Suspicious person
山本から不審者の情報を得たセイジは、その足で自宅に向かい、遅めの昼食をとった。
祖母は彼の昼食を作るなり趣味の家庭菜園の手入れをしに行ったようで、さほど時間をとらずに食べ終えたセイジは、自室のベッドに横たわるや否やすぐに目を閉じた。
次に目が覚めたとき、時計の針は午後6時を指していた。昨夜は夜更かしをしてあまり寝られなかったのもあって、小一時間程度寝るつもりが結構寝てしまったようだ。
欠伸をしながら起き上がる。髪は寝癖でボサボサで、着ていたシャツもいつの間にか脱いでいた。ベッドから降りて押し入れを開き、衣装ケースの中から半袖のシャツとジーンズを取り出した。
覚醒しきっていない意識の中で、覚束無い動作で着替えたセイジは机の上に置いてあったタバコとスマホを手に取ると、洗面台に向かう。
鏡に映る自分の髪の酷さに嫌気がさしつつも、霧吹きで濡らして寝癖をドライヤーで押さえつける。そろそろ髪も切りに行こうか。そんなことを考えながら、身だしなみを整えたセイジはキッチンに向かった。
冷蔵庫の前には、夕食の準備を始めようとしていた祖母が立っている。
「婆ちゃん、今日はメシいいや」
「またどこかで食べてくるの?」
「あー…まぁ、そんなとこ」
「じゃあちょっと待ってなさい。お金渡すから」
「いいよ別に」
「いいから」
そう言ってリビングの方に歩いていった祖母を横目に、セイジは冷蔵庫の横に置いてあるダンボールを漁った。中にはカニカマが山ほど入っている。もちろんセイジの物ではなく、セラの夕食だ。ビニール袋に適当に詰め込んでいると、肩を叩かれる。
「んあ?」
「ほら、持ってきな。どうせまた帰るの夜中になるんでしょう」
ゆっくりと振り返ると、祖母が五千円札をつきつけてきた。別にいいのにと呆れつつも、ただで金が貰えるなら構わないかと黙って受け取る。お金をポケットに乱雑に突っ込み、ビニール袋を手に立ち上がった。
セイジが玄関に向かうと、その後ろを可愛らしいエプロンをつけた祖母が着いて歩く。座ってスニーカーの紐を結ぶ彼に祖母が訊ねる。
「友達と食べるの?」
「いや、ただの知り合い」
「男の子?女の子?」
「女」
「女の子と食べるのに何でそんなだらしない格好してるのアンタ!!」
セイジの格好は、まるでそこらに大したことの無い買い物に行くかのような服装である。そんな彼が異性と夕食を取ると聞いた祖母は、即座にキレ散らかした。
とはいえ、もしもセイジが彼女でも意中の相手てもない奴と飯を食うだけでオシャレするような意識の高い人間ならば、とっくに更生していただろう。後ろから聞こえてくる祖母の叱る声に、セイジは鬱陶しいそうにイヤホンを取り出した。
「だからただの知り合いだっての。うっさいのぉ」
「まったく……そんなんだからアンタは誰かと付き合っても長続きしないのよ」
セイジの恋愛遍歴をよく知っている彼女は、心底呆れたと言わんばかりにこめかみを抑える。
一番最初に付き合った彼女と別れた原因はセイジの喫煙と飲酒であったし、その次の彼女はセイジがデートを寝坊してドタキャンしたのがキッカケであった。
祖母はそんなセイジの自堕落な性格を矯正しようと長らくあの手この手を尽くしていたが、今の彼を見れば分かるようにその成果はゼロに等しい。
だがセイジから言わせてみれば、少なくとも中学卒業以降に付き合った連中に限れば、その原因は相手にあると思っている。
その尽くが大麻所持や詐欺を始めとした何かしらの罪を犯して逮捕されているのだから、あながち間違いでは無いのだが、そんなこと祖母の知ったことでは無い。「そんなのあんたの見る目がないのよ」とは、セイジの耳にたこができるほど聞いた言葉だ。
故にせめて普段から身だしなみには気を使えと言っても、もはや異性関係に関しては開き直っているセイジには一切届かない。
「んじゃあ、今日は遅くなると思うから鍵開けといてな」
「はぁ……わかったわかった」
こちらには目も向けず、スマホを弄りなから出ていくセイジに祖母は頭を抱えて頷いた。
イヤホンから流れる
車通りの少ない247号線の沿いをしばらく歩き、軽い足取りで橋の下に降りた。
「やほー」
「……おそようございます、とでも言えばいいのかしら」
「時間の約束をした覚えはないんだが」
言外に遅いと言われ、セイジは頭を搔く。いつもの場所に座り込むと、目の前のセラに袋を投げ渡した。
二週間も過ぎれば手慣れたもので、危なげなくキャッチしたセラは意気揚々と中に入っているカニカマを取り出す。その様子を眺めながら、セイジはイヤホンをポケットにしまった。
「そういや、お前が言ってた不審者どうのこうのってやつ。集会所行ったら変な話聞いたぜ」
「? どんなのよ」
「古臭い車に乗った男の話」
胡乱な目を向けるセラに、今日山本から聞いた話をそのまま伝える。それに加えて、昼間に別れたあとすぐに自分もそれに遭遇したことも合わせて伝えた。
カニカマを咥えながら深刻そうな表情で黙り込んだセラは、何かを考えるように唸る。
「……まずいわね」
「え? カニカマが? お前あんだけ食べといてそれは無いやろ」
「違うわよ馬鹿! その変な男たちのこと! めちゃくちゃ私のこと探してるじゃない!! あー、ほんと最悪……っ!」
アホな返答をしたセイジに対してか、あるいは彼から聞いた不審者に対してか。
おそらくそのどちらもに対してであろうが、セラは疲れたように大きなため息をつく。
「まあ俺が居る時なら何とかしたるわ、そんくらい。こう、チョチョイのチョイっと!」
座りながらシャドーをする彼に、セラは呆れ一杯の視線を送る。
「そんな簡単なことで済む話だったらこんな辺鄙な所に来ないっての……」
相手を殴って済むような程度の低い話なら、とっくに彼女もやっていただろう。
それでもそれをしなかったのは、それで自分を取り巻く状況が良くなるどころか更に悪化することは分かりきっていたからだ。だが、かといって何もしないのも事は良くならない。
どうすることも出来ないジレンマに悩まされ、セラはますます重い雰囲気を醸し始めた。
「……ていうか海から逃げりゃええがね。おまえ人魚なんだろ?」
これ以上ふざけたら本気で怒られそうだと感じたセイジは、至って真面目に訊ねる。誰かに言われている、と彼女から聞いたときからこれはずっと思っていたことだった。
人魚だというのなら、海から逃げればいい。今だって目と鼻の先に海があるのだから、それこそこんな辺鄙な所で隠れるよりも余程良いじゃないかと。
しかし、そう言ったセイジに彼女は首を横に振った。
「そんな事言われなくても分かってるわ。けどそれが出来ない」
「はぁ? なんで?」
「海の上も中も探し回ってるの、アイツら。そもそも此処に逃げてくるのだって命懸けだったんだからね」
「ほー……」
であるならば、確かにこんな橋の下で隠れている理由も分かった。彼女の非常識さや下半身のそれを見るに陸路の逃走は論外だとして、逃げるとなれば海しかない。しかしその海が危険だと言うのなら、ここでやり過ごす他ないのだろう。
「捕まったらどうなんの?」
「売られるか殺される」
「ヘビーな設定やなぁ……」
「設定じゃないわよ。あんたいい加減ぶっ飛ばそうか?」
深刻そうなセラとは対照的に、セイジはあまり重く受け止めてはいなかった。そも人魚云々の話だってまだ信じているわけではないのだ。
軽くは見てなないが、重く見ているわけでもないという絶妙はスタンスからセイジはセラを客観視している。
そんなセラ自身もセイジがそう思うのは無理ないとスルーしたが、自分のすぐ近くに追っ手が居たということは流石に楽観視できなかった。
「どうしましょう……どうしよ?」
「知らんわ不審者」
「あんたに聞いた私が馬鹿だったわ、ごめんなさい」
彼女はかつてないほどに動揺していたが、皮肉を言うだけの元気はまだあるらしかった。わざとらしく頭を下げたセラだったが、セイジは海の方を眺めていたのでその姿は視界に入っていない。
「それならウチ来るか?」
「ありがたい申し出だけど、遠慮しておくわ。あんたを巻き込むのはちょっと嫌だし」
「なんで?」
「後で変なこと要求されそうだもの」
「俺をなんだと思ってんだよお前……」
思わず冷たい視線を向けたセイジに、彼女はあっけらかんと野蛮人と答えた。柄にもなく心配してくれているのかと少しでも期待したこちらの気持ちを返して欲しい。
そんなやるせない彼の思いを他所に、セラはストレスを発散するかのようにカニカマを頬張った。
「はぁ、なんで家出なんてしたんだろ。こんなことになるなら大人しくしてれば良かったわ」
「家出なんてそんなもんだって。俺はした事ないから知らんけど」
客観的に見て家庭環境がよろしくないセイジであるが、実は今まで家出というのをしたことはなかった。祖父母は余程のことがない限り彼に怒ることはしないし、プライベートな時間を侵されるようなこともされていない。
そんなものだから家庭への不満は「父親が顔を見せないこと」や「父親がこんな辺鄙な田舎に置いていったこと」くらいしかなく、またその父親が居るのも遠く離れた東京ということもあり、家出したところで満たされるのは一時の開放感だけ。
不満自体は解消されないし、結局のところしばらくすれば家に帰らざるを得ないのだから意味無いだろうと考えていたので、家出をしようと考えたことすらもなかった。
なので、家出をした者の気持ちを理解はしても共感は出来ないのが本音である。目の前のセラに限らず、今は音信不通の仲間たちにしたって昔から何度も家出をしていたが、親と喧嘩して家を飛び出したと言われても、その経験がないので共感できなかった。
むしろ、仲間が家出をして親から逃げているという非日常感への興味や面白さの方が強い。実際、今だってセラの気持ちに共感はしてないが、自称人魚のコスプレイヤーが家出をして身を潜めているという事実に対してかなり面白く感じていた。
そんなことをセラに説明すると、彼女はどこか引いたように白い目を彼に向ける。
「野次馬根性甚だしいわね、クズ人間。あんたモテないでしょ」
「生憎、顔はいいもんで恋愛経験は豊富なんだわ」
「アンタを好きになる物好きが居るなら見てみたいわ。ちょっと元カノ連れてきてくれる?」
「すまん、殆ど塀の中に居るから無理」
「どんな元カノよ……」
どんなと言われても、大麻所持や詐欺で捕まった馬鹿な犯罪者共としか言いようがないセイジは黙りこくった。
会話が途切れ、静寂が訪れる。
セイジはこの何気ない時間を好んでいた。毎日仲間たちとバカ騒ぎするのも楽しいが、たまにはこうしてさざ波の音に耳を澄ませてタバコを吸うのも悪くはない。
しかし目の前に座る相手が恋人ではなく、友人とも呼びきれない知り合い程度の女というのは些か不満ではあった。
「彼女欲しいなあ」
「……なによ、藪から棒に。こっちは命の危機に瀕してるんですけど?」
「早いうちに結婚して家庭を持ちたいんだ。奥さんは綺麗な大和撫子な人が理想でさ。イチャイチャラブラブな毎日を過ごせる自信があるわ。もう子供の名前も考えてるんだぜ、凄いだろ」
「なるほど、あんた会話が出来ないのね」
セラは可哀想な人を見る目でセイジを眺めた。彼はそんな彼女の態度に不服そうな顔をし、吸いかけのタバコを地面に投げ捨てた。
「なんだよ、せっかく元気づけてやろうと気遣ったのに。失礼な奴だな」
「あんたの結婚願望を聞いて何で私が元気出るのよ」
「え?」
「は?」
まるで生産性の欠けらも無い会話であったが、彼女の気はほんの少しばかり紛れたようで、表情の険しさも和らいでいる。
どちらかというとセイジの馬鹿さ加減への呆れが多分に含まれているのだが、当の本人は何処吹く風である。
「……あんたと話すと疲れるわね。悩んでるのが馬鹿らしくなる」
「そいつは僥倖。悩んでも悩んでも泥沼に漬かるだけだし、気分転換は大事だぜ。俺みたいに気楽に構えてろよ」
「あんたは気楽過ぎるのよ」
「はははっ、そういうのが俺なんだわ。何だぁ、今知ったのか?」
「初めて会った時から」
そう聞いて、セイジはまた楽しそうに笑った。
***
「クソっ! クソっ! 何で見つからないんだ!!」
力任せにバンバンと車を叩く、恰幅のいい男がそう叫ぶ。近くでお茶を飲んでいた痩せ型の男の方は、そんな彼に鬱陶しげな視線を向けていた。
「センパイ。そんなに叫んだところで、人魚姫は出てきませんよー……というか俺の車叩くのやめてくれませんかね?」
「黙れ! お前、この状況がどんなにヤバいのか理解していないのか!?」
「……はぁ」
90年代に日産自動車より生産されていた3代目プレジデント。黒く艶やかに光るカラーと、高級感溢れる洗練されたデザインのそのセダンは、海外に飛び立った大学時代の友人から譲り受けて以後、それはため息を吐いている兼田リュウイチの愛車として長らく使われていた。
兼田はボンネットに腰掛けて、怒り狂う職場の先輩を眺める。深夜ということもあり、コンビニ前の駐車場には自分たち以外の車はない。けれどこんなに叫んでいたら、不審に思った近隣住民やコンビニの従業員に通報されるかもしれない。
機嫌が悪いのはともかく、自分にまで迷惑をかけて欲しくないと思った兼田は、気怠げな足取りで先輩の背中を軽く叩いた。
サイズがあっていないのか、それとも買った時は合っていたが太ってしまったからなのか。
明らかに怒り心頭な大島ヒロシのパツパツのシャツは、彼の腹の贅肉と共に豪快に揺れている。
「件の人魚姫が知多半島付近にいることは間違いないんでしょう?心配しなくても、そのうち見つかりますって」
「……ああ。伊勢湾に繋がる鳥羽と伊良湖岬の間の海域は上も中も見張ってるからな。追い詰めてるのはこっちなんだが……クソっ、人魚風情が調子乗りやがって」
兼田の静かな問いかけに、大島も普段の冷静さを取り戻したのか、至って普通のトーンで答えた。
伊勢湾に入るには、愛知県渥美半島と三重県鳥羽市の間に跨る海域を通らざるを得ない。
”人魚姫”の最後の痕跡からして、伊勢湾に入り込んだのは間違いなく、ゆえに海上も海中も合わせて監視するという相応の措置を取っているのだが──輸送中に商品を取り逃がすという大失態から既に二週間以上が経過している。
本部からの圧力も、上司からの悲鳴に近い懇願もますます強まるばかりで、長年ブリテンズ・フォワードという裏社会でもかなりの危険な組織に身を置いている大島は、その経験から自らのタイムリミットが近付いていることを察していた。
だからこそ本気で、文字通り命懸けで取り組んでいるというのに。事の重大さを理解していないのか、後輩の兼田は楽観的な姿勢を崩すことなく、また連日のように行っている捜索にも真剣味は感じられず、大島は彼への苛立ちを募らせていた。
「いいか、兼田。期限内に人魚姫を捕まえれなかったら俺たちの首は飛ぶんだぞ! 頼むからもっと真面目にやってくれ」
「首が飛ぶってのは、物理的にッスか?」
「当たり前だ!」
「ヒュ〜、怖ぇ!!」
「……」
仰け反ってわざとらしく怖がる兼田に対して、割と本気で殺意が芽生え始めてきた大島であったが、なにも実行に移そうと考えるほど頭に血が上っているわけではない。
冷静になれ。そう自分に言い聞かせる大島の脳裏には、かつて仲の良かった同僚の顔が浮かんでいた。誰に対しても好意的に話しかけるとても気のいい奴だったが、売る予定だった商品を誤って殺してしまい、挙句の果てにそれを隠蔽したことがあった。
もちろんすぐにバレて、目の前で上司たちに連行されていったのを最後に彼の生きている姿は見ていない。上司に懇願して何とか別れの挨拶の機会を得た大島だが、首から下が無くなっていた友人の死体は今でも鮮明に覚えている。
裏切り者にはもちろんのこと、無能な者に対してもブリテンズ・フォワードという組織は容赦がなかった。
現在の状況を当て嵌めるならば、かつての同僚は前者にあたり、今の自分たちは後者にあたる。もしも人魚姫を捕まえられなかった時のことを考えると、大島の背筋は凍った。
嫌なことを思い出し、鬱屈とした気分を紛らわすかのように、大島はコンビニで買ったおにぎりの封を乱雑に開けた。その具は好物の昆布である。
そんな彼の姿を見て、ようやく落ち着いたかと胸を撫で下ろした兼田は、おもむろに天を仰いだ。
「(……とは言ったものの、流石にやばいよなぁ)」
兼田とて、自分たちの置かれている現状が大変宜しくないということくらいはわかっている。大島ほど強烈な経験じゃないが、仕事でしくじった翌日に死体となった者は多く知っていた。
だが他人や物に当たったところで人魚姫は見つからないし、本部の圧力も弱まらない。
彼らが属しているのは英国屈指の秘密結社であり、同時に国際的犯罪組織でもあるブリテンズ・フォワードだ。結果が良ければある程度のミスも不手際も軽い叱責で見逃してくれる程度には、組織としての器は広かった。
直情的な大島とは違って、この兼田という男は根っからのリアリストである。
ゆえに今すべきことは、この愚かな先輩のように無様に当たり散らすことではなく、人魚姫を自らの手で捕まえることだと理解していた。
加えて彼は、ハーバード大学を首席で卒業するほどの頭脳の持ち主でもあった。馬鹿の一つ覚えのように窓の向こうへ目を凝らして人魚姫を探していた大島とは対照的に、彼は既に人魚姫が潜伏している可能性のある地点に当たりをつけていた。
品のない所作でおにぎりを食べている大島を横目に、彼は脇に抱えていたタブレットを開く。
そこに表示されているのは知多半島の地図だ。
赤い色でチェックの入った場所は、既に居ないことがわかっている地点で、赤い丸の着いている場所はまだ十分な確認の取れていない地点である。
「(………美波、ね。もしここにも居なかったら、とっくの前に伊勢湾から逃げてるか)」
兼田の目に止まったのは、南知多町に属する廃れきった無名の集落だ。
夕方に捜索の合間を縫って調べた限り、住人のほとんどが昭和世代の中高年らしく、若者と呼べそうな世代は大抵が高校卒業と共に名古屋や東京に移り住んでいるようだった。
今では高校生が数人と、未就学児が片手で数える程しか残っていないというが──ふと、そのとき彼の脳裏に過ぎったのは昼頃に見かけた青年の姿だった。
急に腹痛で悶え始めた大島に急かされて、猛スピードでアクセルを踏んでいたとき。いきなり見知らぬ青年が木々の合間から道路に現れて、思わず轢きかけてしまった。幸いにもあちらが避けてくれたために事なきを得たが、それよりも気になるのは何故あんな所から現れたのか、だ。
知多半島の地図を衛星写真に切り替えて、兼田は真剣な眼差しで画面を見つめる。
拡大とスワイプを何回か繰り返し、そして──。
「センパイ。明日の捜索っすけど、もしかしたら人魚姫が見つかるかもしれませんよ」
「あぁ?……何ニヤニヤしてんだよ、気持ち悪いな。もしかしたらじゃ困るんだよ、馬鹿野郎。いいから黙ってエンジンかけろ」
「ひっでぇなぁ」
青年が出てきた場所には、名前も着いていないような小橋がある。
その上を国道247号線が通っているのだが、兼田が注目したのはその下の空間。遥か上空からの衛星写真であるため、立体的に見えた訳では無かったが、橋の幅や影の大きさからして二三人が隠れ潜むには十分な広さだろうと推察する。
なぜこれほどまで熱心に捜索しても、自分たちから逃げ出した人魚姫が見つからなかったのか。
兼田が抱いていた疑問と、妙な場所から急に現れた青年の存在が結びつき、意図せず彼の口角はつり上がった。
「(行ってみる価値はある)」
ある程度腹が膨れたのか、先程よりも少し機嫌が良い大島に急かされて運転席に腰掛けた兼田は、ハンドルを握りながら考えていた。
もしも人魚姫が居るなら万々歳。陸に上がった人魚など、そこらのチンピラにも劣る。捕まえるのは容易く、成功すれば自分たちだけは本部からの処分を免れるかもしれない。
問題はあの青年が人魚姫を匿っているかもしれないという点にあるが──兼田も大島も裏社会で過ごしてきた人間だ。人を殺した経験も、数えられないほどあった。たかが田舎のガキを殺す程度、実行も隠蔽も造作もない。
しかし、未来ある若者を殺すことは流石に心情的には避けたかった。兼田は殺人好きの異常者ではないし、何よりも相手は何も知らない堅気。
もしもせざるを得ないのであれば仕方がないが、平和的に解決出来るのであればそれに越したことはないだろう。例えば、金とか。
あの青年の年齢までは分からないが、金を貰って喜ばない人間は少ないだろう。あの青年が高校生であるというのなら尚更だ。
「(五百万くらいありゃ流石に引き渡してくれるかなぁ……明日、銀行寄ってから行くか)」
妖しく光るテールランプの残光と共に、二人はコンビニから出た。
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