Nightlife Nagoya

 美波から約一時間をかけてようやく名古屋に着いたセイジとセラは、中京エリア最大のターミナル駅たる名駅の近くのコンビニで休んでいた。


 人の多さに驚いているのか、田舎者丸出しの雰囲気でビルを見上げる彼女は放っておいて、コーヒーとタバコを買う。


 携帯を見れば山本や祖父母からの着信が何件か入っていたが、申し訳ないが返事をするのが億劫で無視している。

 喫煙所でタバコを吹かしていると、縁石に腰掛けていたセラが話しかけてきた。


「ここ、どこなの?」

「名古屋。俺の心の地元」

「でもあんた美波に住んでるじゃない」

「前まで週八で来てたし、ほぼ名古屋人だわ」

「意味わからんないんだけど……」


 愛知県は尾張地方と三河地方に分かれている。名古屋出身でもないのに名古屋人を自称するという謎の見栄を張る事が多いのは、主に尾張地方の人間の特徴だ。


 古くは尾張国に含まれていた知多半島で生まれ育ったセイジも、幼少期からの都会への憧れからその例に漏れず、自身は美波ではなく名古屋人であると主張して憚らない。

ㅤ尚、セラは「何言ってんだこいつ」と言わんばかりな視線を向けていたが。


 そんな彼は吸い殻を捨てて、スマホを開いた。検索欄には「ネカフェ 名古屋」とある。金に関しては名古屋に来る前に銀行ATMであの二百万を預入れたので、ネカフェやビジホに連泊しようが問題は無い。


 現在の時刻は七時半ちょうど。腹も空いてきた頃だし、ネカフェに泊まるにしろ腹拵えを済ませてからにするべきだろう。


 そう考えたセイジの頭の中には、名駅から然程離れていない場所にある飲食店が浮かんでいた。海鮮料理を主に出している店で、二年くらい前に仲間と栄で遊んだ帰りに寄った憶えがある。


 彼としては味噌カツとかひつまぶしとかその辺りが食べたいところではあるが、故郷に居た頃は蟹や海老などの甲殻類を主食としていたらしいセラの口に合うかは分からない。


「もしもし」

『……はい、”海鮮みやび”でございます。ご予約のお電話でしょうか?』

「ああ、違います。いま席が空いてるか確認したかったんですけど」

『かしこまりました。少々お待ちください』


 電話が待機中となって、聞き覚えのあるメロディーが流れてくる。あそこはそれなりに人気のある居酒屋だし、前に行った際にはほぼ満席状態だった。それ故に念の為に掛けたのだが、電話先から僅かに聞こえてくる騒がしい声を聞く限り、もしかしたら空いていないかもしれない。


 二十秒ほど経って、軽快なメロディーが止んだ。


『失礼します。お座敷が一つ空いております。現在お皿を下げているので少しお時間を頂きますが、それでもよろしいでしょうか?』

「大丈夫です。今から行きますんで、よろしく」


 有難いことに、どうやらその席をキープしておいてくれるらしい。名前を聞かれたので苗字を伝え、セイジは簡素な感謝を告げて電話を切った。


「今から飯食いに行くぞ。確か蟹とか伊勢海老置いてたし、それなら食えるだろ?」

「驚いた……あんたそんな丁寧に話せたのね」

「お前俺をなんだと思っとんの?」


 道を行き交う車や大勢の人たちを眺めていたはずのセラは、何やら後ろから聞こえてきたセイジの今まで聞いたことの無いような丁寧な口調に驚きを顕にしていた。


 別にそんなに丁寧な物言いでも無かったが、普段の粗暴っぷりからは全く想像が出来ない口調に、彼女は思わず二度見してしまったらしい。


 空を見上げて電話をしていたので、そんなリアクションをされていた事には全く気付かったセイジは不愉快そうに眉を顰めた。


 大した仲でもない初対面の店員にタメ口で話したりするような品のない輩を嫌っている彼は、いつも電話だろうが対面だろうが物腰は低く話す。

 酔っ払った仲間の一人が粋がって可愛い女店員にちょっかいをかけ始めた際など、人目も気にせず拳骨をお見舞いしたくらいだ。


 余談であるが、そんな彼とは地元に帰ったあと殴り合いの喧嘩になった。


 その三十分後にはケロッとした顔で喧嘩相手と遊び呆けていた辺り、頭が緩いというか尾を引かぬサバサバした性格というか──兎にも角にも、席をキープしてもらう事になった以上、あまり時間をかけるのは宜しくない。


「まあいいや、ほら乗れ。あんまり店待たすのも悪いし」

「りょーかい。でもいいの? 私地上のお金なんて無いんだけど」

「あんだけカニカマ食っといて今更かい。気にすんなよ、二百万あるんだから」


 入手経路や今後の動向はさておいて、口座の桁が増えたこと自体についてはテンション爆上がりであった。小遣い稼ぎの手伝いをコツコツやっているだけだったら貯まらなかっただろう。セイジはその点だけはあの連中に感謝していた。


 というか、金を気にするならもっと早くそんな素振りを見せて欲しかったものである。

 出会ってから暫く経つが、毎日カニカマとお茶を持っていくのだってタダではない。明らかに金も何も持ってなさそうだったので、払えなんて野暮なことを言わなかっただけだった。


 セイジは貸し借りは絶対にしない主義なので、あれらは彼女に奢ったということにしている。なので、いつか何らかの形で返して貰えたらそれでいいと割り切っていた。


 バイクのエンジンをつけると、セラはまた重そうなリュックを背負って後部に乗った。一時間もぶっ通しで乗っていればある程度は慣れたのか、タンデムをするその動作はかなり様になっている。


「捕まってろよー」

「うん」


 一時間前はとりあえず逃げることしか考えていなかったため、さして気にする余裕もなかったのだが、自分の腰に回らされた彼女の感触に内心ビクッとしたことで、セイジはふと冷静になった。


 これでは傍から見たらただのカップルにしか見えないのではなかろうか。彼の脳裏に過ぎったそんな考えは、馬鹿らしいと即座に切り捨てられる。


 傍からどう見えようが、そんなこと自分たちには関係が無い。自分はただ彼女を故郷に送り届ける事だけを考えていればいいのだ。


 セイジは心を改め、バイクを走らせた。




──そうして十分も経たずして着いたその居酒屋は、五年ほど前に開業したばかりの新規店だ。


 以前来た時に店主から聞いたところによると、美波からもほど近い日間賀島で漁師をしていたらしい彼は、かねてより自分の居酒屋を持つことを夢見ていたらしい。

 船に乗って海に出る傍ら、長年コツコツと資金を貯めていた甲斐もあり、ちょうど五年前の春にこの名古屋で店を開くことが叶ったとの事だった。


 リーズナブルな価格の割にボリューミーな料理の数々もあってネットのレビューの評価も高く、今では仕事終わりのサラリーマンを中心とした客が頻繁に足を運ぶ人気店の一つになっている。


 こんな時間帯だし、どうせ空いていないだろうとセイジは思っていたが、タイミング良く電話をしたおかげで店員がキープしてくれていたので、入店するなり滞りなく座席につけた。


 そんなセイジとセラの二人は、掘りごたつに疲れた足を伸ばし、メニュー表を楽しそうに眺めていた。転倒した際の怪我防止も兼ねて着ていたスタジャンはすぐに脱ぎ捨てられ、冷房の効いた店内で涼しげな顔をしている。

 辺りに漂う海鮮料理特有の良い匂いが、二人の食欲を促進させていた。


「ぐぬぬぬ……ウナギ丼もいいけど、刺身定食も捨てがたい。いや、金は沢山あるしここは贅沢に伊勢海老やフグにいっても……」

「ねぇ、この『貝尽し丼』っていうのは美味しいのかしら?」

「あ? そんなの普通に美味いやん、つーかそう聞くと貝も良いな。どれ?」

「ちょっと取らないでよ、自分の見ればいいじゃない」


 わいわいぎゃあぎゃあと騒ぎつつ、入店から五分ほどで漸く注文が決まる。

 セイジは無難な刺身定食を選び、セラはホタテやホッキ貝などが入った貝丼を選んだ。てっきり海老や蟹を頼むのかと思っていたが、こちらの方が気になったのでやめたようだった。


 それにしても、とセイジは切り出す。


「お前って刺身とか食わんの?」


 メニュー表と睨めっこしていたセラを眺めていて気になったのは、甲殻類や貝類を除いた他の刺身や海鮮丼に彼女が見向きもしなかったことだ。何故かと彼が聞けば、何ともあっけらかんとした答えが返ってきた。


「だって気持ち悪いじゃない、魚って。貴方たちだって共喰いは流石にしないでしょう?」

「……ああ、そういう事ね」


 あまりにも自然に歩いているせいで忘れかけていたが、そういえば目の前の女は人魚であった。

 果たして人魚が魚や人間を食べたりすることを共喰いと称していいのかは疑問だが、ともかく言いたいことは伝わってくる。


 チンパンジーやゴリラを食べろと突然言われたとしても、味への興味よりもまず先に忌避感を覚える。その食文化があること自体はセイジも知っているし否定をする考えもないが、少なくとも自分は一生食べることはしない。


 セラが言いたいのはつまりそういうことだ。セイジが目の前で魚を食べようが全く気にしないが、自分は食べないし食べたいとも思わない。


 種族や文化の違いはあれど、考えることは同じだった。仮に猿にも人間と同レベルの知性や言語があったら案外同じ結論に至るかもしれないな、とセイジは思った。


 甲殻類や貝はセラたち人魚からすればボーダーラインの外側にあるようで、むしろ人魚にとっては好物の類らしい。故に彼女は他の刺身定食などには一切目も向けずに貝丼を頼んだのだった。


「面白いな。文化の違いってのは」

「そう? 私からしたら当たり前のことだと思うんだけど。住んでる場所が違えば考え方も違うのは当然でしょ?」

「ほー……まあそうか」


 それが出来たら人間もここまで苦労していないのだが、セイジは特に何言わずに曖昧な相槌を打つのに留めた。

 海で住んでいた彼女に人間社会のアレコレなど微塵も関係の無いことだ。ましてや、現在進行形でその人間に振り回されているのだから尚のこと。


 セラと雑談を交わしながら、料理の到着を待つ。


「ああ、聞くの忘れてた。お前の故郷についてなんだが、どこら辺にあんの?」

「私の国?」

「うん」


 この数時間は色々バタついていたせいで忘れていたが、そういえば彼女の故郷とやらの所在をまだ聞いていなかった。


 セイジはスマホのマップを開いて、彼女に見せた。その画面には日本列島の衛星写真が映っている。人魚に地図を見せて分かるのかと不安に思ったが、どうやら杞憂らしい。


 マップを見せられた彼女は、迷うことなくある地点に指を指した。


「多分、この辺り」

「──伊豆諸島かぁ………」


 彼女の指先には西太平洋は日本沿岸地域に位置する伊豆諸島があった。

 いずれかの島に住んでいる、という訳ではなくてそれら周辺の海域という意味なのだろうが、いずれにせよセイジが想像していたよりも彼女の故郷は割と面倒くさい位置にあった。


 何が面倒くさいかといえば、確実かつ安全に彼女を故郷に返すためにはフェリーに乗らないといけないことである。

 生まれてこの方、修学旅行で近畿へ行った時を除けば東海地方を出たことの無いセイジにとって、静岡以東の地域は正しく未踏の地であった。


 ただ単にどこかの県の沖合程度にあるなら、このままバイクでパパっと見送れば良かったのだが、よりにもよって彼女が指差したのは伊豆諸島の端の方──藺灘波イナンバ島とかいう、今まで見たことも聞いたこともない島の近くである。


 八丈島や三宅島くらいはテレビ等で見聞きした覚えがあるが、藺灘波島なんて存在は今初めて知った。


 気になって調べてみると、まずもはや島というよりも海にぽつんと反り立つ巨大な岩が表示された。どうやらこれが藺灘波島らしい。


 ブログやその他のページをつらつらと眺めて分かったことは、その謎な岩の島に辿り着くためには大変面倒なことに、伊豆半島の下田市や神津島村などから漁船をチャーターする必要があるということであった。なぜならそれは、他の島と藺灘波島を結ぶ定期航路がないためである。


 ちょうど黒潮が通ることもあって、魅惑的な釣りスポットとして一部の者たちでは知られているようだった。

 ブログには笑顔で釣りをする男たちの写真があった──というか、こんな形の島に普通に上陸出来るとは驚きである。


「……んーーー、伊豆諸島ね」


 決して楽観視していた訳では無かったが、道中に妨害や襲撃を受ける可能性を鑑みるに、どうやらその道のりはかなり険しくなりそうな気がした。


「……まぁ、何とかなるか」

「…………」


 言い淀むセイジを見て何を思ったのか、セラは机の下で拳を握りしめていた。しかし面倒くさいからといって途中で大事な物事を投げ出すような性格はしていないセイジは、俯いた彼女の額を軽く小突いた。


「たーけ、そんな不安げな顔するなって。お前は黙って俺の後ろ乗っとりゃええがん。傷一つ付けず親御さんとこ連れてったるわ。任せとけ」

「……本当にごめんなさい、巻き込んでしまって。あんたにも家族や自分の生活があるのに」

「あー? 別に良いって、そんくらい。死ぬとかならともかく、たとえ数ヶ月帰らんでもちょっと怒られるだけで済むし」


 祖母は怒髪天を衝く勢いで怒るだろう。祖父は案外笑って見過ごして来るそうな気もする。いずれにせよ叱られることは確定事項となっているが、そんなセイジが少し気になっていたのは父がどんな反応をするかだった。


 深夜徘徊やタバコで補導され、家に連絡がいったことはある。しかし父からは何の連絡もお咎めもなかったので「うちの親ってそんなもんか」と、当時は気楽に思っていた。


 しかし家出は初の経験である──この逃避行を家出と言っていいかは分からないが、まあ家に帰れないし帰らないのだからほぼ同義だろう。


 しばらくしたら祖父母からの連絡を受けるであろう顔も覚えていない父が、どんな反応をするのかセイジは気になった。


「俺だって年齢的には反抗期真っ只中だぜ? それに、家出って何か楽しそうじゃん」

「その家出でこんな事になっちゃってるし、私はあまり同意しかねるのだけど……」

「おいおい前向きに行こうぜ、セラ。後ろ向いてたって何処にも進めねぇ。今はとりあえず、俺たちは飯食うことだけ考えてりゃあええんだ」


 セイジはそう言って、ようやく席に届いた自らの刺身定食を美味そうに見て手を合わせた。


 そもそも、自分が勝手にセラを連れて逃げ出したのだ。故に謝られる必要はないし、その事を気にする理由も彼女にはない。


 暗い話はこれで終わり、と言わんばかりにセイジは割り箸を適当に割って米をかき込んだ。それと同時にセラの頼んだ丼もテーブルに置かれて、彼女は返答のタイミングを逃した。


「…………そうね、とりあえず食べましょうか」

「おう、食え食え。ついでにそのホタテ全部くれ」

「それはイヤ」


 返事も聞かずに箸を伸ばしてきたセイジの手を叩いて退かす。もし自分が同じことを聞かれても分ける気はないくせに、厚かましくも勝手に貰おうとする彼の素振りにセラは呆れ、しかして感謝の気持ちを抱く。


 悪人ではないが、善人とも言いきれない。

 だがそうであるが故に、セラは彼を信じることが出来る。


 悪人などハナから論外だし、善人であっても出会った当初のセラなら疑いの目を今でも持ち続けていただろう。それだけ連中に捕まったことへのショックと恐怖は強かった。


 だがこのセイジという男は、自分のポリシーに反することは絶対にしないという類の人間で、単純に善悪で二元的に区別するには難しかった。


 善行だろうが悪行だろうが、彼の中の判断基準はあくまで自らのポリシーに反するか否か。自分のケツは自分で拭くし、一度決めたことは放り出さないのが彼の流儀。


 それを聞いて、見て、感じて──そして今、セイジは実際にそうしている。

 きっと彼は自分たちがどんな状況に陥ろうが、命の危機に晒されようが、美波から逃げ出した時のように強く手を引っ張ってくれるはずだ。


 そんな漠然とした確信がセラにはあって、けどそれを今この場で伝えるには何だか気恥しかった。


「おい、どうした? 味噌汁冷めるぞ。あっ、要らんのなら貰うけど──」

「いいえ、食べるわ。だからその手を下げなさい。こら、どさくさに紛れて私の貝持ってくな!」


 近いうちに必ず、彼に改めて感謝を伝えよう。この野蛮で品のない不調法者な友人との語り合いに、しみったれた空気は不似合いだ。それに、こんな雰囲気も何も無い居酒屋で感謝を伝えられても彼は嫌がるだろう。


「はぁ……全く。いただきます」


 セラは一先ず自分の気持ちに蓋をして、手を合わせた。彼の言うとおり、まずは何よりも腹拵えが先だ。どれだけの期間に及ぶかは分からないこの旅の始まりは、再び捕まりかけたなどという嫌な思い出よりも、美味しい食事として記憶に残した方が良い。


 そう考えていた彼女は隙あらば貝を盗もうとするセイジの手を叩きながら、目の前の丼に箸を伸ばす。非日常に足を突っ込みながらも、二人はその後も普段通りな軽口を交わしていた。





 ****



 セイジとセラが名古屋で夕食を取っているのと時を少し遡り、東京都港区に位置するブリテンズ・フォワード社日本支部のビルの一室では、血相を変えた男たちが紛糾する会議に臨んでいた。


「──人魚姫をまた逃がしただと!?」


 報告は突然だった。

 逃げ出した人魚姫を、潜伏している可能性が高いとされる愛知県に派遣した捜索チームの一つが再び商品を発見した。

 そんな吉報に胸を撫で下ろしてから僅か三十分もせずして、日本支部の重役たちはどん底に叩き落とされる。


 それは、発見したチームと定期連絡が取れなかったために急遽現場に向かった別チームの職員から上がった報告が原因であった。


 発見チームが意識不明の重傷を負い、二人揃って救急車で市内の病院に緊急搬送されたという情報に続け、警察が大勢いる為に不確定であるという前置きと共に「人魚姫再度失踪」の報せが彼らに寄せられたのだ。


 つい先程までは安堵の溜息をついていた男たちだが、現在の会議室には悲鳴混じりの怒号のみが虚しく響いている。


「…………最悪だ」


 その中の一人が、肩を落として力無く呟く。失態に続く失態。もはや弁解の余地は無いに等しい。


 ただでさえイギリス本部からの圧力は強まるばかりであるというのに、もしも彼らの耳にこの報告が届けば恐ろしい粛清が待っているのは間違いない。少なくとも、この場に居る日本支部の幹部らは揃って首が飛ぶだろう。それは大島が兼本に再三言っていたように、物理的にという意味でだ。


 悪夢だ、夢ならば覚めて欲しいと男は願う。そんな気持ちから溢れた短く小さな一言は、怒声に包まれた会議室に染み渡る。


 水を打ったように静まり返った男たちは、皆一様に俯いた。


「どうする? もう我々が生きる可能性はないぞ」

「……だが、何もせずに居ればそれはそれで処罰は重くなる。日本支部の全職員を総動員して人魚姫の再捜索に当たる他あるまい」

「それになんの意味がある? どの道、我々は全員打首か銃殺だぞ。たとえ今すぐ捕まえようが、本部からの粛清は避けられない」

「その上、”同志”は大変お怒りのようだ。そう遠くないうちに日本支部のメンバーが総入れ替えされるだろうよ」


 もちろん俺たちの死体と引き換えに──ホワイトボードの前に立つ男がそう言おうとしたその瞬間、会議室の重厚な扉が突然吹き飛んだ。


 室内の幹部たちは揃って出入り口に視線を移して、そして瞠目する。


「──そこの彼の言う通り! 無能な愚図は我々BF社には必要ないのよ!!」


 そこに居たのは女だった。

 まるで轟々と燃え盛る炎のように真っ赤に染められた長い髪に、軍人のような制服と制帽に身を包む女が威風堂々と立っている。


 誰だ、貴様は──そう怒鳴ろうと立ち上がった幹部の一人は、彼女の胸元に付けられたバッジを見て驚愕し、すんでのところでその口を噤んだ。


 バッジの中心部に刻印された”BF”という文字、そしてその周りには円のように自らの尾を噛む大蛇リヴァイアサンの紋章が掘られている。

 金色に輝くそれは、男たちに取っては今まさに恐怖していた悪夢が具現したのと同義であった。


「……ハンター?」


 ブリテンズ・フォワード社が国際的秘密結社としての地位を確立するに至った一因にして、彼らが誇る特別戦力。世界の人々が決して知らぬ間に、未確認生物を密かに狩猟する者──それがハンターだ。


 しかも大蛇の紋章を掲げることを許されているのは、ハンターの中でもほんのひと握り。即ち、このバッジは精鋭中の精鋭であることを示す証であった。


 そんな思いもよらぬ人物の突然の乱入に、日本支部の幹部らはたじろいだ。

 貫禄のある男たちが全員揃って冷や汗をダラダラと流し、背筋を凍らせているその光景は違和感満載であったが、恐怖に染まった多数の視線を向けられている当の本人は、事も無げに室内を見渡している。


「ご機嫌麗しゅう、東アジア管区日本支部の皆々様。私は親愛なる同志の命により、英国本部より派遣されましたルーシー・クロムウェルと申します……以後、お見知り置きを」


 良家のご令嬢のように品のある所作でお辞儀をした彼女は、にこやかに微笑む。並大抵の男ならば即座にその心を打ち抜くであろうほどに整った顔立ちだ。


 しかし幹部たちは彼女の双眸が無際限の殺意と軽蔑に染まっていることに気付いている。


 目の前の年端もいかない女に対して、彼らはただ生まれたての子鹿の如く身体を震わせることしか出来なかった。それ以外の行動や発言は、自らの死に直結すると分かっているからだ。


「さーて、硬っ苦しい挨拶はここまでね──この場の全員、豚箱にぶち込まれる覚悟はもうしているかしら?」


 無能な働き者には罰を、裏切り者には更なる罰と地獄のような鉄槌を!

 ブリテンズ・フォワード社の誇る人間兵器の一人は、そんな簡単な挨拶を終わらせるや否や、腰に下げていたクレイモアを勢いよく抜いた。鋭い切っ先を向けられた男たちの何処からか、ヒッと短い悲鳴が零れる。


「ああ、安心しなさい。まずは殺さない程度に軽ーく痛めつけるだけだから、ね?」


 まるで駄々をこねる小さな子供を諭す母親のように、優しい口調でそう告げる彼女の目は酷く冷たかった。


「や、やめっ──ぎゃぁぁっ!?」

「お願いします、お願いします! 殺さないで下さい!!」

「ご容赦ください、ハンター様ぁっ!! 嫌だ嫌だ死にたくない!!」

「んー……ダメ♪ 悪いけど死んで? 私、貴方たちを粛清するために来日してるんだからね。見逃したら割に合わないわ。密入国も大変だったし」

「そ、そんな……っ」


 まず最初に彼女の近くにいた二人の男が袈裟斬りにされた。返り血で顔が汚れるも、気にした素振りもなく彼女は憫笑を続けている。


「──もし恨むなら私じゃなくて自分の無能さを恨むことだね! かわいそうに! 人魚姫を二回も逃がしちゃったせいで貴方たちは一週間後にはシブヤで晒し首決定だよー……あっ、でもジャパンじゃハラキリで責任取るのが伝統なんだっけ? そっちでも面白そう! 折角だしカタナ持ってきてあげよーか? ねぇねぇ、君はどう思う?」


 何が面白いのか、腹を抱えて甲高く笑う彼女に男たちはもはや絶望するしかない。

 目の前の異常事態への理解を拒んだ一人の男など、現実逃避をしている有様だ。彼はまだマシな方で、尊厳も矜恃もかなぐり捨てて失禁する者も中には居た。


 その様子を見て彼女は一瞬不機嫌そうに顔を顰めたが、すぐに天使のような笑みを貼り付ける。だが、男たちにとって彼女は天使なんていう高尚な存在にはとても見えなかった。


 むしろ、その隠しきれていない軽蔑的視線と震えるほど恐ろしい雰囲気は天使というよりも死神や悪魔の類であった。


「あはは! とりあえず全員、自分の足とお別れしようね!ほーら、バイバイして!!そーれ!」

「──ぐ、ぎぃぁあぁぁぁああ!!!!」



 血の滴るクレイモアが、そんな明るい掛け声と共に振るわれる。


──それから五分間、会議室からは断末魔のような悲鳴が絶えずビル内に響き渡った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る