第8話  弾む会話と腹の虫

 少し緊張する手でティーカップをリビングに運んでいると、緋奈先輩が誰かと電話していた。


「もうっ。約束忘れるなんてありえないっ。雅日くんにも後でちゃんと謝りなさいね!」

『うえーん! 分かったよぉ。しゅうにも後で謝るから、お願いだから許してぇ』

「雅日くんに謝ったら今日の失態は水に流してあげる」

『おぉ。女神よぉ~』

「調子に乗らないっ!」

『ごめーん!』


 俺の名前が挙げられた事とこの怒り方的におそらく通話相手は姉ちゃんだろう。


 それから緋奈先輩は「うん」とか「分かった」とか「それじゃあ学校で」と短い会話の応酬を終えて、スマホを耳元から外すと肩を落とした。


「電話してた相手って姉ちゃんですか?」

「うん。あの子、やっぱり今日の約束忘れてたみたい」

「もうなんて言ったらいいのか。ほんとすいません」


 謝ることしかできない俺に、先輩ももはや苦笑しか浮かべなかった。


「雅日くんも苦労してるでしょう」

「一緒にいる時間が長いとあの杜撰ずさんさも慣れるものですよ」

「それは果たしてフォローになってるのかしら」


 姉に弟が振り回されるのは生まれた瞬間に決まっているのでそこは今更だ。


「それよりどうぞ。やっぱり先輩ほど上手く淹れられませんでした」

「ううん。その気持ちだけで嬉しいわ。有難く頂きます」


 先輩の手元に紅茶を注いだティーカップを置くと、一輪の華が咲いたかと錯覚するほどの可憐な笑みが咲いた。


 反射的に視線を逸らしてしまう俺を尻目に、先輩はさっそくティーカップに口をつけると、


「おいし」


 小さく零れた感想。

 それだけでほっと安堵してしまう自分に驚いてしまう。

 俺はなんて単純なんだろうか。呆れながらも、でも浮かれずにはいられなくて。


「お菓子もあるので、どうぞ食べてください」

「キミはお姉さんと違って本当に律儀で気が利くね。あ、そうだ。お菓子で思い出した。私が焼いたクッキーはどうだったかしら? 口に合わなかったかな?」

「そんなまさかっ! すごく美味しかったです!」


 慌てて感想を伝えると、先輩はほっと安堵したように胸を撫でおろした。


「ならよかった。実はずっと気になってたんだ。もしかしたら失敗しちゃったんじゃないかって」

「あんなに美味しいクッキー食べたの初めてでした!」

「そんな大げさよ」

「いや本当ですよ。甘さも丁度よくてサクサクでしたし、姉ちゃんが作るやつとは大違いでした」

「へぇ。真雪もお菓子作りするんだ」


 意外、と呟く先輩に、俺は頬を引きつらせながらこくりと頷いた。


「バレタインの時とかハロウィンの時とかたまに友達へのプレゼント用に作る時があるんです。でも、大半は失敗して、結局市販のものになるんですけど」

「そういえば去年真雪にバレンタインのチョコもらったな。雅日くんの言う通り市販のものだったわ」


 と、先輩はそこであることに気付く。


「え、もしかしてその失敗作って……」

「はい。俺と親父が主に処理を行ってます」

「……そう」


 俺は瞳からハイライトを消して答えると、先輩は気まずそうに視線を逸らした。


 姉ちゃんは意気込みだけは立派だが、それが結果に結びつくことは少ない。失敗してもめげないのが姉ちゃんの美徳だが、それに巻き込まれた方としては毎度ハラハラドキドキさせられるのだ。料理やお菓子作りの時なんかは胃がキリキリ痛み始める。


「今度真雪に料理教えてあげるわね。そうすれば、キミの負担も少しは減ると思うから」

「嬉しい提案ですが止めておいた方が得策だと思います。母さんが付きっ切りで教えて、どうにか人が食えるレベルなので」

「調理実習で一緒にご飯を作った時はそうでもなかったのよ⁉」

「切る、盛る、は問題ないんです。味付けがダメなんです」

「たしかにあの時真雪は切ることを中心にやってたわね。味付けとかは主に私がやってたような気がする」

「はは。だから皆さん無事だったんですよ。姉ちゃんが味付けしてたら死人……まではいかずとも班員洩れなく保健室送りだったと思いますよ」

「そんなに酷いの⁉」


 死んだ目の俺に緋奈先輩は目を白黒させる。


「はぁ。忠告ありがとう雅日くん。今度から真雪と一緒に料理する時は注意して見ることにするわ」

「その方が身のためですね」

「病院送りは私も御免だからね」


 先輩とまたこうして話せるなんて夢みたいだ。それに意外にも話が弾んでいる。半分以上姉ちゃんの失態談だけど。


 浮ついた気持ちにすっかり緊張が解けるのと同時、


 ――ぐぅぅぅぅ。

「あ」


 不意にそれまで大人しかったお腹が急に鳴った。

 羞恥心でみるみる顔を赤く染めていく俺を、緋奈先輩は目をぱちぱちと瞬かせながら見つめていて。


「いや、これは違くて……」

「もしかして、何も食べてないの?」

「……お恥ずかしながら」


 耳まで赤くなった顔を両手で隠しながらカミングアウトすれば、先輩は特に気にする様子もなくむしろおかしそうに笑ってくれた。


「そういえばもうお昼時だもんね。お腹空くのも無理ないわよ」

「あはは。さっとご飯食べようと思ったんですけど。生憎家に何もなくて」

「雅日くんは真雪と違って料理できるの?」

「姉よりは上手くできますけど、味は大したものじゃないです」

「ふ~ん。そうなんだね。それじゃあ、今日のお昼はコンビニ?」

「そのつもりです。まぁ、最悪お菓子で済ませるのもアリですけど」

「それは健康に悪いわよ」


 育ち盛りなんだからちゃんと食べないとダメ、と叱られてしまった。


 全くもってその通りで反論できずに悄然しょうぜんとする俺に、先輩はふむ、と顎に手を置いて何やら思案している様子。


「ねぇ。雅日くん。よかったら冷蔵庫の中見てもいい?」

「え? それはべつに構いませんけど、でもどうしてです?」

「んー。ちょっとね」


 先輩ははぐらかすようにウィンクして、椅子から立ち上がるとそのまま冷蔵庫へ向かった。

 俺も慌ててその後を追って、先輩と冷蔵庫の中身を交互に見る。


「買い出し前の冷蔵庫なんで本当に何もないですよ?」

「そうみたいね。……でも使えるものはありそう」

「?」


 小さな呟きに首を捻る間にも先輩は冷凍庫を開けて「ご飯もあるのね」と確認していた。


 その行動がまるで、今から何か作れるものがあるのではないかと思案しているように見えて。


 俺がその考えに辿り着いたのとほぼ同時、冷蔵庫の確認を終えた緋奈先輩が「よし」と呟きながらこちらに振り返って。


「雅日くん。お腹空いてるのよね?」

「お恥ずかしながら」

「あはは。べつに恥ずかしいことじゃないよ。生理現象だもん」


 恥らいながら頷くと、先輩は「それじゃあ」と少し嬉しそうに口許を緩めながら――こんな提案を投げかけてきた。


「よかったらお昼ご飯作ってあげるけど、どうかな?」

「…………」


 その問いかけに答えるのに数秒時間が掛かった。

 脳が緋奈先輩の言葉の処理をし切れず、頭の中で何度も反復する。


 ゴハン、ツクル、ダレガ、ダレノタメニ?


 ぐるぐる。ぐるぐると、長い長い逡巡を経て、


「いやいや! 流石に悪いです! 先輩にご飯作らせるなんて!」

「嫌ならこの提案はなかったことにするわよ。おこがましいことしちゃってごめんね」

「そんな謝らないでください。えぇ。どうしよ」


 しばし葛藤の末、


「……その、本音を言っても、いいんですか?」

「もちろん」


 戸惑う俺とは裏腹に緋奈先輩はにこりと笑った。


「なら、その……先輩のご飯、食べてみたい、です」

「ふふ。素直でよろしい」


 欲に負けてお願いしてしまった。そんな俺を、先輩は嬉しそうに双眸を細めて見つめてくる。

 それから緋奈先輩は「よしっ」と短く呼気を吐くと、


「それじゃあ、気合入れて作ってあげるから、雅日くんは楽しみにしててね」

「……はい」


 男を一発KOするには十分過ぎるほどの可愛いウィンクを決めて、緋奈先輩は裾を上げた。


 こうして、俺は世の男子が血の涙を流さずにはいられない、緋奈先輩の手料理を試食できる権利を奇跡的に手に入れたのだった。


 ……俺、恨まれて刺されないよな?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る