第2話  お見舞いに行って欲しいの


「――はあ⁉」


 とある日の放課後。まだちらほらとクラスメイトが残る教室で俺は素っ頓狂な声を上げた。


 周囲がその声に反応して一斉に俺に振り返る。それに気まずさを覚えながらも、俺は教室の隅で身をかがめて小声で通話を続けた。


緋奈あかな先輩の見舞いに行けって、どういうことだよ⁉」

『そのままの意味だよん』

「だよんじゃない!」


 呑気に語尾を弾ませる通話相手――実姉である真雪まゆ姉に、俺は声を荒げる。


 依然として困惑する俺に、唐突に電話を掛けてきた挙句に意味不明な命令まで出してきた姉はこう告げた。


『さっきも言ったけど、藍李あいり、今日熱出したみたいで学校休んだの』

「それはもう聞いた」

『それで放課後お見舞いに行こうかなと思ったんだけど、急に生徒会の用事が入っちゃってさ。行けなくなっちゃったんだよ』

「……それで?」

『それでしゅうに私の代わりに見舞いに行ってもらおうと思い、こうして電話したというわけさっ』

「なんでだよ⁉」


 盛大にツッコんだ。


「だったら俺じゃなくて姉ちゃんと同じクラスの人に代りに行ってもらえば済む話だろ! なんでそこで俺が出てくるんだ。人選が意味不明すぎる!」

『生憎クラスの中で藍李のお見舞いを安心して任せられる友達が今日は皆もう部活なり遊びに行くなりで出払っててね~。だからといってクラスの男子にお願いなんて到底できないし』

「俺も男だっ」

『藍李になんかしたら例え愛する弟でも処刑するよ?』

「し、しねぇよそんなこと」


 珍しく姉のドスの声を聞いて、不覚にも狼狽えてしまった。

 一瞬流れた不穏な空気はしかしすぐに霧散し、


『クラスに私の親友の看病を任せられるような信頼できる人がいないとなったら、もう他に信用できるのは我が弟だけに絞られるわけよ』

「だからって……俺、緋奈先輩とまともに話したことないんだぞ」

『でも何度も顔は合わせてるでしょ』

「それは、そうだけど」


 たまに緋奈先輩は俺の家に遊びに来る。とはいっても俺に用事があるわけではなく、姉ちゃんと遊ぶ為に来ているわけで。


 姉の言う通り確かに緋奈先輩とはそれなりに面識はある。けれど交流はない。家の中で遭遇しても軽く会釈する程度。


「ほぼ赤の他人が見舞いに来るとか、そんなの控えめにいって地獄だろ」

『大丈夫大丈夫。しゅうは私の弟だから。藍李なら家に上がらせてくれるって』

「短絡的過ぎるだろ」


 この姉。実に大雑把である。


 自分の弟だから安全だなんてよく言い切れるものだ。俺だって男。なんなら思春期真っ只中の少年である。ならば、当然下心だってあるに決まっている。


 しかも相手は病人。弱っているところを無理矢理襲う可能性だって大いにありうるのだ。しかも相手は学校一の美女と名高い先輩。据え膳食わぬは男の恥ということわざがあるように、犯罪覚悟で至高の果実を味わえるのなら噛り付く覚悟はあ――そんな覚悟、ある訳がなかった。


 相手が病人で、それも苦しんでいるのがあの緋奈先輩なら、そんなクズな真似俺に到底できるはずがなかった。つか、元よりそんな度胸もない。


「……はぁ。姉ちゃんは本当に罪な女だ」

『ふふっ。そうだぞ。しゅうのお姉ちゃんは罪作りな女なんだぞ』

「自分で言うな」


 スマホ越しに姉ちゃんが俺に向かって投げキッスしてるのが分かった。


 姉ちゃんは俺を信用している――いや、というより判っているのだ。俺がそんな危険を冒すほど単細胞ではないことを。故に、俺に緋奈先輩の看病に行かせるという白羽の矢を立てたのだろう。


 他の男なら俺が懸念したことを本当に実行する馬鹿野郎がいるかもしれない。好奇心というものは理性で縛りつけることはできても、抑えきれるわけではないのだ。目の前にあるのが魅力的であればあるほど人は目が眩み、手を伸ばさずにはいられなくなる。


「人間は欲望には勝てないからな。よかったな。姉ちゃんが信用してる相手がその欲望に抗える人で」

『手出したら処刑するって言ったでしょ。しゅうのこと信用してないわけじゃないけど、身内ならある程度制限を掛けられると思って』

「英断だよ」

『へっへー。そうだろ~』


 ちょっと訂正。この姉、大雑把に見えて意外と狡猾こうかつだった。

 俺は姉の容赦なさに思わず苦笑してしまいながら、一つ大きな息を吐くと。


「分かったよ。緋奈先輩の見舞いに行けばいいんだろ」

『うん。行ってあげて』

「でも緋奈先輩の住んでる所知らないから住所は教えてくれよ」

『りょーかい。電話切ったら藍李が住んでるマンションの画像スクショして送るよ』

「ん。ありがと」


 短くお礼を伝えれば、姉ちゃんは『こっちこそワガママに付き合ってくれてありがと』と感謝が返ってきた。


『ヤバ。そろそろ生徒会行かないと遅刻する! それじゃあ藍李のことよろしくね!』

「はいはい。姉ちゃんも気を付けろよな」


 最後に元気な姉に向かって嘆息を吐いて電話を切った。そして、それから数分後にメッセージアプリ――レインのメッセージ画面に『これ、藍李のマンション!』、『214号室ね!』のメッセージとマンションの画像、それとマンション名が一斉に送られてきた。


「はぁ。本当に今から行くのか」


 後悔というよりかは、躊躇ためらいか。

 実に勇気のいることである。

 けれど姉に「行く」と返事してしまったからには、今更引き返せない。


「とりあえずコンビニに寄ろ」


 かくして、俺は急遽、憧れの先輩の見舞いに行くこととなったのだった。

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