その日のタバコは不味かった。


「──怪しいやつが居たら教えて欲しい?」



 セイジはその日一番の素っ頓狂な声を上げた。


 お願いを聞いてくれるならば、自分の置かれている状況について教えてあげても構わないと彼女は言った。

 主にカニカマの購入費で少なくない金を使っていたセイジは、本物の蟹を買ってこいなどとセラに要求されるのかと身構えていたが、いざ蓋を開けてみれば大したことでもなかった。


「いや、怪しいヤツなら目の前に居るが。鏡持ってきてやろうか?不審者」

「私のことじゃないわよ!馬鹿! ……いや、あんたから見れば怪しいのは承知してるけど、そういうことじゃなくて……」


 怪しいヤツが居たら教えて欲しいと言われても、目の前に居る彼女こそ怪しいヤツであった。

 セイジはそう思って無自覚に煽ったが、セラの求めていた答えはどうやら違ったらしい。プンスカと怒りながら、彼女は下半身の衣装(人魚っぽいナニカ)を強く揺らしている。


 足が見えないのに器用な動き方だ。見かけによらず意外と腹筋強いのかもしれないな、とボーッと眺めていたセイジは、自分を見るセラの視線が段々と強まっているのを感じ取って、面倒くさそうに頭を搔いた。


「なんだよ、不審者情報でも調べりゃいいのか」

「そう。それで怪しいヤツがもしも居たなら、私に教えなさい。これは真面目なお願いよ」


 嘘もおふざけも誇張もない、セラの真剣なその眼差しにさしものセイジも狼狽える。流石に不真面目過ぎたかと内省し、自分の口が変なことを言わないようにとタバコを咥えた。


「……それはお前が誰かに追われてるっつう話となんか関係あるのかよ」


 火を付けながら、彼女に問いかける。それに対して肯定するかのように頷いたセラは、ポツポツと語り始めた。


「私、家出したの」


 そんな言葉から始めたセラ曰く、海の中にあるという住処の付近を一人で泳いでいたら、いきなり現れた男たちに網をかけられて捕まってしまったのだと云う。


 その後、隙を見て命からがら逃げ出しはいいものの、彼らはきっと自分を追いかけているだろうから元いた場所に帰れないのだと。


 そこまで黙って聞いていたセイジだったが、正直にいえば反応に困っていた。


 嘘は言っていない、のかもしれない。

 彼女の表情もトーンも雰囲気も決してふざけているようには見えなかった。けれどをそれらを全て信じれるほどの信用は、出会ってさほど経っていないセラに向けてはいない。


 そもそも彼は身内には甘く、余所者には厳しいこの美波で生まれ育っているのだ。余所者な上に不振極まりないセラといくらか関わったとはいえ、その根底にある排外的な考え方はこの十八年でセイジに根を張っていて、無条件の信用・信頼なんつものを向けることは出来なかった。


 家出したというのは本当だろう。

 しかし、海の中の住処やら捕まっていたやら、まずどこから突っ込めばいいか分からないというのが、そこまで聞いたセイジの嘘偽りのない本音であった。


 与太話は結構──そう切り捨てるのは簡単なことだが、セラの瞳の奥に隠しきれない不安が見て取れたセイジは、思わずため息をついた。


「色々言いたいことはあるが、とりあえず分かった。今日帰ったら集会所寄って聞いてみるわ」

「! そう……ありがとう、助かるわ」


 結局少しばかり悩んで出したセイジの答えは、疑問の放置である。人魚だの捕まっていただの、彼女の話は怪しいことこの上ないが、もしも不審者の情報があれば彼女に教えるだけでいい訳だし、その程度なら断る必要はない。


 この美波は人間関係が狭い。人口自体かなり少ないし中高年ばかりなのだから当然と言えば当然だが、余所者が町中を彷徨いていたならすぐに分かる。あの古臭い集会所に足を運ばなくてはならないという面倒を除けば、不審者情報を知るのにさしたる苦労はかからないだろう。


「そんで? お願いってのはそれだけか?もっと無理難題吹っかけられるんかと思っとったわ」

「あんた私をなんだと思ってるのよ」

「高飛車な不審者」

「ぐ、否定できない……!」


 高飛車な自覚はあるのか、と僅かに驚きながらセイジは立ち上がった。


「? どこ行くの?」

「集会所。開いてるうちにさっさと行かんと、夕方には鍵かけられて誰も居なくなるしな」


 早寝早起きの老人らしく、明け方には既に鍵が空いているが、その分閉まるのも黄昏時とかなり早い。

 小学生の頃ならともかく、今となってはあまり行ってない場所なので詳しく覚えている訳では無いが、大体そのくらいの時間だったとセイジは記憶している。


 スマホを見れば時刻はもう正午を過ぎていた。朝起きてすぐにビニール袋に入ったカニカマを持って、年季の入った近所のコンビニモドキのような個人商店で朝食のパンを買ってから橋の下に来たが、いつの間にか数時間は経っていたらしい。


 不思議なことに、セラと話していると時間が過ぎるのが早く感じる。その事に妙な違和感を抱きつつも、茶を飲みながら世間話でもしているであろう老人たちの元へ向かうべく、ジーンズについた砂利を叩いて落とした。


「じゃあ、行ってくるわ。何もなかったら家戻って昼寝してくる。……ああ、夜の分のカニカマは持ってくるから安心しろ」

「ありがとう。じゃあまた」


 セラは意外と律儀なやつだ。普段は刺々しい物言いにイラッとすることも多々あるが、ふとした時に育ちの良さを感じ取れる。

 些細なことでも感謝を伝えるというのは、セイジでも中々していないことだ。そのくせ名前を今日まで覚えてくれなかったが、まあ彼女のことだ。今日の今日で忘れるということは無いだろう。



 軽く手を挙げて、セラに背を向けて歩き出した。


 自分の身長ほどある壁をひょいと登り、木々の間を通り抜けて国道へ出る。橋の下からも見えた海だが、やはりあんなジメジメした所から見るよりも気持ちが良い。



 海風を浴びながら道路沿いを歩いていたセイジだったが、真正面から猛スピードで走る車が視界に入った。


 慌てて横にステップしたおかげで接触は避けられたが、おかけで咥えていたタバコを地面に落としてしまう。

 しかしセイジの意識は火をつけて間もないタバコでななく、すれ違いざまにまるで煽るかのようにクラクションを鳴らして去っていたその車に向いていた。


「──っぶねぇな、ボケ!」


 振り向いて怒鳴るも、そこには既に車は居ない。


 四ドアセダン、色は黒。やけに古めかしいデザインから旧車であることは分かったが、車に詳しくないため車種までは分からなかった。

 しかしフロントグリルに取り付けられたナンバーに”横浜”と記載されているのは見えたので、セイジは車が去っていった方向をジィっと眺める。


「……」


 こんな場所で横浜ナンバーなんて珍しいな、と思うのと同時にやっぱり危険運転をした顔も知らぬドライバーへの怒りが増した。


 まあこんな所で愚痴愚痴していても仕方ないとため息をつき、ふと口に咥えていたタバコが無いことに気づく。足元を見れば、そこにはまだ赤く光る吸いかけのタバコが落ちていた。


 しっかりと踏み潰して、ぐちゃぐちゃになったそれを側溝の隙間に落とすと、セイジは新しいタバコを取り出して火をつけた。


 あのドライバーへの苛立ちのせいか、それともセラの件に関する疑問で頭がこんがらがっていたせいか。吸い込んだ煙はいつもより不味く感じた。




 ***



 やかましい蝉の鳴き声に苛立ちながらも、人気の少ない住宅地を抜けていく。

 顔見知りの主婦や老人に挨拶をかけられたときには、自らの祖父母の顔を立てる為もあってちゃんと大きな声で挨拶を返したが、それはそれとして胸中のムカムカは中々取れなかった。


 セイジという男は何事も引き摺りやすい。良いことがあれば暫くは機嫌が良い。しかしその反面、悪いことがあれば暫くは機嫌が悪くなる。

 今日は後者だった。


「ったくあのクソドライバー、今度見かけたら車に卵投げてやる」


 ケッ、と一人悪態をつく。何かしらのトラブルを抱えている相手の車やバイクに、嫌がらせで卵やジュースをぶっかけるのが仲間内では定番の遊びだった彼らしい低俗な思考回路であったが、今それを咎める者は生憎と居なかった。


 集会所が見える。

 聞くところによると戦前からその場所に構えているらしいそれは、今もなお当時の形を変えずに残っている。


 太平洋戦争において知多半島では中島飛行機の製作所を構えていた半田市が特に苛烈な空襲を受けていたが、当時も今も軍事施設なんてものは全くない美波は十数人の青年が出征したのを除けばあまり戦争の被害を受けていなかった。


 だが家族や兄弟や恋人が出征するとあって、身内意識が今よりも強かった当時の美波は、この集会所の前で、戦地に赴く出征兵士たちを歓呼の声と共に見送ったという。


 まだ当時を知る人が存命であるため、”大事な人と別れた思い出のある場所”──ということで、耐震工事やトイレの取り付け、老朽化した部分の修繕程度の改修しか今までしてこなかった。


 そんな古臭いあの集会所が、セイジはあまり好きでは無かった。最後に行ったのだって小学六年生くらいだろう。

 隣町の子ども会と合同で、南知多町の清掃ボランティアをやるために集まって以来である。


 億劫だ。なにが億劫かといえば、それは偏に集会所に集う老人や婦人方への挨拶である。


「──あら、セイジくんじゃない!!」


 ほら来た、と思いつつも嫌そうな顔はしないようにする。集会所の玄関先で掃き掃除をしていた中年の女性は、セイジの姿が見るなり大きな声で駆け寄ってきた。


 その声を聞き付けて、何だ何だと縁側から顔をのぞき込む老人たちに会釈をし、セイジは目の前にきた彼女に手を振った。


「お久しぶりです、中町のおばさん」


 彼女は世話焼きの女性として知られている中町ジュンコという。男勝りで気が強く、酒に酔うとぎゃあぎゃあと騒いで暴れ回るので昔から苦手な相手だった。


 だがセイジの祖母からは、若い頃に彼女が美波へ嫁いで来てから長きに渡り可愛がられているようで昔から関わる機会は多く、その流れでセイジ自信もよく気にかけて貰っていたので邪険にすることは出来ない。


 そもそも、そんな態度をとったら祖母にしばかれてしまうだろう。セイジは引き攣りそうになる口角を必死に抑えた。


「珍しいわねぇ、ここに顔を出すなんて。ミヨさんはお変わりない? サブローおじさんはお元気? あ、そういえば山本さんのお宅に聞いたけどあの子たち警察に捕まったんだって?ダメよぉ、あんまりヤンチャしたら」

「……っす、アイツらがご迷惑かけてすんません」


 出会って早々のマシンガントーク。

 一年ぶりくらいに彼女と会ったが、相も変わらず会話好きなようだった。


 排外的なこの美波。

 余所者がほとんどいない分、情報が回るのはかなり早い。不審者情報を知るには持ってこいではあるものの、こうもグイグイ来られると気後れしてしまう。


 というか、やはりセイジの仲間たちは奥方の噂になっているようだった。

 まあつい最近電話をした担任曰く学校でもかなり問題になっているようだったし、未成年飲酒に加えてリンチ紛いの暴力事件を街中で起こしているので当然と言えば当然だ。


 その場に居なかったからと言ってセイジが彼らの仲間であることには違いない。

「うちの奴らがすいません」という意味を込めて頭を下げたセイジに、彼女は特に何を言うでもなく、「若いうちはそういうこともあるわよね、ダメだな事だけど」と笑っている。


「おぉ、セイジじゃないか。どうした?」


 彼女とそんなやり取りをしていると、縁側から見慣れた顔が出てきた。彼は平成に南知多町に美波が合併吸収される前まではここの町内会長をやっていた人で、今でもこの町のリーダー的な立ち位置にある。


 皆からは「山ちゃん」と呼ばれており、かくいうセイジも唯一彼だけは慕っていた。


 今セイジが持っているバイクも元はと言えば彼のツテで格安で購入したものであるし、酒やタバコを買ってくれたり会えば小遣いをくれる。その上、おばさんとは違ってあまり干渉してこないこともあって、嫌いになる要素は全くなかった。


 蓋の空いた缶ビールを手に持っている辺り、どうやらこんな時間から酒盛りをしているらしい。セイジは山ちゃんこと山本ジロウの元へ近付くと、手短に要件を伝えた。


「爺さん。最近この辺りに不審者って居る?」

「ん?いきなり何だ。また喧嘩か?」

「ちげぇよ。ちょっと色々あってな、怪しいヤツを調べてるんだわ」


 自称人魚の知り合いがヤバい奴らに追われてるらしいから、念の為に不審者情報集めてます──なんて馬鹿正直に言うわけにはいかないセイジは、適度に濁してそう言った。


 山本はビールをぐいっと飲み干すと、彼はセイジに「少し待ってろ」と言いつけて部屋の奥に去る。


 そんな彼らを他所に机を囲んで盛り上がっていた老人たちの中から、比較的に近くに座っていた顔見知りの男がセイジに話しかけてきた。


「セイジぃ! お前もこっち来て飲め飲め!」

「誰が真昼間から酒飲むかよたーけ」


 ハイテンションぶりに引きつつ、きっぱりと誘いを断ったセイジに老人たちから野次が飛ぶ。


「ガハハハ! やめときぃ、あいつ酒弱いから」

「そうそう。この前も港で飲んどったみたいだが、すーぐ酔っ払って海に飛び込んどったからなぁ」

「言っとけ言っとけ酔っ払いども」


 からかわれるも、酔っ払っていることは見れば分かったので相手にもせず縁側に腰掛けた。


 昔は祖父に連れられてよく集会所に顔を出していたが、今では行かなくなったのは彼らが小学生のセイジにも酒を飲ませようとしてくるような連中であるからだった。


 仲間たちとよく飲むことがある今でこそ酒には慣れたが、当時は酒もタバコも大して知らぬ餓鬼である。「昔は子供でも酒やタバコを買えた」など聞いてもいない昔話を語り始め、飲め飲めと酒の入ったカップを寄越す彼らが嫌いだった。


 ちなみに、あんなもの飲まなくてもいいと庇ってくれた祖父に関しては、逆に好感度が爆上がりだったのは当然とも言える。


 庭をボーッと眺めながらタバコを吸いだしたセイジに興味をなくしたのか、老人たちは別の話題で盛り上がっていた。背後から聞こえる下品な笑い声は、相も変わらず楽しそうにしている。


「セイジ。ほれ、警察から貰った不審者注意喚起のポスターだ」

「ん? おお、ありがと」


 山本から渡されたA4相当の大きさのポスターの下部には、この知多半島の南部を管轄している愛知県警半田警察署の文字が記されている。セイジはタバコを吸いながらそれを受け取ると、上から順にパッと見た。


 不審者といっても、痴呆の疑いのある老人の深夜徘徊とか通学中の小学生への声かけ事案とか、ありふれたものばかりでつまらない情報が殆どである。セラが望んでいる不審者の形態とは違うだろうと判断して、セイジは山本に訊ねた。


「最近ここら辺で不審者って出とる? 堅気じゃなさそうなの」

「……別に教えてもいいが、何や。ヤクザか何かに手を出したんかお前?」

「俺は出してねぇよ。知り合いが似たようなもんに巻き込まれとるから知りたいだけだわ」


 セラが本当に人魚であるかどうかは別として、一人の年端もいかない女を捕まえるような連中が堅気ではないことくらいセイジにもわかる。初対面の頃の強い警戒心──あれが演技ならば、セイジはもはやセラを信用することはないだろう。


 だが、追われているというその点だけは信じた。他の何もかもが信じれなくとも、あの警戒心を向けられていたセイジはその一点に限ってのみ彼女を信じることが出来る。


 山本は去年、セイジら他の仲間たちが名古屋の方でヤクザに手を出してしまい、少しの間美波に身を潜めていた件を知っているため心配した様子でセイジをしばらく見ていたが、しばらくすると呆れたようにため息をついた。


「なんだよ」

「あんまり志水の爺さん婆さん心配させるんじゃねぇよ。知ってるか? お前のことでよく相談に来るんだぜ」

「知らね」

「クソガキが……ったく」


 山本はわしゃわしゃとセイジの頭を撫でた。


「そんで、不審者だったか? それなら最近、247号を爆走しとる横浜ナンバーのプレジデントがおるな。堅気じゃなさそうなのはそれくらいだ」

「プレジデント?……あぁ、あの車か」


 一瞬なんの事か分からなかったが、247号を爆走と聞いて合点がいく。先ほど轢かれかけたあの車が、どうやら美波では不審者扱いされているらしかった。


「危険運転程度で不審者扱いか?」

「ただ単にバイクで爆走しとるお前らとは違うわ。あの車、猛スピードで走ったかと思いきや、いきなり減速して街中をジロジロ見てんだよ」

「なんそれキモ」


 自分が先ほど怒鳴った相手が、割と気持ち悪いやつだったことにセイジは引いた。


 山本曰く、その車は知多半島の南部──つまりは美波を含む南知多町を中心に最近よく見かけるようになったらしい。この辺りでは珍しい横浜ナンバーということもあって、他の地域からも情報が寄せられているようだった。


 その上、気持ちの悪いことにその車は爆走しているくせに突然減速して、通行人の顔や行動をまるで監視するかのようにジロジロ眺めているとのことだった。


 そう言われれば、ドライバーとその助手席に座るスーツ姿の目が合ったような気もするが、何せ一瞬だったため、顔つきまでは覚えていない。


 普段なら仲間たちとちょっかい出しに行ったかもしれないが、あからさまに怪しすぎる事やセラのこともあって、セイジは彼女を追っているのがあの車ではないかと推察した。


 もしもそうであるならば、下手に薮をつついて蛇を出すような真似はするべきではないのだろう。


「まぁ、助かったわ。さんきゅ、山ちゃん」

「別に構わんが……おい、ほんとに大丈夫なんだろうな? 嫌だぜ、明日の朝刊に”南知多町で身元不明の変死体が発見”とか出るの」

「大丈夫だって、やばそうになったら逃げる」


 近くに置いてあった灰皿にタバコを押し付け、先ほどからかってきた爺さんが置き去りにした未開封の缶ビールをグイッと一気に飲み干す。


 そんなセイジは幼い頃から彼を知っている山本から見ても至って平常だった。


 去年のヤクザ然り、警察に追われている時然り、そういった時のセイジはやけに興奮して口数も多くなる。しかし、今日の彼にそんな素振りはない。


 故に大丈夫かもしれないと判断した山本は、それ以上彼に言うことはなかった。


「なんかあったら俺に連絡寄越せ。匿うくらいならいくらでもしたる」

「りょー……」


 何とも気の抜けた返事だったが、山本は満足げに頷いた。手を振りながらゆっくりとした足取りで去っていくセイジの背中を、彼は黙って見送る。


 背も顔立ちも声も父親とそっくりなのに、纏う雰囲気や視線の鋭さだけは似ていない。


 セイジの父親は大人しい寡黙な男だったが、生真面目で勤勉な人間でもあった。自らの長い人生を俯瞰し、己のため家族のための努力を惜しまない、そういう人間だ。


 ところがどっこい。父親とは対照的にセイジは不真面目で自堕落な、あえて小難しく言えば刹那主義的な生き方を好んでいる。

 あのヤンチャな性格や言動も、雰囲気も視線の鋭さも、少女時代の彼の母親を思い出させた。


 話したこともないであろう亡き母親の若い頃に似るとは、山本はセイジの父親に同情する。彼女はセイジ以上に面倒くさいヤンチャな小娘だった。


 結婚どころか恋仲になるまでに、一体いくつの修羅場があったか数えるのも馬鹿らしい。

 そんな彼女に似たセイジも、恋愛ではきっと母親と似たような険しい道を歩むのだろうと思うと、かつてそれに何度も巻き込まれた被害者である山本は既に頭が痛かった。


 セイジの事は一旦置いておいて、気を取り直すために酒を飲もう。そう思って広間へ振り返ると、集まった老人たちがテレビを前に騒いでいた。


 一体なんの騒ぎだと耳を傾けると、目が合った友人が山本を手招きする。


「──おーい! 山ちゃん! もうすぐ競馬始まるぞぉ! 早くこっち来いよ!!」

「よぉし来た!今日こそ勝つぞ!」


 三週連続敗北。

 夏競馬は予想が難しいという妻への言い訳もそろそろ難しくなってきていた山本は、今日こそは勝って”予想下手”の汚名を返上しなくてはならない。出なければ小遣いが減らされてしまう。


 山本は、鼻息を荒くして老人たちに混じった。


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