第6話 父の心配
城下を見守り続ける古き良き王城も、時に時代や主人の嗜好に合わせて手を加えられることがある。中でも贅沢好みだった先代の王は、それまで厳格で武骨なだけだった王城を鮮やかに色づけた。
城へ呼ばれた一級建築士が最も趣向を凝らしたものの一つに、庭園の奥に作られた温室のサロンがある。
陽だまりの中に鎮座する温室の屋根は、荒く削ったガラスが陽光を反射してダイヤのようにきらきらと輝き、周囲を巡る水路には宝石が埋め込まれて絶えず流れる水を煌めかせ、中に足を踏み入れれば一面に異国の花が咲き乱れる。
まるでおとぎ話に描かれる秘密の花園のような景色に、足を踏み入れた者は必ず、息を呑んで暫くの間見入っていた。
「相変わらず、素晴らしい眺めですわ……」
庭園の噴水の前で、一杯の紅茶を飲み終えたベルナデッタは奥に見えるその輝く温室を見やり、胸の前で手を合わせた。
「ああ。今は修繕中だけど、いつかリリーと一緒に見においで」
「ありがとうございます」
王子はベルが持ってきた本をぺらぺらと捲りながら、優雅に組んでいた長い足を下ろす。
「今日は執務が山積みでね、悪いけどもう行くよ……」
「ええ。お忙しいのにお付き合いくださって、ありがとうございます」
王子に合わせて立ち上がるベルの表情に未練はなかった。
その理由は前回の夜が明けてすぐ、王子から貰った一通の手紙にある。
中には、満月の夜に付き合ってくれた礼と、さぞ怖かっただろうという気遣いが記されていた。それからベルの語った運命について、王子なりの見解も。
『運命は必ずしも望んだ形で現れるわけではないと、僕は思う。
それでもきっと、運命は君を導いてくれる。ロックウェル家については僕も知っているよ。
慈悲深い一家だ、君にはぴったりだと思う。 ――フィリップ』
下心の一つも見えないこんな励ましを貰っては、あれほど情熱を燃やしていたベルも降参せざるを得なかった。愛の炎は既にあの夜に消え去っていたが……暖炉に残ってたた
王子はベルを王城の入り口まで見送ることはせず、ベルもまた、庭園の入り口で彼と別れることに名残惜しさは見せなかった。
そんなこんなで、一時は王城を騒がせたベルと王子は注目を失いつつあった。一部、バラモア家に反感を持つ王城の使用人たちが『リリーよりもベルが王子と結ばれるべきだ』と噂の火種に油を注いだが、それもあの二人を見たら可能性は薄い。
しかし。久しぶりに登城したとある壮齢の男性だけは、その噂に酷く動揺したのであった。
***
同時刻。
ヒヒィーン!! と激しい馬の
彼女はそれを確認すると、なんとか体勢を整えて屋敷へと引き返した。
不穏にうねる木々を潜り抜けるように暫く走らせると、やがて向こうに、くすんだ青い屋根と冷たい白壁のバラモア屋敷が見える。
薔薇の低木の庭を抜けて裏に回ると馬小屋がある。彼女は馬番に馬を任せると、火照った体を冷ますように襟首を緩めながら、屋敷の中へと入った。
「……父上はまだ帰っていないのか?」
使用人らの出迎えを受けたあと、屋敷内をうろついていたリリーが、二階の通路で擦れ違ったセヴァを引き留める。
「ええ、まだ戻っておりませんよ。もしかすると夕暮れ頃になるかもしれませんね」
そんな立ち話をしていると、階下から、勢いよく扉の開く音が響いた。
吹き抜けになっている玄関ホールを見下ろすと、そこには黒曜石の如く輝く髪を、荒々しく掻き上げた父が立っていた。
戻ったばかりでまだ鎧と礼服のマントを身につけていて、酷く仰々しい。表情も些か硬く、リリーには余裕がないように見えた。だが彼は自分を見下ろす二人の姿に気づくと、「ただ今帰った」といつも通りの声色で短く告げる。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「お帰りなさい、父上。良かった、ちょうど話があったんです」
そう微笑んだ彼女に一瞬
「調査中の魔獣の件ですが、どうやら森の奥の礼拝堂に棲みついているようです。動物たちの狂暴化も、その瘴気の影響かと」
「あ、あぁ、そっちか……あの森の奥の礼拝堂なら、町への被害は少なくて済むな。よし、以降の調査は部下に当たらせる。ご苦労だったな」
「ま、待ってください! 私も同行したいのですが」
足早にその場を去ろうとした父は、その言葉に強く引き留められて振り向いた。
「まだそんなことを言ってるのか……。いいか、お前は本当は剣など振る必要は、」
「お願いします! せめて、魔獣がどんな存在かだけでも、この目で確かめたいのです」
頑なに拘る彼女を頭からねじ伏せたところで、諦める筈がないのはこの屋敷の人間なら誰もが知っていた。父は考えあぐねて、頭を掻く。
「……はぁ。まあ、お前も随分と剣は上達したから、同行は許可する。ただし部下の指示には従うこと。それから、何かあれば素直に部下に任せること」
「はい、分かりました」
「本当に分かっているんだろうな……まぁ、詳しい事はあとでバーナバスに聞け」
その言葉に、彼女は分かりやすく嫌そうに顔を歪めた。
「バーナバス……」
「元々、この調査はあいつに任せるつもりだったんだ。言っておくがこれ以上の我が儘は聞かんぞ。……それじゃあ俺は執務に戻る。セヴァ、夕食は執務室へ運ばせてくれ」
「かしこまりました」
「……おやすみなさい、父上」
今度こそ執務室へ戻ろうとする父に、リリーも夜の挨拶を告げて背を向ける。
しかしふと、今度は父の方が歩みを止めて、彼女を引き留めた。
「あー、ちょっと待て。リリー」
傍から見れば、不意に何かを思い出したような些細な仕草だったかもしれない。
彼は振り返った娘の訝しげな顔を見ながら、咄嗟にこんなことを言った。
「その……たまにはドレスでも着て、町に買い物にでも出かけたらどうだ」
何かと思えば妙なことを言う父に、彼女は窓外を見る。夕暮れと言うには少し早いが、どちらにせよ今から身支度をしたって
「いや、今ってわけじゃないが……そうだ、観劇はどうだ? 昔は好きだったろう? 特に悲劇なんかは。お前は瞳を輝かせて舞台にのめり込んでいたろう」
「……まあ、そうですね……すっかり忘れていましたが、懐かしい……。では、今度ベルとソニアを誘ってみますよ」
「いや! それなんだが……あー……で、殿下と一緒に行ってみるのはどうだ」
「え、殿下と? 何故です」
今度は歯切れ悪く口篭もる父に、リリーは心底不思議そうに首を傾げる。
同時に、これはいよいよ何かあるな、と身構えたりもした。
だがそれから少し待って父の口から飛び出てきたのは、
「殿下がお忍びで観劇に行くそうなので、恋人の振りをしてその護衛をしてほしい」という、なんてことない仕事の話であった。
「……護衛は勿論良いですが、何故恋人の振りを?」
「そうした方が敵にも感付かれまい」
「でも、お兄様がいつも殿下の護衛についているじゃないですか? お兄様の腕ならば、私が出る幕はないのでは」
「そ、それについては詳しくは言えんのだが……ルイスは今は別の任務についていて同行はできない。それにお前は立派な三柱貴族の娘なんだ、恋人の振りをした方が自然だろう」
大分苦しい言い訳な気もしたが、リリーは顎に手を当てると、案外すぐに頷いた。
「なるほど、劇場ならばカーテンの影にひそんで殿下を見守るつもりでいましたが、父上の案も中々いいですね」
どんなデートだ、と口を滑らせそうになった父は、慌てて「そうだろう、そうだろう」と頷く。
かくして某日、リリーは王子と観劇に行くことを快諾したのだった。
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