第29話  可愛くてずるい

「じゃあまたね、しゅう!」

「おーう。気ぃ付けて帰れよー」


 先生か、と柚葉は笑いながら大きく手を振った。それに適当に手を振り返せば、柚葉は満足げな顔をして教室を去った。


「さて、俺も帰るか。神楽……はもう帰ったか」


 既にもぬけの殻状態の神楽の席を見て、俺はリュックを背負った。神楽はおそらく今日はカノジョと放課後デートの日なのだろう。中学生と付き合うのは色々と大変だろうに。

 そんなことを考えながら教室を出て、そしてしばらく廊下を歩いていると、


「どわあっ⁉」


 不意に手をつかまれてビクッと肩を震わせる。何事かと慌てふためくそんな俺に構わず、俺の手を掴んだ華奢きゃしゃな手は、そのまま廊下を駆け抜け始めた。


「え、ちょ⁉ 待ってだ、れ……緋奈さん⁉」


 見覚えのある黒髪にそう問いかけると、その女性――緋奈さんは、にししと笑いながら振り返って、


「正解っ!」

「なんで急に走って……てかどこに行く気ですか⁉」

「それはなーいしょ」


 声音を弾ませる緋奈さんに手を引かれて走ること数分。彼女に半ば強制的に連れてこられたのは、空き教室だった。


「なんでいきなりこんなとこに……うおっ⁉」

「えへへ。しゅうくんの匂いだぁ」


 困惑する俺に更なる驚愕きょうがくの出来事が起きる。俺を空き教室に招いた緋奈さんが、何の脈絡もなく抱きついてきたのだ。


「ちょっと! 学校でこんなことダメですよ!」

「大丈夫だよ。この為にわざわざ人が来ない空き教室を選んだんだから」


 確信犯かよ。


「だからって、もし誰か来たらどうするんですか?」

「その時は適当に誤魔化すわよ」

「誤魔化せますかこの状況?」

「いざとなったら物理的に記憶消すわ」

「急に怖いこと言わないでくださいよ」


 普段の穏やかな緋奈さんからは想像できないバイオレンスな言葉が出てきて思わず背筋が震えた。

 俺は依然として飲み込めないこの状況を、声に乗せてたずねた。


「……でも、急にどうしたんですか?」

「その質問に答えるにはまず私を抱きしめ返しましょう」

「……うっ」


 ぐりぐりと頭をこすりつけてくる緋奈さんに俺はたじろぐ。


 本当に抱きしめ返していいのかと逡巡しゅんじゅんしていると、緋奈さんがやや強引に俺の両手を掴んでそのまま背中へと回させた。


 嘆息を吐き、仕方なくそっと細い背中に手を添えると、満足げな吐息が胸元で聞こえた。


「これで質問に答えてくれますよね」


 そう尋ねると、緋奈さんはまだ胸に顔をうずめたまま、こくりと頷いてくれた。


「急に俺を空き教室に連れ出した理由はなんです?」

「しゅうくんとイチャイチャしたかった」

「それだけですか⁉」


 驚くと、緋奈さんはぷくぅと膨らまた頬を勢いよく上げて、


「それだけのことじゃないわよ! 仮でも恋人同士なのに、学校で満足に会えないどころか話せないのってすごくストレス溜まるんだから!」

「……言われてみればたしかに、今週は一緒にお昼食べてませんでしたね」

「原因は主に私だけどね!」

「ぐふっ」


 情緒不安定な緋奈さんが俺の胸にまた勢いよく顔を埋めた。それからぐりぐり擦りつけてくる。

 どうやら、俺と一緒の時間を過ごせなかったことにストレスを溜めていたらしい。

 なんとも可愛い理由に思わず頬を緩めてしまいながら、


「ああもう。せっかくの綺麗な髪がぐしゃぐしゃになっちゃいますよ」

「じゃあしゅうくんが直して」

「……幼児退行してる」


 ワガママにも似たお願いに苦笑がこぼれる。それから俺はお姫様のご要望通り、手櫛てぐしに申し訳なさを覚えながらもくしゃくしゃになった髪をき始めた。


「もしかして、寂しかったですか?」

「……(こくり)」


 恐る恐るうかがうと、緋奈さんは無言のままこくりと頷いた。


「明日になればまたしゅうくんと一緒にいられるって分かってるけど、我慢できなかったわ」


 緋奈さんは俺に視線だけくれて、


「しゅうくんはどうなの?」

「そんなの緋奈さんと同じに決まってますよ」

「本当?」

「嘘なんか吐きません。俺だって、本当は学校で緋奈さんともっと話したりこんな事したいです。でもまだアナタに相応しい男にはなれてないから、その気持ち全部我慢してるんです」

「我慢なんてしなくていいのに」


 拗ねた風に呟く緋奈さん。ごめんなさい、と胸中で謝りながら、


「でもこればかりは譲れません。緋奈さんだけじゃなくて他の人からも認められないと、きっと緋奈さんに嫌な思いをさせてしまう」

「…………」


 艶やかな黒髪を撫でながら胸の内に秘めた想いを吐露すれば、緋奈さんは紺碧こんぺき双眸そうぼうを揺らして沈黙した。


 静寂の時間が数秒続いたあと、緋奈さんは蚊の鳴くような声で呟いた。


「私も、同じよ」

「?」

「私も、しゅうくんと一緒に居る為に他の人たちから認められないといけない」

「緋奈さんはもう既にたくさんの人たちから認められてるじゃないですか」


 眉尻を下げながらそう言えば、緋奈さんはふるふると首を振って、


「ううん。本当に認めてもらいたい人たちからはまだ認められていないから」


 俺の家族のことだろうか。母さんたちならきっと緋奈さんのことすごく気に入ると思うんだけど。


 緋奈さんが認められたい相手がいたことに驚きながら、俺は胸元に埋まる彼女に向かってこう囁いた。


「なら、お互い頑張らないとですね」

「うん。頑張らないとだね」


 お互いに認めてもらいたい人たちがいる。その人たちに認めてもらう為に、一緒に努力していく。それが、なんだか一緒に苦難を乗り越えて行くみたいで。


「「ふふ」」


 同じ苦難に直面したことがまさかこんなに嬉しいとは思わず、つい笑みがこぼれてしまった。


「キミといると、やっぱり落ち着くな」

「ならもう離しても大丈夫そうですか?」


 軽く背中に回していた手をすこし離すと、むくりと顔を上げた緋奈さんがうるんだ瞳で俺をにらんできた。そして、こんな悪戯な問いかけを投げてくる。


「しゅうくんはもういいの? 私と学校でイチャイチャできる貴重な機会をすぐに止めちゃって?」

「その問いかけはずるいですっ」


 そんなこと言われたら、簡単には止められなくなってしまう。


 彼女の甘い香りと子どものようにおねだりしてくる瞳。制服越しからでも伝わる華奢ながらも柔らかく、抱き心地がいい身体と温もり。


「制服で抱き合うっていうのもすごく背徳的だよね」

「――っ」


 まるで俺の心を読んだかのように語り掛けた緋奈さんは、妖艶な微笑を浮かべた。

 すっげぇ心臓ドクドクいってる。そしてたぶん、それは緋奈さんに聞かれている。

 甘い。甘すぎて、吐き気すら覚える。


「どうですか? 私の抱き心地は?」

「そんなの言わせないでください」


 顔を赤くして、そっぽを向いて逃げる。けれど、意地悪な先輩は幼気な後輩を逃がしてはくれなくて。


「だーめ。ちゃんと言って?」

「――っ」


 甘い声。おねだりするような声音に威圧感なんてない。それなのに、不思議と逆らえない強制力があって。


「……めっちゃ最高です」

「ふふ。ならもっと堪能しちゃおうよ。ここなら誰も来ない。今なら私を抱きしめ放題だよ」

「破壊力抜群すぎるだろぉ」


 悶絶する俺を見て、緋奈さんは嬉しそうにころころと喉を鳴らす。


「さ、どうしますかしゅうくん。こんなに抱き心地がいい女と今すぐ離れますか? それとも、もっと私に甘えますか?」

「ずるいなぁ、緋奈さんは」

「あはは。そうだよ。私ってすごくずるいの。しゅうくんに退路なんて用意してあげない悪い女なんだよ」


 そう言って、緋奈さんは元々なかった俺との距離をさらに詰めて、密着させてくる。空気の入る隙間さえも許さないほど、ぴったりと。


 やばい。本当に、やばい。


 これは、欲求に抗えないなぁ。


 あぁ、なんて半端なやつ。


 情けなさを覚えながらも誘惑には抗えず、結局離そうとしていた緋奈さんの背中に手を戻して、あまつさえぎゅっと寄せてしまった。理性ではなく、本能がそうさせた。


 そんな情けない男の決断を、眼前の女性は嬉しそうに口許を綻ばせる。


「そうだよね。もっと私とこうしてたいよね」

「よかったですね。完敗ですよ」


 甘い香りが容易く俺というザコ虫を捕まえてご満悦気に微笑むお姫様に、俺は嘆息を吐くと、


「なら今日はもう少しだけ、緋奈さんとこうしてたいです」

「うん。私も、しゅうくんの体温もっと感じたい」

「……可愛い」


 あぁ、溺れていく。緋奈藍李という女性に、身も心も懐柔かいじゅうされていく。


 抱きしめる彼女の柔らかさと愛しさを感じながら、俺はしばらくこの甘い時間を堪能するのだった。


「……大好き」





【あとがき】

最後の「……大好き」は緋奈パイセンからこぼれた言葉です。書いてて尊死したww

あ、ちなみにこれを甘さレベルで表したら、レベルはまだ【3】とかそれくらいです。

これからもっと藍李の可愛いシーンがあります。楽しみにしてろよなっ!

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