんだ?」

「ごめんなさい。今はまだ、俺たちの関係は曖昧だから。もっとお互いの理解が深まるまで、それまではまだ踏み越えちゃいけない一線だと思ってます」

「でも、学校では抱きしめてくれたよね?」

「あれはっ……緋奈さんが脅してきたからでしょ」

「なら今回も脅せば抱きしめてくれる?」

「今回は答えてほしい質問がないからダメです」

「しゅうくんのケチ」

「どうののしってもらっても結構です。俺はそう簡単に欲望に負けたくないんです」

「むぅ。潔く負けちゃえばいいのに」

「負けたら男としての面子丸潰れになるんで我慢してください」

「しょーがない。しゅうくんのプレゼントに免じて、今回は見逃してあげる」

「ありがとうございます」


 男なら、ここで彼女を抱きしめ返すべきなのだろう。けれど、俺と緋奈さんはまだ正式な恋人同士ではない。仮という関係性である以上、ある程度の自制はしなければならない。


 けれど、やはり葛藤というものは生まれるもので。


『あぁ、めっちゃ抱きしめてぇ』


 もうこのまま付き合ってしまいたい、何なら強引にキスまでしたい。けれど、それは出来ない。彼女を抱きしめられないもどかしさが、こんなにも窮屈きゅうくつでもどかしいとは。


 揺らぐ感情に歯噛みしているとようやく緋奈さんが離れて、すっきりとした顔を見せた。


 その顔の目尻にほんのりと紅い痕があとみえる。きっと、それは悲しみなどではなく、溢れ出した喜びの残滓ざんしなのだろうと俺は思いたかった。


「はぁ。ありがとうしゅうくん。これ大切にするね」

「こちらこそ。今日のデート。最高に楽しかったです」


 今日の思い出と共に、とピンクのイルカを掲げながら微笑む緋奈さんに俺も青いイルカを掲げながら微笑む。


「それじゃあ、俺はそろそろ」

「あ、待って。実は私からもしゅうくんにあげたいものがあるの」

「緋奈さんもですか?」


 きびすを返そうとした時、緋奈さんにそう言われて呼び止められた。

 まさか緋奈さんも俺に何か用意してくれていたとは思いもよらず、驚きと困惑が同時に顔に浮かび上がった。


「ちょっと近くに寄ってくれる?」

「……はぁ」


 眉根を寄せながらも緋奈さんの指示通りに一歩距離を詰めた――その、瞬間だった。


「――ちゅ」

「――っ!」


 不意に、頬に柔らかな感触が伝わった。虚を突かれたように目を見開く俺に、一秒にも満たないそれを贈った緋奈さんは紺碧に双眸に愛慕を、口許はご満悦げな三日月を描いて、


「唇は正式に付き合ってから。だけど、ほっぺはダメなんて一言も言ってないでしょ?」

「~~~~っ!」


 俺は、その言葉でようやく緋奈さんにされたことに理解した。


『間違いじゃない! 間違いなんかじゃ、ない! ――俺は、今、緋奈さんに頬にキスをされたんだ!』


 まだ、わずかに頬に残る柔らかな唇の感触。それを確かめるように指で触れると、緋奈さんの淡桜色の唇に塗られたリップの濡れ感が指先から全身へと伝った。


「このキスはプレゼントへの感謝と今日一日私を楽しませてくれたお礼」


 凝然として、口を金魚のようにぱくぱくさせる俺に、緋奈さんは紺碧の双眸に慈愛を宿しながら細め、


「私も、今日は最高のデートだったよ。しゅうくん」


こうして、最後に特大のサプライズを緋奈さんから贈られながら、水族館デートは幕を閉じたのだった。





【あとがき】

昨日は4名の読者様に★レビューをつけていただきました。

いつもご応援誠にありがとうございます。

今話は仕事終わってから改稿したんで脱字とか変換ミス多い気がする。。。

なにが師走だぁ! 俺はクリスマスも年末も仕事だし原稿だよぉ!(血涙)

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