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──翌日、セイジは珍しく爆睡していた。
普段なら朝の七時頃に祖母が叩き起してくるのだが、生憎今日は用事あるとかで祖父と共に早朝から不在であった。
なんの予定もない日にアラームなんぞ設定するはずもなく、またベッドに入った時間がかなり遅かったのもあって、結局彼の目が覚めたのは午後三時のことである。
我ながらいくら何でも寝すぎではないかと思ったセイジだったが、寝起きで開ききっていない視界の端に付けっぱなしのPCモニターが入り込み、その理由を思い出す。
セラと別れて帰宅し、風呂に入ったのが夜の九時だった。この時はさっさと寝てしまおうと思っていたのだが、突然大阪に住んでる従弟から電話がかかってきたのだ。
彼は今年中学三年生になったばかりの少年で、セイジにとっては弟のような存在である。一体何用かと聞けば暇なのでゲームがしたかったらしい。
仕方ない、可愛い従弟の頼みだ。小一時間程度なら付き合ってやろう。そんな風に思ったのがマズかった。
というのも、あまりにも暇すぎるゆえに夏休みに入ってからゲームをあまりやらなくなったのもあって、セイジは思いのほか熱中してしまったのである。
結局、最終的に眠りについたのは明け方のこと。
最後の方はあまりにも眠気が酷くて記憶に残っていなかった。この分だと従弟も今頃まだ寝ているだろうな、と思い馳せながら携帯を弄る。
またやろう。従弟にそんなメールを送信して、セイジはベランダに出て一服した。
真夏の酷暑が毎年恒例となって久しいが、今日は珍しく天気が悪いようで、いつもは晴れやかな蒼が広がる空は薄暗い雲で埋め尽くされている。
上裸だと少し肌寒い気温だったが、彼は気にせず紫煙を吹かした。
「……こりゃァ、一雨降りそうだな」
咥えタバコで天を仰いで、セイジは呟く。日本の夏らしい、ジメジメとした重い空気が肌にまとわりついて気持ちが悪い。
本格的に降る前に早いところセラの所へ行こうかなんて考えつつ、スマホを見ながら一通りニコチンを堪能した彼は、部屋に戻って着替え始める。
五分も経たずに普段の格好に変えると、ほぼ無意識に一階のキッチンへ足を運ぶ。
眠気を堪えながらダンボールの箱を開けていると、ハッと気が付いた。何の疑問も抱かずにセラ用のカニカマを用意している自分を客観視して、彼は思わず苦笑いを浮かべた。
これではまるで推しのアイドルに貢いでるオタク──いや、近所の野良猫に餌をあげている暇な老人ではあるまいか。
いつの間にかコレが寝起きのルーティンに組み込まれていたことに気付かないとは、いよいよ自分はセラに毒され始めたらしい。
金も手荷物もなさそうな彼女のことだ。きっと腹を空かせているだろうというセイジの気遣いから始まったことでも、いざ改めて考えるとただの餌付けにしか思えなくなる。
「……」
ふと、彼はリビングに視線を移した。そこにはテレビとソファーと机があって、ごく一般的な間取りの穏やかな空間が広がっている。
その隅には観葉植物と、祖母が可愛がって飼育している熱帯魚の水槽があった。
手元にあるカニカマと、水槽の横に立て掛けてある魚の餌を見比べる。
次いでセラの顔を思い浮かべて、突然湧いてきた邪な考えを振り払うかのように彼は首を振った。
「……いくら人魚っていっても、魚の餌なんか食わんよな」
口に出した言葉は否定的だったが、口角は上がり続けている。
彼は生来のイタズラ好きで、ヤクザの車に卵を投げつける様な人間なのだ。そんな志水セイジという男が、自らの考えたイタズラを実行しないなんてことは八割ありえない。
人魚だって半分は魚のようなものなのだから、食えなくはないだろう──そう考えてしまった時点で彼の心のブレーキは壊れてしまったらしい。
結局、セイジの脳内で熾烈な争いを繰り広げていた善意という名の天使と悪意という名の悪魔は、後者によって制される。
カニカマやお茶が入るビニール袋の中には、デフォルメされた熱帯魚のイラストが記された、魚の餌の容器もあった。
「食べてるとこ写メ撮ったろ」
ニヤニヤと軽快な足取りで道路を小走りするセイジの姿に、近所のお婆さんは気味悪げに眉をひそめ、その背中を追った。
***
「ほれ、飯だ」
「あら、いつもありがとう」
代わり映えのない日常。以前ならば退屈で仕方がなかったであろうに、セイジはこの時間を楽しみにしていた。
決してそれを言葉にすることも自覚することも今後ないが、それはそれとして今日の彼のテンションは割と高めであった。
なぜかというと面白そうなイタズラを考えたからである。今セラへ渡した袋の中には魚用の餌が入った容器があった。イラストの書かれた包装は道中に剥がして捨て、一見すると何の容器か分からないように工夫してある。
いつも通りセラは袋の中に広がる大量のカニカマに満足気に微笑んでいたが、見慣れない物が入ってることにはすぐに気が付き、セイジに訊ねた。
「セイジ、これ何?」
「おやつ」
「あんたの?」
「お前」
ふーん、と興味なさげに彼女はお茶を飲んだ。
最初はペットボトルの蓋も開けれないようなやつだったのに、今では普通に開けられるらしい。
そういう姿を見ると、「やっぱり人魚じゃなくて人間なのでは」と勘ぐってしまうが、しかしてそうとも言いきれない不思議な感覚がある。
彼女の様子をジッと観察していると、当然小石を頭に投げつけられた。とはいえそれは砂のように小さく、当たっても大して痛くはなかった。
「あっぶねぇな。目に入ったらどうすんだよ」
「人が食事をしている姿をそんなにジロジロ見ないでくれる? 少し恥ずかしいのだけど」
「……すまん」
思ったよりもガチトーンでそう言われて、大人しく謝って顔を背ける。
確かに不躾だった。反省して気まずくなった雰囲気を変えるために、臆することなくセイジは話を切り出す。
「そういえばお前、こんな所で寝てて風邪とかひかないの? 夏とはいえ海沿いだし寒いだろ」
「ん、慣れたし別に大丈夫」
「ほーん……要らない枕でも持ってこようか」
「あら? じゃあご好意に甘えようかしら。いつまでも石を枕にするのも疲れるし」
「おけおけ。明日持って来たるわ」
これで良し、とセイジは自らのメンタルを内心で褒めた。もしも女々しい性格だったなら多少はショックを受けて、雰囲気も微妙なままだったかもしれないことを考えると、無理やりにでも話題を変えたのは正しい判断だったといえるだろう。
それにしても、やはりセラはこんな所で独りで寝ているらしい。野宿の経験はセイジにもあるが、流石にこんなゴツゴツとした場所で寝たいとは思わない。流石にどうかと思って提案してみれば、彼女は快く頷いてくれた。
ついでだ、どうせなら布団もオマケにくれてやろう。橋の下で布団を敷いてぐっすりと寝る彼女の姿を思い浮かべると、普段の強気な態度とのギャップで笑ってしまいそうになる。
「なによ、ニヤニヤして」
「いや別に……つーか、おやつ食わんの? せっかく持ってきてやったのに」
「これの事?」
カニカマを食べながら、セラは袋の中から例のものを取り出して見せた。”そうそう”と頷くセイジを横目に、彼女は容器を手に持って眺める。
シャカシャカと振ると、彼女は特に迷いもせずに蓋を開けて餌を手に出した。フレーク状のそれの匂いを嗅ぎ、僅かに眉間に皺を寄せる。
「……ふーん。じゃあ、頂くわ」
「えっ」
まるで本当にお菓子を食べているかのように、セラは餌を口に放り込んだ。こちらが思っていた反応と違って、セイジは硬直する。
彼が想定していたリアクションは、明らかに人間用の食べ物では無いものを出され、セラが自分に対して怒る、という至ってシンプルな流れであった。餌自体もかなり臭いので、まさか彼女が本当に食べるとは考えてなどいない。
人魚、人魚と主張して憚らない彼女を少しからかってやろうか、と考えていただけだ。
幼なじみたち相手ならともかく、そこらの女に魚の餌を食わして笑うような酷い男では無いセイジは慌てて彼女に駆け寄った。
「アホ女! そいつは魚の餌だぞ!本当に食う奴があるか!」
非常識にも程がある──肩を掴んでそう叫ぶセイジに、しかして彼女は不敵な笑みを浮かべた。その強烈な雰囲気に、思わず後退る。
「な、なんだよ」
「やっぱりね。おかしいと思ったのよ、あんたのソワソワした態度。そういう事ね。……あぁ、別にこれは食べてないから安心しなさいな」
「あっ……」
そう言って、握っていた魚の餌を見せてくるセラ。やべ、と冷や汗が彼の額から流れ落ちた。心做しか天気も先程より悪くなってきているような気もする。
「……さて。雨も降りそうだし、今日は早いところ帰ろうかなァ」
「待ちなさい」
ガシっ、と今度は逆にセラに腕を掴まれる。その細い腕に見合わぬほど力が込められたそれは、簡単に引き剥がせそうにはない。
まるで故障したロボットかのように、ギギギと後ろを振り向いたセイジの目に映ったのは、にこやかな笑みを浮かべる美少女──ではなく、修羅の如きオーラを醸し出している般若であった。
「そこに直りなさい」
「……うす」
怒った女ほど怖いものは存在しない。自らの経験則からそう考えているセイジは、もはや万事休すかと大人しく従った。
そして始まる説教の時間。
体感で三十分くらいは一切の休み無しで叱られたセイジのメンタルは、見る影もないほどボロボロであった。
ぎゃあぎゃあと感情的に叱るのではなく、むしろ「魚の餌をおやつとして食べさせるってどういう思考回路しているの?」などという正論を突きつけてくる類の説教は、セイジのような世の中を舐め腐り他人を蔑んで笑うタイプの人間には一番利くのである。
「つらたんぴえん」
「気持ち悪い」
「ぐっ……!」
彼女の気をそらせようと馬鹿らしい言動をすればズバッと両断され、あるいはまるで反省したかのように振る舞えば、「さっさと終わんねぇかな」なんていう彼の魂胆を容易く見抜かれて余計に叱られる始末であった。
三十分後。一通り満足したのか、セラは定位置に戻って食事を再開した。
一方のセイジはというと、同年代であろう女に心をズタボロにされて意気消沈している。
これで彼女が明らかな歳上だったならば、普段から大人を舐めているセイジにとって説教などノーダメージであっただろうが、明らかに歳の変わらない奴に叱られることの経験も耐性もない。つまるところ、珍しく拗ねていた。
「これに懲りたら、二度と私にイタズラしようなんて思わない事ね」
「いつか絶対泣かしてやる……」
「なんて?」
「いえ別に何も」
これは余談であるが、図らずもセイジとセラの目に見えぬ上下関係が決まった瞬間であった。
そんなセイジは恨めしそうに彼女を睨みつけたが、当の本人は素知らぬ顔で手に持っていた餌を投げ捨てている。
「つーかよォ、人魚ってのは陸に居ても大丈夫なんか?」
セイジが持っている人魚の知識といえば、それこそアメリカの某有名会社の映画で少し見た程度のそれしかない。
故にハンス・クリスチャン・アンデルセンの書いたおとぎ話にしたって、この古臭い閉鎖的な美波で育った彼に触れる機会なんてなかった。
あの映画はどんなのだったかな、と記憶の引き出しを開けていき、彼は幼い頃に見た覚えのある映画のストーリーを思い返す。
人間の王子に助けられて恋をした人魚が、魔女と契約して彼に会いに行く──思い出せたのといえばそれくらいだが。
あれはあくまでおとぎ話をベースにしたフィクションの世界観である。魔法なんてこの現実の世界で推察するのは論外だし、そもそも人間に恋をしただの、まさかこのセラにそのような感情があるかも怪しい。
今でこそ落ち着いているが、出会った当初など野良猫かと思うほど警戒心が強かった彼女だ。誰かに惚れている姿なんて想像がつかない。
「大丈夫だからこうして毎日アンタと話してるじゃないの。というか、歩こうと思えば普通に歩けるのよ?」
「ほー、じゃあ歩いて見せろよ」
「別にいいけど」
セイジが揶揄うようにそう言うと、事も無げに彼女は了承した。
いよいよコイツの正体が分かるかもしれない──つまり、彼女が人魚か否かである。
コスプレイヤーだったら滅茶苦茶に笑い倒してやると決めて、足のソレは一体どうするのかと興味深そうに眺めていたセイジであったが、しかし彼は次の瞬間、その双眸を精一杯見開いていた。
「……は?」
彼女の下半身が光っていたのだ。
その光はまるで深海の生き物かのように昏く妖しげな色で、それでいて何処か神々しささえ覚えてしまいそうな強い煌めきを放っている。
神秘的で非現実的なその光景に、セイジの目は一点に釘付けとなっていた。
彼女の魚の如き下半身が、次第に形を変えていく。やけにリアルな造りでセイジが気味悪がっていた尾ヒレや鱗も、光に包まれて数秒も経たぬうちに人間の脚部のそれへと変わっていた。
セラが立ち上がる。
セイジの身長からすると彼女は小さいが、女性にしては高い印象を受けた。推定170センチといったところか。
およそ三十秒もせぬ短い間で現れた、スラリと伸びた白く長い彼女の足──どこから出したのか、ミニスカのようなものを履いている──を含めた彼女の全体像を視界に収めた瞬間、”不審者”や”謎のコスプレイヤー”といったバイアスで遮られていた彼の
そこにいるのは今まで見たことの無いような、ただの絶世の美女。普段のセラの腹が立つような言動も、不審極まりない生い立ちも、この時だけはセイジの脳内から吹き飛んでいた。
呆然と眺めるセイジの顔を、セラは不思議そうな表情を浮かべて覗き込む。
「セイジ?」
「──っ、近けぇよ馬鹿」
お互いの吐息が当たるほど、あるいは鼻先が触れてしまいそうなほどの距離で見つめられる。ようやく我に返ったセイジは、反射的に後退った。
「誰か馬鹿よ、失礼ね」
「うっせ。今の時代ソーシャルディスタンスは大事なんだぞ、箱入り娘め」
「そーしゃ……なんて?」
反射的に後退ったセイジは軽口こそ叩いているが、その実、内心では「たった今、自分が彼女に見惚れていた」という事への猛烈な恥ずかしさと苛立ちを感じていた。
恥ずかしい、というのは柄にもなく童貞のような反応をしてしまった己自身に対してである。そして苛立ちというのは、不意打ちのような真似をしてきた彼女に対してであった。
まるで普段全く意識もしていない異性の友達が、ふとした瞬間に見せる異性らしさに思わずドキっとしてしまったかのような気持ちになり、しかもその相手がセラであれば尚のこと悔しく思う。
年相応の思春期男子のように、らしくもなく紅潮した頬を見せまいと顔を背けるセイジの心中を察した様子がセラになかったのは、不幸中の幸いであった。彼女は疑問符を頭に浮かべてセイジの様子を窺っている。
「なんで目を逸らすのよ。人と話す時は目を見て話すのが最低限の礼儀ってものでしょう」
「うるさいうるさい。ちょっと深呼吸するから黙ってろ」
「はぁ?」
大きく息を吸って、吐いて。それを何度か繰り返し、ようやっと鼓動が落ち着いたセイジは、意を決して彼女を見た。
「…………よし、大丈夫だな!」
先程とは打って変わって、セラを見ても何の感情も湧いてこなかった。故にセイジは自分の気の所為だと判断して、心の奥底に僅かに抱いた不思議な気持ちを切り捨てる。
「全然意味わかんないんですけど……まぁ、それは今に始まったことじゃないか」
「おい、聞こえてるぞ」
「あら失敬」
それにしても、だ。
着替えた様子も動作も素振りも一切なかったにも関わらず、普通に二足で立っている彼女を見てセイジは考える。
見慣れた魚のような下半身は先程の光と共に消え失せ、その代わりに足が生えた──生えたと形容していいものかと悩むも、しかしそうとしか言い表せないのだから仕方がない。
先程のあれは一体なんなのか、一体どんな術でやったのか。いかに浅学非才な彼であっても、あれがとてつもなく非現実的なことくらいは理解していた。
「──で、お前なんなの?」
「……人魚だって何度も言ってるじゃない。今の見てもまだ信じてくれないの?」
「いや、もういい加減信じてやるよ。それに、あんなの見て現実逃避するほどお気楽じゃないもんでね」
悔しいが認めよう、間違いなくこの女は人間ではなかった。卓越したマジシャンの可能性も無きにしも非ずだが、この女の性格からしてそのようなことをする可能性はゼロに等しいだろう。
少なくとも、セイジが思っていたようなコスプレイヤーであるという推察は先程の光景を見て消え失せた。
「人魚、ねぇ……」
口に出してみても馬鹿らしいが、摩訶不思議な事象を目の当たりにしたせいで、考えれば考えるだけ馬鹿になりそうな思考の沼に浸かってしまいそうだ。
そんな底なし沼に突き飛ばした張本人は、イタズラに成功した子供のような笑みを浮かべている。癪に障るが、自分は確かに驚愕した。
今後セイジがどれだけの間生きるかは神のみぞ知るが、間違いなく人生最大の衝撃であろうことに違いない。
なにせ、人ならざるものと──つい数分前まではフィクションの世界の生き物だと思っていた”人魚”そのものと、知らず知らずのうちに仲良くなっていたのだから。
誰かに言っても絶対信じてはくれないだろうな、とセイジは思った。
「ふふん。今なら土下座で勘弁してあげるわよ、ニンゲンくん」
「チッ……疑って悪かったよ」
「え? ごめん聞こえない」
「魚類モドキ」
「あんた殺すわよ」
聞こえてんじゃねぇか、というツッコミはあえなくスルーされた。
ㅤ野蛮にも殴りかかってきたセラを躱しつつ、じゃれ合うこと数分。
あっという間に息を荒くして地面に座りこんだセラを、セイジは呆れた様子で見下した。
「貧弱にも程があるだろ……」
「はぁ……はぁ、……うるさいわね」
たかが数分じゃれ合った程度で、なぜか目の前の女はフルマラソンを走りきった選手のように息を切らしている。普段の様子からしてそうではないかと思っていたが、このセラという女に体力は一切なかったようだった。
普段の育ちの良さを感じさせる雰囲気は一体どこにいったのやら。みっともない姿をさらけ出すセラに、なんでこんなやつにドキッとしたのだろうと、セイジは数分前の自分に本気で疑問に思った。
「まあともかく、とりあえずお前しばらく俺の家来い」
「なんで?」
「変なやつらにガチで追われてんだろ?」
兎にも角にも、セラが人魚であるということにもはや疑いの目は向けていない。であるならば、彼女が先日教えてくれた自らの事情……”追われている”という事が嘘ではなく本当のことになる。
今まで彼女が言っていたことに嘘はなかった。それ故に、遂にセイジはセラを信じることに決めたのだ。嘘偽りのない話を、しかし信じられることは無いだろうと思いながらも伝えてくれた彼女の複雑な思いは察するに余りある。
それに──初めて会った時のあの強い警戒心が、彼女を追う怪しげな連中に起因するのであれば、友達思いのセイジがセラを見捨てるはずもなかった。
「……あんたを巻き込みたくないって言ったと思うんだけど?」
「そんな悠長に構えてられる話ならこんなこと言わねぇよ、たーけ」
セイジとて不本意ではある。
何が悲しくて恋人でもない女を家に連れ込まなくてはならないのか。しかし彼女曰く「捕まれば売られるか殺されるか」のようだし、人魚であるというのが本当であった事を知っても尚おちゃらけるほど、セイジは酷い男ではない。
話を聞いた時には正直胡散臭いと思っていたのだが、あの話が真実であるならば、セラを追っている者たちは間違いなく堅気でなない。
ならばセイジは彼女に共感できる。
何せ、仲間に絡んできたヤクザを半殺しにした経験のある彼だ。当然の如く彼らの怒りを買ってしまい、しばらく地元に潜んでいた時期はまだ記憶に新しい。
ㅤ別に大して怖くはなかったが、いつ目の前に現れるやも分からぬ連中に気を張り続け、不安に苛まれながら過ごす気持ちは理解できた。
名古屋から距離のある知多半島のその最南端を地元とするセイジは、難なくヤクザの追っ手を乗り切ったものの、対してセラは家出をして寄る辺が一切ない身である。
胸に抱える漠然とした不安は、きっと当時のセイジとは比べ物にならない。
ふと、いつも別れ際に心細そうな目を彼女がしていたのを思い出し、セイジは妙に心がザワつくのを感じた。
「……なんでそこまでしてくれるの? 見ての通り人間じゃないのよ、私」
「友達を助けるのに一々理由なんて付けねぇよ、馬鹿かお前」
セラは、それを聞いて思わず呆然とした。
こんな男、信じられるはずもない。けれど勝手に開いてしまった口から飛び出た言葉を止める気は不思議と湧いてこず、昨日は不用心にも自らの境遇を話した。
予想通り信じてはくれなかったが、それでも何だかんだ言って自身のお願いを聞いてくれて、彼は望み通りの情報をくれた。
ぶつくさと文句を言いながらも、毎日顔を出しに来る彼に、自分はいつの間にか絆されてしまったのだろうか。
否、そんな軽い女では無い。内心でそう強く否定しながらも、眼前に差し伸べられた彼の手を、自分でも気付かないうちにセラは握り返していた。
「……じゃあ、お世話になろうかしら」
自分を友達と呼んでくれた彼が信じてくれたのだから、自分も彼のことを信じよう。それが友達というものだろうと、セラは心に決めた。
「よし。それなら後の話は俺の家で──……」
満足気に頷いたセイジは、雨足が早くなる前に家に戻ろうと考えて後ろを振り向き──そしてその瞬間、彼の顔が強張った。
急に口を閉じて固まった彼に胡乱げな視線を向けていたセラも、セイジの背後からその視線の先を追い──同じように硬直する。
そこに居たのは二人組の男だった。
共に高そうなスーツに身を包み、セイジとセラに鋭い眼差しを向けていた。片方は興味深そうに、しかして虫けらを見るかのような……もう片方は殺意と歓喜の入り交じったドロドロとした目。
その二つを一気に同時に向けられたセラは、底から湧き上がってきた恐怖に怯えて身を縮めた。そんな彼女を庇うように片手を広げたセイジは、不審な男たちに負けじと睨みつけた。
「誰だテメェら」
「そんなこと知る必要あるか? 人魚を渡せ、ガキ」
こいつらか──。
ヤンキーやヤクザ等とは比べ物にならない、殺伐とした雰囲気とその強烈な重圧。セラを追いかけているのは間違いなく彼らに違いない。
「セイジ……?」
不安げなか細い声が、後ろから聞こえてきた。だがセイジはそれに答えることはなく、ゆっくりと歩を進めた。
「何のつもりだ、お前」
「……見て分かれや、友達助けんだよ馬鹿野郎」
拳を握りしめて、男たちの前に立つ。
凄まじい重圧を感じようが、男が懐に手を伸ばすのが見えようが、胸ぐらを掴まれようが──彼は決して臆さない、怯まない、怖がらない。
それらは全て、今にも泣きそうな一人の友達のためであった。
「一昨日来やがれ、三下」
そう吐き捨てながら中指を立てたセイジは、次いで、自らの胸ぐらを掴んでいた恰幅のいい男の顔を殴り飛ばした。
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