Behind
「…………ん、朝か」
スマホからアラームが鳴る。その音と振動に淀んだ意識から浮上したセイジは、枕元に置いていた携帯の画面を開いてやかましい音楽を止めた。
時刻は午前十一時。既に窓の外は明るく、カーテンの隙間から日光が差している。上半身を起こして横を見ると、もうひとつのベッドで寝息を立てて目を閉じるセラの姿が目に入る。
セイジは音を立てないようにベッドから降りて、リュックの中にしまってあるズボンと服を取り出した。手早く着替え、その足で洗面所へ向かう。
鏡に映る自分の髪の毛の酷さに舌打ちをして、軽く水で濡らして櫛とドライヤーで軽く整えた。
顔を洗ってタオルで拭いていると、洗面所の扉が開かれた。そこには眠たげな表情をしているセラが立っている。どうやらドライヤーの駆動音で目を覚ましたらしい。
「おは」
「うん、おはよう」
手を挙げて挨拶を交わした二人は、何を言うでもなく位置を入れ替えた。セイジは部屋に戻り、セラは鏡の前に立つ。背から聞こえてくる水の音と共に、彼は机上に置かれたタバコを手に取った。
昨日、海鮮料理で腹拵えを済ませたセイジとセラは店のすぐ近くに立っていたビジネスホテルに宿泊した。ネットカフェにでも行こうかと考えていた彼であるが、歩いて三分もかからない距離にあった上に今では珍しい室内での喫煙が可能なホテルであったため、迷うことなく入ったのである。
年頃の男女二人がホテルに入っていくその姿は、傍からすればさも「今からヤります」と言わんばかりに見えただろうが、美波での想定外なハプニングへの気疲れや満腹感もあり、二人は部屋に着くなり風呂へ入るとあっという間に就寝していた。
というか、そもそも二人の関係にそのようなロマンスはない。少なくとも今はお互いにその気がなかった。そんな浮ついたことを考える余力があるなら、どうやって伊豆諸島まで逃げようかを試行錯誤する方が遥かに合理的であると思っていたのもある。
ただ、昨夜はふかふかなベッドの存在感と眠気の誘惑に負けて、伊豆諸島への道のりを調べる間もなく寝てしまったのだが。
「…………さーて、今日はどうすっかな」
さっさと名古屋を出たいところではある。最低でも愛知県外には出ておくべきだ。しかし連中の動向が分からない以上、下手に無闇矢鱈と動くのも得策では無い気がした。
意気揚々と東名高速をバイクでかっ飛ばした先で待ち構えているかもしれないことを考えると、それこそ飛行機や新幹線など別の交通手段も念頭に置いておく必要があった。
紫煙を燻らせて、セイジはぐぐぐっと固まった腕を伸ばす。寝起きな事もあって頭が上手く回らない。気分転換にテレビでも見ようかとリモコンのボタンを押した。
『──昨日、午後六時頃。愛知県南知多町美波地区の路上で、足から血を流して倒れている男性が発見されました。付近の橋の下でも意識不明の重体で倒れている別の男性も発見されており、また、現場には空薬莢が落ちていたことから、愛知県警半田警察署は──』
「……ニュースなっとるがやぁ」
瞠目したセイジは、思わずポロッと灰皿の上にタバコを落とした。見慣れた綺麗な女性アナが報じているそのセンセーショナルなニュースの内容は、昨日彼も正しく当事者として関わっていた出来事についてである。
銃撃した相手を放置してきたのだ。警察に知られるのは避けようもないが、いざこうしてテレビで流されるとセイジは頭を抱えたくなった。
不幸中の幸いというべきか、彼が誤射した相手は死んではいないようだった。もう一人の自分に金を渡してきた男も病院に搬送されてすぐに意識を取り戻したようで、我が敵ながらセイジは胸を撫で下ろした。
いくら人に暴力に振るうことを躊躇わないセイジであっても、流石に殺人犯にはなりたくない。アナウンサー曰く、あの二人は警察の事情聴取に対して黙秘を続けているようだ。
とういうことは、警察には自分が加害者であるということは知られていないと見てもいい。あのとき使った拳銃は扱いに困って道中海に投げ捨てたので、すぐには見つかることもないはずだ。
加えて、報道ではセラの存在など一切触れらず終わったし、彼女に関しては一先ず安心である。
しかし、いよいよマズイことになってきた。あの連中だけなら何とかやれる気もしなくないが、警察にも追われるとなると格段と逃亡の難易度は高まる。
本気になった警察組織を相手に逃げ切ろうと驕り高ぶるほど、セイジは無鉄砲でも無知でもない。むしろその怖さを身を持って経験している側の人間である。
いつだったか闇バイトに手を染めた元カノが、空き巣に失敗して警察に追われ、セイジの家に逃げて来ようとしたことがあった。
巻き込まれて自分も捕まるのは流石に嫌だったので、彼女が家に来ようとしていると人伝てに聞いたセイジは、仲間たちを誘って木曽三川近くの遊園地まで早朝から遊びに出かけた。
あまり彼も他人のことをとやかく言えるタチではないが、老人の家に金目の物を盗みに入るような人間と付き合うのはゴメンである。しかし夜に帰ると、玄関前で青ざめた顔で座る彼女が居た。
その日は仕方なく部屋に泊めさせたが、翌日の朝には警察のお迎えがあった。事件発生から一週間にも満たない時間で逮捕出来るとは、とセイジはえらく驚いた覚えがある。
ちなみに余談であるが、強盗致傷の容疑であえなくお縄についた彼女は、最終的に少年院にぶち込まれたらしい。なぜ付き合おうと思ったのかも今では分からない、そんな馬鹿な女だった。
兎にも角にも、警察に付け回されることは勘弁願いたいセイジは今日の予定を脳内で組み立てた。病院に運ばれたあの二人にしたって後ろめたいことはいくらでもあるだろうから、自分たちの存在を明かすことはないと思う。
銃規制の厳しい日本であんな
セイジとセラの存在を明かすということは、自分たちが犯罪組織の人間であると警察に自己紹介するようなものである。故にその点については心配していないが、やはり不安は拭えない。
──今すぐにでも名古屋を出るべきか?
連中の動向が分からない以上、あまり外に出たくないというのが彼の本音だ。ヤクザもそうだが、ああいう類の輩は何をしてくるか分からない。白昼堂々、街中でいきなり銃撃をしてきても不思議では無かった。
特に名古屋は日本屈指の車社会だ。交通量も人の数も、美波とは比較にならないほど多い。なりふり構わず襲われた場合、セラや自分はともかく、他の何の関係もない一般人が巻き込まれる可能性もある。彼とて、それは避けたかった。
「…………くそ、こんがらがってきた」
学校の勉強は出来ないが、地頭は良い。頭の回転の速さも即断即決が出来る精神性も、同世代の者と比較したらセイジはかなり優秀な青年だ。
だからこそ、ありとあらゆる可能性と選択肢が頭に浮かんでは消えゆく。これはダメだ、あれもダメだというような本能と理性のせめぎ合いに、彼は頭痛さえ覚え始めた。
ふと横を見ると、いつの間にかセラがベッドに腰掛けていた。寝癖を直してきたらしいのに、いつも妙な存在感を示しているそのアホ毛は変わらず揺れている。
「今日はどうするの?」
「…………とりあえず、今日は別の場所で寝るぞ。いくら昨日の
「そう……わかった」
あくまでとりあえずだが、場所を移すことにセイジは決めた。彼らがどんな手段を用いて自分たちを追いかけるかは知る由もないが、同じホテルに泊まり続けているよりかは余程良い。
幸い、この名古屋は何れの区部も宿泊施設は多い。特に二人が現在居るのは中村区という、近年の名古屋でもかなり目覚しい発展を遂げているエリアだ。ホテルやネカフェなんて腐るほどある。
今日明日は名古屋を転々としつつ、並行して伊豆諸島へ向かう準備を整えよう。吸い終わったタバコを灰皿に押し付けて、彼はそう決めた。
「そうと決まりゃあ、さっさと用意済ますか」
「ええ。といっても、昨日はすぐ寝たし荷物はこれだけだけど」
「……そういやずっと聞こうと思ってたんだが、お前って下着とかどうしとるん? あと今着とる服とか、どこから出してんだよマジ」
そういえば、昨日もそうだった。
どうやってかは知らないが、人魚っぽいあの下半身から人間の足に彼女が変えた際に、スカートのようなものまで履いていた。それまで彼女は何も持っていなかったにも関わらず。
セラは今、白いロゴTシャツに黒いミニスカートを履いている。シャツについてはセイジの物を使わせているので良いとして、スカートについては持ってきたどころか、そもそも彼が持っていない物だった。セイジに女装癖はないのである。
「あぁ……まあ……これはそういうものよ。気にしないで」
「魔法とか吐かしたらケツ蹴るぞ」
「なんでよ!?」
この世に実は人魚が居るということまでは受け止めれたが、流石に魔法だの何だのはファンタジー過ぎて脳がパンクしてしまいそうな気がする。
慌てて尻を隠すように抑えたセラを横目に、セイジはリュックを持って立ち上がった。
「まぁ、とりあえす行くぞ。今日は朝メシ食ったら別のホテルに泊まるからな」
「? まだこの街を出ないの?」
「ああ、出るのは明後日の早朝だ。アイツらがまだどう来るのか分かんねぇし、慎重になって損はねぇだろ。けど名古屋出たらノンストップで伊豆諸島向かうつもりだから、今のうちに休んどけよ」
「ふーん……まあ、そこら辺は任せるわ」
「おう、しっかり家に届けたる」
忘れ物がないか確認して、部屋を出る。一階のエントランスでチェックアウトを終えると、外に出た二人を爽やかな風が迎えた。天気は快晴で、空には雲ひとつ浮かんでいない。
よく見れば地面が湿っていた。どうやら寝ている間に雨が降っていたらしい。おかけで久々に不快感のない気温である。年が経つにつれて段々暑くなってくる夏だが、珍しいこともあるものだ。
ホテルの専用駐車場に泊めたバイクを押して、道路に出る。エンジンをかけて、セラが後部に乗ったのを確認したセイジはスロットルを開いてゆっくりと発進した。
『──あれか?』
『だろうな。兼本さんから聞いた特徴と一致している。このまま追うぞ』
──その影で、不審な男たちが見ているのも知らずに。
***
大須商店街。
東京の秋葉原や大阪の日本橋に並ぶ日本三大電気街のひとつに数えられ、中部地方におけるオタク文化の聖地として知られるここは、県内外からの多数の観光客で賑わうエリアだ。
コンセプトカフェやアニメショップといったサブカルチャーを体験するのはもちろんのこと、ファッションや食べ歩きも出来ることから尾張地区の若者のみならず、県の内外から来たであろう中高年の姿もよく見られる。
今日は八月二十八日の月曜日。
世間の学生たちでは夏休みが終わりに向かい、人によっては後回しにしていた宿題や課題に頭を悩ませているだろう。それを懐かしがる大人たちは今日も今日とて会社に出勤し、汗水垂らして働いている。
しかし大須は名古屋の観光名所。平日だろうが何だろうが、時間帯にもよるものの、商店街を歩く人の多さはさほど変わらない。人混みの中でセイジとセラは、そんな群衆に紛れてごく普通に食べ歩きをしていた。
「ねぇ、あのトルコアイスっていうのは何なの?美味しいの?」
「ん? ああ、トルコって国のアイスクリームだ。めっちゃ伸びて面白いぞ、あと美味い」
「伸びるの?」
「うん。食う?」
「食べてみたいわ」
「いいぞ」
現在進行形で逃亡中だというのに、二人はごく普通に大須を満喫していた。セイジの片手はおにぎり専門店で買ったおにぎりが、セラの片手には台湾料理屋で先ほど買った焼き包子がある。
人混みをかいくぐりながら、互いを見失わないように商店街を食べ歩く──。
それはまるで穏やかな休日を過ごす男女の姿に見えるが、しかしそんな二人の心中は穏やかではなかった。
「…………どう?」
「…………まだ居る。俺から離れるなよ」
セイジとセラはしっかりと並んで、陽気なトルコ人のパフォーマンスを眺めながら小さな声で話す。顔は動かさず、視線だけを右に左に映す二人の表情は強ばっていた。
──ホテルから出て、信号待ちをしていた時のことだ。
セイジはやけに此方を凝視する不審なドライバーをバイクのサイドミラー越しに見つけた。車間距離は付かず離れず、されとてセイジが進む道にピッタリと付け回してくる。
最初は気のせいかと思ってスルーしたが、四度左折して四度ともバイクの後ろにその車が付いたとなれば、流石にセイジも違和感を覚えた。
そもそもフルスモークの黒塗りセダンと言うだけでも怪しかったのだが、”単なる偶然かもしれない”と確信が持てずに居たセイジは、大須商店街近くのコインパーキングにバイクを止めて人混みに紛れることに決めた。
車が大須まで着いてこなければそれで良し。腹拵えも兼ねて普通に大須で食べ歩くつもりだったが、生憎とそうは問屋が卸さない。
セイジが停めた駐車場から少し離れた路地に、そのセダンは路駐した。車から出てきたのは美波で出会ったあの男たちと同じように、黒いスーツを着込んでいた。おまけに、雰囲気からして明らかに堅気ではなかった。
もはやここまで来れば、あの男たちが自分たちの追っ手であることに間違いないだろう。仮に今ここでバイクを再び出したら、追っ手の存在に気づいたことを相手にも知られてしまう。
どうすることも出来なくなって、木を隠すなら森の中と言わんばかりにセイジはセラを連れてこの商店街に進んだのである。食べ歩きしているのはあくまで彼らに気づいていないフリをするためのカモフラージュに過ぎなかった。
「……参ったな。どうしよ」
「……とりあえず、人気の少ない所には行かないようにしないと」
「ああ、そうだな」
彼らがこんな人でごった返すなか、堂々と発砲するような異常者でないという確信はない。仮に彼らがそうだとしても、大人しく捕まるつもりはなかった。自分たちを付け回す追っ手の目から逃れ、隙をついてバイクに乗る必要がある。
「アイス貰ったら人混みに紛れて離れるぞ」
「ん、わかったわ」
トルコの陽気な店員に数枚の百円玉を渡し、釣り銭を受け取ると、セイジはセラの手を引いて人混みに紛れた。それに合わせて、後方の男たちも動きを見せる。
背後を気にしながら少し歩くと、路地裏に差し掛かった。立ち止まってスマホのマップを確認すると、五分もあれば先ほどバイクを停めた辺りに出れることがわかった。
セイジはチラリと男たちを見やる。群衆のせいで足止めを食らっているようで、キョロキョロと二人を探しているようだった。
今しかない。そう思った彼は、「走るぞ」と短くセラに伝えて思い切り路地裏に向かって駆けた。
「はぁっ、はあっ、はあっ」
あまり体力がないらしいセラの、激しい呼吸が聞こえてくる。しかし止まる訳にはいかない。男たちもきっと自分たちが逃げ出したことに気付いただろうし、こんな路地裏で捕まれば何をされるか分かったものではない。
走り、走り、そしてようやくたどり着いたコインパーキング。セイジはポケットから乱雑に鍵を取り出して、バイクに差し込んだ。後ろ手でセラにヘルメットを被せると、急いで車体に跨って同じようにヘルメットを着用する。
「──居たぞ! 早く来い!」
「車出せ車!!」
「チッ、来やがった。捕まってろよ」
「ん」
二人を追ってきたらしい男たちが、セイジを指差しながら叫ぶ声が後ろから聞こえてくる。彼はアクセルを捻り、バイクを発進させた。そのまま道を曲がるときに、サイドミラーに男たちが車に乗る姿が映る。
相手は車、それも大型のセダン。対してこちらはバイク。大通りにさえ出れば、すり抜けが出来るこちらの方が遥かに逃げやすいだろう。
彼の脳内に浮かび上がる周辺エリアの地図と照らし合わせて、ハンドルを思い切り切った。
コインパーキングから裏門大町大通へ進み、交差点を直進する。すると名古屋高速2号東山線が上に通る、若宮大通へ差し掛かった。しっかり左右を確認しつつ左折し、車の流れに乗った。ミラーには既に彼らの姿は見えない。
ほっ、と彼はヘルメットの中で息をついた。
今のは少し危なかった。人混みがなければあっという間に捕まっていたかもしれない。その事を考えると、大須に来たのは正解だった。
腹もある程度は膨れたし、このまま名古屋都心から離れるべきだろうか。そんなことを考えていると、セイジはある事に気づいた。
「あれ? お前アイスは?」
赤い色を灯した信号の前。長い車列の先頭で停まっていたところでセラの様子に彼は違和感を覚えた。やけに落ち込んでいるというか、バイクを発進させてから一言も喋らない。
どうしたのかと聞いた彼であったが、腰を掴むセラの腕がギュッと強まったのを感じて信号を待つなか首を傾げる。
「落とした」
「あっ……すまん」
ズン、と落ち込んだ声が聞こえてきて思わず反射的に謝った。そりゃ当然か、と同時に納得する。彼女の手を引いて思い切り走ってきたのだ。おそらく先程の路地で落としてきたのだろう。
初めて見たトルコアイスに興味を示していたセラは、追っ手を撒いたことへの安堵と共にアイスを落としたショックで落ち込んでいた。
「ま、まぁ今度また買ってやるから気にすんな」
「ん……」
背中に押し付けられる頭の感触に苦笑いを浮かべながら彼女を励ます。返ってきた相槌に満足気に頷くと、ちょうど信号が青に灯った。
ニュートラルからギアを入れ、ゆっくりと前進する。シフトチェンジによるガコンという振動が二人を軽く揺らしながらも、唸るような力強い排気音を轟かせて加速していく。
──そんな二人の逃亡劇はまだ、始まりに過ぎない。
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