人魚との逃避行



 この世にもしも運命というのが実在するのであれば、自分にとってあの瞬間は正しく運命であっただろう。胸の中に感じる暖かみに頬を緩ませた女は、繋いだ手を見てそう思った。




──籠の中の鳥や井の中の蛙が、果てしなく続く大空や大海を知らぬように。


──狭い箱の中で愛でられ、崇められ続けて育った哀れな海の姫は、陸の地で”今”を精一杯生きる者たちの営みを知らずに過ごしていた。


 だがそんな姫であっても、サーカスの象のままで居ることに耐えきれなかった。生来、反骨精神が強かったことも影響している。

 幼少期から積もりに積もった不満は、両親や姉たちとの激しい喧嘩の末に爆発し、突発的な家出の敢行に繋がった。


 そうして地上のことも何もかもを知らぬままに飛び出た姫であったが、そんな彼女を最初に待ち受けていたのは──死への危機感であった。


 ようやく血統という目に見えぬ呪縛から解放され、自由になれた気がしていた姫であったが、それが勘違いであったことに気付くのにそう時間はかからなかった。


 彼女の身を密かに狙っていた無頼漢たちに捕まって、姫は初めて死という概念を思い出したのだ。


 姫として生を受けたが故に、死には縁のない日々を過ごしていた。それが故郷を飛び出した途端にやってきた。そうして図らずも訪れた死の危機は、以後の彼女にとって無際限の恐怖の対象となる。


 生と死は表裏一体。

 偏にその恐怖は、光あるところに陰があるように生があるから死もあるという、全世界全ての生命にとって普遍的なものさえも知ろうとせずに生きてきた事への報いでもあった。


 死を知らぬが故に、生きているということがどんだけ有難い事なのかも知らなかった彼女であったが、この最初の大難は”生への執着”という生物としては当たり前のものを姫に齎すことになる。


 死にたくない、生きたい。

 誰もが考え思うことをようやく知った姫の目は、死への恐怖と生への渇望で染まっていた。



 命からがら隙をついて逃げ出すことに成功した姫であったが、次に彼女を待ち受けていたのは新たな出会いだった。


 迫り来る死から逃げようと生まれて初めて”必死”になり、そして生への渇望に身を任せて辿り着いた見知らぬ場所で、姫は生涯忘れることの無い出会いを果たしたのだ。


 姫が出会ったのは、ぶっきらぼうで態度も口も悪い──あえて言うなれば、まるで品のない野蛮人である。何から何まで気に食わなかったが、しかして不思議と話していて悪い気はしなかった。


 そんな対応を取られることは、現人神として国の臣民たちに信仰されていた姫にとっては初めての経験だったからだ。


 そんな人間と過ごした時間は、姫に一時の安息を齎した。

 言うなればそれは、鳥が羽を休める為に止まった小枝の上で過ごしているかのような·····あるいはふかふかの毛布に包まれているときのような、そんな安らぎの時間であった。


 あれほど恐れていた死も、何故かその人間と顔を合わしている間だけは忘れることが出来た。

 これまで自分以外の全てに目を向けようとしなかった姫であるが、そんな彼女であっても自らの心の機敏の全てを把握しているわけではない。


 なので、姫はなぜ自分がそう思うのかすら理解していなかった。ただそういうものだと受け入れただけで、自らの思考を客観的に考察しようとしたこともなかったのだ。


 普通ならなぜ自分はそう思うのか、そう感じるかを疑問に思った時点で、多少なりとも理由を考えるということをするであろうに、姫は何も考えていなかった。いわゆる思考放棄である。


 命の危機に瀕して成長したのは生存本能の部分だけだったようで、姫はこの時点ではまだ箱入り娘の感覚が抜けていなかった。


 これが良かったのか、あるいは悪かったのか。そんな疑問にあえて答えるとするならば、前者であるとも言えるし後者であるとも言える。


 その後の彼女が要らぬ悩みを長らく抱えることになったことを鑑みるに、ほぼ無意識的にした思考放棄の判断は悪かったのかもしれない。

 しかし、最終的に姫がカタルシスを得た事を思えば案外そうとも言い難かった。


 兎にも角にも、狭苦しい箱庭を飛び出して経験した大難と邂逅は、今まで姫が知らなかった二つの感情を呼び起こすキッカケとなった。


 ひとつは、恐怖。

 生物として持っていて当然の生存本能だった。

 旧石器時代から僅か一万年で全球規模の大繁栄を遂げ、果てしなく遠い宇宙にまで飛び出した現生人類でさえも、その恐怖を克服することは出来ないでいる。遙か海の底で愛でられて育った姫も、生物であるが故にその例外ではない。



 そしてもうひとつの、姫が覚えた感情。

 それはこの世で最も尊く、純粋で、清廉で、無垢なものだった。そうであるべきで、何人たりとも侵すべからざる綺麗な感情。


 最初の出会いから、そう遠くない未来。

 悩みに悩んだ末に、姫は自らに芽生えた不明瞭な感情の正体を次のように断定した。



──これは”愛”である、と。




***




「ちょっと、何処行くの!?」

「さっさと逃げんだよ馬鹿人魚! いくらこんな田舎とはいえ、実弾なんぞ撃ったら通報されるに決まっとるがや!」

「やったのアンタでしょ!馬鹿はそっちよ!」

「うっさいわボケェ!」


 言い合いしながらの国道沿い全力疾走。

 体力のないセラはわずか百メートル程度で息も絶え絶えであったが、”まだまだ休めないぞ”と無理やりセイジが手を引っ張っていた。



 足を撃たれた程度なら人は死なない。


 しかしそれには適切な応急処置を速やかにしている場合という前提がつく。多量出血や、あるいは銃創からの感染症罹患──何もしなければしないだけ、死のリスクは高まる。


 とはいえ、あんな銃刀法違反と殺人未遂の現場にまさか救急車を呼ぶ訳にはいかなかった。救急を呼んだら警察もすぐにやってきて、ついでに自分も牢屋にぶち込まれるのは目に見えている。


 加えて、あの二人以外にも仲間が近くにいる可能性を考えたらそんな時間の余裕はない。既に通報されているかもしれないが、だとしてもパトカーが来るよりも先に家に逃げなげればならない。


 頼むから死ぬんじゃねぇぞ──なんて自らが銃撃した相手に祈る日が来るとは夢にも思わなかった。そんなことを考えていたセイジは現在、セラの手を引っ張って家に向かっている。


 もう片方の手には兼本から渡された現金一千万円の入ったケースがある。この額を現場に置いていくのは憚られたので、一応持ってきていた。


「なんで、助けてくれたの……? アンタ、てっきり私のこと……っ!」

「はぁっ、はぁっ! 口閉じて足動かせ馬鹿人魚!! だいたい匿うって言った矢先に裏切るほど筋違いのアホじゃねぇよ、俺は!」


 セラにそんなことを思われていたのは割とショックだったが、今はそれよりも逃げることの方が先決である。あの三文芝居の文句は後で幾らでも聞いてやると言って、彼は美波の港を通り抜けて住宅地の奥へ進んだ。



 そもそもセイジは、実際に大島に向かって発砲するつもりなど一切なかった。精々が脅しに使おうと思っていたくらいである。


 彼はただの体力と気力に満ち溢れる不良少年でしかなく、漫画のように実は射撃の名手で──なんて都合のいい才能は持たない。

 拳や角材で人を傷付けた経験はあれど、人を殺しかねない本物の武器を握る経験も覚悟も、その準備もしていなかった。


 故にただの脅し程度に考えていたのだが、であるが故にまさか僅かに腕を下ろした際に、その弾みで引き金に指がかかって発砲してしまうなど想像もしていなかった。

 真っ直ぐ水平に構えたままだったなら、恐らく大島の脳天をぶち抜いていただろう。セイジはこのとき涼しい顔をしていたが、実は内心では「やっべぇ……」と滅茶苦茶焦っていた。


 橋の下で兼本を背後から奇襲した際に、蹴りを入れまくった時か、あるいは彼が最初に懐から取り出した時か。


 運の悪いことに、そのどちらかの理由で銃の安全装置が解除されていたのが発砲の原因であった。これは加害者本人も予期せぬハプニングであったが、それは一旦置いておいて、現在二人の置かれている状況は大変よろしくなかった。


 山に囲まれた田舎なら銃声程度は日常茶飯事かもそれないが、生憎ここは前方に伊勢湾を見据える美波である。漁師は居ても、猟師は居ない。


 呑気に酒を飲んでいる爺さんも、井戸端会議に花を咲かせる婆さんや主婦たちも、同じ場所に長く住んでいるが故に、町で異常事態が起きた時の反応の速さは馬鹿にならない。狭いが故に、情報が回ってくるのもまた早い。


 住民たちが様子を見に顔を出し始めるよりも前に、自分たちは家に身を潜めなくてはならなかった。不幸中の幸いだったのは、セイジの住む家が港からさほど離れていないことだろう。


 港の傍を通る国道から分岐した、住宅地へ繋がる細く緩かな坂道を五十メートルも進めば、すぐに見慣れた一軒家が見えてくる。


「よぉし! さっさと入れ入れ!」

「ちょ、ちょっと! 押さないでよ」


 玄関を乱雑に開けて、無理やりセラを中に押し込む。抗議の声はスルーされた。セイジは周囲を確認しながら自分も入り、後ろ手で鍵をかう。


 ここまで来て漸くセイジは息をつけた。額の汗を拭いながら靴を脱いで、キョロキョロと玄関を見渡すセラの手を引いて家に上がる。


「……ここがあんたの家? やたら古臭いわね」

「失礼なやつだな……まあ、とりま風呂入れよ。俺は逃げる準備しておくから」

「お風呂? ていうか準備って何よ」


 セラはきょとん、と首を傾げた。その様子を見る彼の視線は呆れている。

 ムッと睨みつけてきたので、セイジはため息をついて彼女に現在自分たちが置かれている状況を端的に説明した。


 こうして家まで無事に、かつ誰にも見られることなく逃げることが出来た所までは良い。

 しかし、本物の拳銃を使っていたり多額の現金をこんなガキな自分に容易く渡してきたことを鑑みるに、どうやら相手はそれなりの規模の犯罪組織らしい。


 ”ブリテンズなんちゃら”なんて名乗っている以上、まさか日本の暴力団ではないだろうが、間違いなくそれらにカテゴライズされるであろう、ろくでもない組織に間違いない。

 その上、セイジはあの二人を気絶させるまでボコボコにしている。うち一人は殺しかけていたくらいだ。これで仮に自分や相手方がお互いにヤクザだったならば、面子を潰されただの何だのを理由に、組み同士の抗争事件に発展していたであろうことは想像に難くない。


 あの現場はここの近所。

 たとえこのまま家に隠れていても、彼らや警察に見つかるのは時間の問題である──だいたいそのようなことを掻い摘んで伝えるとセラも納得した様子で、セイジに手渡された緑茶を飲み始めた。


「まぁ、そーいうことだから風呂入ってこい。しばらく入れんかもしれんし」

「ん、分かった……でも私、地上のカラクリの使い方とかよく分かんないんだけど。……お母様が言ってたわ。人間のお風呂は巧妙なカラクリで出来てて初見じゃ分からないって」

「カラクリて」


 江戸時代の人間か己は。

 そう言いかけたセイジであるが、「海に住んでいるような連中だし、生活スタイルもそりゃあ違うか」と思って口に出さなかった。


 とはいえ、セラはそう言ったものの、今年で築五十年を迎える志水家の風呂の作りは割と古い。なので都会のタワマンや新築の戸建てにあるような、様々な便利機能が付いているわけではない。

 ただ蛇口をひねればお湯が出るだけの簡素なものだし、わざわざ詳しい使い方を教えるような事はないだろう。


 扉を開けると、昭和感溢れるレトロチックなタイルの貼られた浴室が広がっている。故郷では珍しいのか、あるいは日式の浴室が無いのかは知らないが、それらをセラは目を輝かせて眺めている。


「ほら、この赤い方の蛇口ひねれば湯出るから。あとこっちは触るなよ。浴槽に溜めるためのヤツだから」

「わ、わかったわ。多分大丈夫、ありがとう」


 やけに上擦った声に心配になったが、まあ何かあれば言うだろうとセイジは浴室を後にする。少ししてシャワーの流れる音と、「ひゃっ」というセラの驚いた声が聞こえてきた。問題ないと判断し、扉の前から離れてリビングに向かう。



 ガラス張りのテーブルの上に、ケースを広げた。目の前に一千万もの大金があるという事実に目が眩むも、セイジは首を振って中身を取り出した。


 百万円ずつ帯が巻かれているようで、金額を数えるのはすぐに終わった。確かに一千万あったが、問題はこれをどうするかだ。


 こんな大金を持ち歩く訳にはいかないので、何割かは自分の口座に振り込む必要がある。こんな大金を持って銀行に行ったところで怪しまれるだろうから、ATMで一度に振り込めれる限度額いっぱいがセイジがこの金を持てる限界だ。


 たしか、金融機関に置いてあるATMなら二百万くらいまでなら入金出来たはずだ。早速あとで近場の銀行ATMに寄ろう、と決める。


 残りは祖父母の為に置いておこう。

 銃を持ち出してくるような連中だ。もしかしたら自分は命を落とすかもしれない。セイジは今生の別れのつもりで家を出る腹積もりであった。


「……ごめん」


 祖父母はまだ帰宅していない。僅かにセラのシャワー音が聞こえてくるだけで、家の中は至って静かだった。そんな誰もいない部屋で、セイジは思わず祖父母に謝った。


 馬鹿なことばかりやってきた自覚はあるが、今回の件は今まで最大の馬鹿だ。友達を連れての命を懸けた逃避行など、笑い話にもならない。


 しかし、実を言うとまだその行き先は決めていなかった。なぜならセイジは彼女の故郷があるという場所を全く知らないからである。


 セラ曰く日本の付近の海にある、という何ともアバウトな情報しか持っていない現時点で、闇雲に無闇矢鱈と逃げるのは愚策にも程がある。


 何処にあるのか知らないが、いずれにせよセラをバイクに乗せて一度名古屋へ向かうのは既に確定事項だった。


 名古屋ならこことは違ってネカフェもビジネスホテルも沢山あるし、寝る場所の心配はしなくていい。

 それに、栄などの都心部からは少し離れるものの、名古屋高速は小牧インターを通じて東名高速ひがしにほん名神高速にしにほんへ行けることを考えたら、とりあえずの目的地としては間違いなく最適解であった。


 祖父母に宛てた書き置きを残して、セイジは二階の自室に入る。その途中、セラには扉越しに「置いてあるタオルは自由に使え」と伝えておいた。


 この愛すべき我が部屋も暫く見納めか、なんて鑑賞にしたりつつ、押し入れから黒いリュックサックを引っ張り出した。


「お、あったあった」


 このリュックは、仲間たちと泊まりで遠方に遊びに行く際によく使用しているものだ。ツーリング用バックパックとしてアメリカのメーカーが発売しているもので、その容量は三十リットルと普段使いしている通学用リュックよりも多い。

 防水性能だけではなく、防弾チョッキ等にも使われている頑丈な素材で出来ている事もあり耐久性も申し分なかった。

 これで一万円程度だというのだから、誕生日祝いで買ってくれた祖父には感謝感激である。


 そのリュックの中に、必要そうな物を丁寧に詰め込む。まずは自身のパンツ等の下着類、シャツやズボンだ。セラも使えるようにと、下着以外の服に関しては無地やユニセックスっぽいデザインのものを選んだ。


 メンズとかレディースとか気にするような女ではないだろうが、配慮しておくに越したことはない。その次にモバイルバッテリーやUSBケーブルなどが纏めて入ってあるポーチを突っ込み、加えてビニール袋に詰めた現金二百万や、いつだったか仲間と野宿した時に買った銀マットも備え付けのネットに縛って付けた。


 そしてセイジは机上に置かれた財布を手に取って、中身を入念に確認していく。これから始める逃亡生活が一体どれだけの期間に及ぶかは予想すら出来ないので、マイナンバーカードやデビットカードなどは持っていくべきだろう。

 入念な指差し確認を終えて、最後にその長財布も取りやすいようリュックのフロントポケットに入れる。


 これで荷物の準備は終わった。あとは今彼が着ている使い古された部屋着を替えるだけだ。


 タンスからデニムパンツとトレーナー、インナーを取りだして素早く着替える。ハンガーにかかっているグリーンのスタジャンを羽織れば用意はもう完璧である。昼間は暑いのでこんなの着ていられないが、生憎もうすぐ夜になる。天気も悪いし、バイクだと少し肌寒いかもしれないので一応持っていくことにする。


「セイジー?」


 タイミング良くセラが風呂から上がったらしい。一階から聞こえてきた呼び声に返事をし、リュックサックを忘れずに持って自室を後にする。


 階段を降りると、タオルを首にかけたセラが待っていた。そんな彼女に自分のとは色違いな藍のスタジャンを投げて寄越した。


「ほれ、湯冷めするでそれ着とけ」

「う、うん」


 それにしても、服やら何やらは一体どこから出しているのだろうか。荷物なんて持っていないだろうに、風呂上がりのセラが着ているのは先ほどまでとは違っていた。


 そんな術があるならば是非とも教えて欲しいものだが、今はそれよりも優先すべきことがある。


「もう出れるか?」

「ええ。問題ないわ」


 彼の問いにしっかりと頷いたセラは、注意深く玄関から出たセイジの背を追って外に向かった。家の隣にある駐車場には祖父が乗っている軽トラが普段置いてあるのだが、現在は空っぽである。


 そんな場所の片隅に、セイジの愛車は置いてあった。川崎のZRX400──キャンディライムグリーンの塗装とレトロなビキニカウルの特徴的なその中型バイクは、中型免許を取った際に山本ジロウの知り合いから格安で購入したものである。


 セイジがバイクの整備やカスタマイズを趣味としていたことや、元々の状態がかなり良かったこともあって、今まで故障などのトラブルに見舞われたことは一度や二度くらいしかなかった。


 因みに、このバイクは平成二十年施行の排ガス規制前に発売された同シリーズの最終型である。セイジは「完全に壊れるまで乗り潰そう」と心に決めているほど好きなバイクだった。


 生まれて初めて見る奇っ怪なカラクリを、セラは興味津々といったふうに見ている。

 バッテリーはつい先日充電したばかりなので問題ないし、暇を極めていたこの夏休み中もメンテナンスだけは欠かさなかったので然程心配はしていなかったが、エンジンがちゃんとかかってくれたことに安堵する。


 倉庫から白と黒のフルフェイスヘルメットを二つ手に持って、片方をセラに渡した。


「何これ?」

「ヘルメット。頭守るやつ」


 ふーん、と相槌を打つセラの頭に付けてあげた。顎紐の長さを彼女の大きさに合わせて調整して、しっかりバックルを留める。


 何が楽しいのか良く変わらないが、テンション高めにキョロキョロと動き回るセラの肩を掴み、セイジは彼女のバイザーを上げた。


「悪いけどこのリュック背負っといてくれ」

「重た……」


 ぐぬぬぬ、と頑張って背負う彼女を横目にセイジはバイクを軒先まで押した。耳を澄ませてもパトカーの音などは聞こえてこなかったが、港の方にチラホラと人が集まっているのが見える。既に通報したか、そうでなくともさっさと逃げなければ捕まってしまうだろう。


 ヘルメットを付け、手袋もはめてセイジは愛車に跨った。彼の身長は現在180センチである。大抵の日本車なら問題なく地面に足が着くので、停車時の安定感はかなり良い。彼はアクセルを捻ってエンジンを回すと、排気音に目を見開いて固まっていたセラを手招きした。


「乗れるか?」

「うん。だいじょー……ぶ、っと!」


 体力はおろか力もまるでない彼女のことだし、リュックも背負っているので跨るのは難しいかもしれないと思っていたが、特に苦もなく後ろに乗ってくれたので一安心だ。


「腰に腕回して掴まっといてくれ。あと俺が運転してる時に変に傾くなよ、共々コケるから」

「了解。……こんな感じでいい?」

「そうそう」


 ギュ、とちょうど良い力加減で腰に抱きついてきたセラにセイジは満足気に頷いた。

 しっかりと後方左右を確認して発進し、十分前に通ったばかりの坂道を下って港へと向かう。自分ひとりだけなら大雑把な確認をするだけだが、流石にタンデムしている状態でそれらを疎かにする訳にはいかない。普段よりも慎重な運転を心掛けて、国道へと出た。


「おーい、セイジ! 何処行くんだー? ていうか、後ろの子って……もしかして新しい彼女か!? ひゅー! 俺にも紹介してくれよ」

「げっ……」


 道路の向こう側で、身知った顔がこちらに手を振っているのが見えた。”美波の山ちゃん”こと山本ジロウである。彼の周囲にも何名かの老人や主婦が立っており、いずれも深刻そうな表情を浮かべて話していた。


 その様子と物々しい雰囲気から、絶対にあの現場を既に見られてると確信したセイジは、バイザーを上げて大声で山本へ話しかける。

 それにしても、あんな雰囲気の集団に混じっているのにも関わるず、よくもまあ好色ジジイの如く茶化せるものだ。

 逆に感心しながらも、セイジはバイクを止めることなく山本たちの横を通り過ぎる。


「ちょっと旅行行ってくるわー! いつ帰るか分からんで、爺ちゃんと婆ちゃん頼むぞ!!」

「はぁ? いや、ちょっと待──」


 思い切りアクセルを吹かし、彼はその場を離れた。山本が何かを言っていたようだが、あえて聞こえなかったフリをする。


 パトカーや救急車は居なかったので、おそらく通報はしているが到着を持っているのだろう。そんな場所にセラを連れて留まる訳にはいかない。


「よっしゃあ、気合い入れろ俺ェ! 人魚との逃避行の始まりじゃあ!!」




──西暦二〇二三年、八月十九日の夕刻。

 曇天の空の下、薄暗い魚港に爆音を轟かせて去っていく姿を最後に、セイジが美波へ帰ってくることはついぞ無かった。


 ただ一つ、自宅に残された「人魚との逃避行」という書き置きだけが彼の行方を知っている。

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