第5話 孤独な夜

 王城での騒がしくも穏やかな夜が明け、リリーとセヴァが門扉もんぴまでの長いアプローチを歩いていると、朝食の席にはいなかった王子が見送りに顔を出した。


「お嬢様、お待ちくださいませ」


 白ユリのアーチを潜り抜けて、緊張した面持ちで後を追って来る王子を一足先にセヴァが見つける。王子は振り返ったリリーの真っ直ぐな視線を受け取ると、胸を握り締めながら羞恥に頬を染めて、一瞬視線を彷徨わせた。


「殿下……てっきり、今朝は不調であられるのかと」

「あぁ、いや……す、少し寝坊して。あの、昨日は、ありがとう。とても楽しかった……帰ってしまうのが寂しいよ」


 リリーの正面に立った彼は、はにかみながらも彼女の手を握り、危うく聞き落としてしまうほどの小声で別れを惜しんだ。


 久しぶりの再会は、互いがそれぞれに想像していたよりも遥かに穏やかだった。王子はまだ落ち着かない様子ではあるが、しかし表情や態度から伝わる感情は、リリーが困惑するには十分すぎるほど親しみが込められている。


 リリーは王子を見上げた。やはりおとぎ話の主人公のように美しい彼には、朝の陽射しがとても良く似合うと思った。


 吸い込まれるようなブルーの瞳は、彼がいつも表情豊かなために冷たさは感じられないが、光を失えば酷く冷酷に見えるかもしれない。


 大人びてしまった涼しげな面貌めんぼうに、遠い幼少の面影を探して暫く眺めていると、彼の瞳が、石を投げ落とされた水面のように深く揺らぐ。頬がじわじわと赤く染まっていく。潤んだ瞳が、するりと横へ流れた。


「ど、どうしたの?」


 そう尋ねる緊張した声は、何かを期待するように上擦っている。


「いえ……暫く見かけない間に、殿下は随分と目麗しくなられたのだな、と」


 彼を見つめる視線と同じくらい真っ直ぐな言葉に、王子は純朴な乙女のように目を伏せて、頭に浮かんだ言葉の何一つも発せないまま、曖昧な返事をするので精一杯だった。


 ――帰りの馬車の中、セヴァが「王太子殿下は初心うぶで可愛らしいですね」という、凡そ目上の男性へは相応しくない感想を告げたが、それにはリリーも、素直に頷いたのだった。


 かくして、ベルとフィリップ王子が共に過ごす夜は確約された。


 リリーは、父に任されている南の森の調査の傍ら、ベル、ソニアとの茶会にも顔を出した。


 サロンに集まってすぐはややぎこちない態度であったが、なんとかベルとも和解した。


 お茶会での話題はもっぱら、ソニアが、前回の舞踏会で見つけたという真実の愛の相手と、なんと婚約を結んだことである。


 相手はとても正直で初心で可愛らしい人だとソニアは言うが、しかしリリーとベルは、「彼女が婚約を決めるくらいなのだから余程男らしい人に違いない」と二人で口々に言い合った。


 そうして仕事に勤しみ、趣味に勤しみ、交友の花を咲かせている間にも駆け足で時は過ぎ、次の満月はあっという間にやってきた。


 リリーは、その月の月例舞踏会には参加しなかった。


 王子の相手が再び三柱の令嬢に絞られた今、貴族たちの下世話な勘繰りを避ける為にも、パートナーを連れない出席はやめよう、と三人で話し合って決めたのだ。


 彼女は自室で愛用の短剣や剣を磨きながら、時折は満月を見上げて夜を過ごした。


 ソニアは件の婚約者を伴って舞踏会に出席した。そしてベルは厳重な監視と警護の下、塔の最上階への階段を上っていた。



「うぅガァアア! アァあぅうガァ!!」



 王子の寝室に近づき、激しい咆哮ほうこうが聞こえる度に彼女は恐怖に竦んだ。


『嘘でしょリリー、本当にこの中に入って行ったの?』と心の中で呟いた時、やっと着いた最上階の部屋の中から、バキバキバキッ! と激しく木を引っ掻く音が響く。


「危険ですので、痺れ魔法で殿下の動きを封じます。魔法が解けてしまう前に外からノック致しますので、そしたら退出をお願いします」


 王宮付きの魔術師にそう言われて、ベルは素直に頷いた。落ち着かせるだなんてとんでもない。それどころか、入った瞬間に八つ裂きにされてしまいそうな雰囲気である。リリーがいかにして立ち回ったか、ベルはこの時になって初めて鮮明に想像することができた。


 扉の前では、見張りの魔術師が二名待機していた。


 片方が扉を開けて素早く王子に魔法をかけると、彼の巨体はばったりと床に倒れ込む。


 ベルが恐る恐る足を踏み入れると、床に伏した王子は牙を剥き出しにして、憎しみの篭った目で彼女を見上げた。それは、死を目の前にしてなお諍おうとする獣そのものであった。


 ――怖い、どうしよう。


 ベルは萎む勇気を奮い立たせて、胸の前で手を握った。


 彼は理性を失っている。鋭い牙の隙間から涎が垂れ、絶えず不快感を示す荒い鼻息が聞こえている。口先が、苛立ちを現すように何度か床に叩きつけられる。ベルはそれをじっと見つめて、やがて腹を決めて一歩踏み出す。同時に、背後で扉が閉まった。


「ふ、フィリップ王子……私です、ベルナデッタですわ。今日はお、お時間を作って頂き」

「がぅぅうぐるるるる……!」


 身の痺れを感じながら激しく威嚇する王子へ、彼女はしゃがみ込んで、目線を近づけた。


「少し、お、お話を致しましょう。それに、クッキーを作ってきたんです……覚えてらっしゃいますか? 昔、同じのを作ったことがあって。その時は、とても美味しいと言って下さって、本当に嬉しかったですわ」


 ベルは優しく微笑んで、持っていたバスケットを傍らに置いた。今はまだ、彼の鋭い牙の隙間にこれを差し込む勇気はない。


「殿下は、覚えていらっしゃいますか? まだ私たちが八歳の頃に、初めてお会いしたのでしたよね。……その頃から私はリリーやソニアと一緒でしたし、たまにお会いできる殿下はとても優しくて、遠い人と分かってはいても、子供ながらに少し親しみを覚えておりましたの」


 王子は一瞬、リリーという名前にぴくりと鼻先を揺らした。


「……殿下には、お伝えしたことがあったかしら。私、実は妾の子なんですの。それに皆より一歳年下で……。だけどあの二人はそんな私にも優しくしてくれて」


 ベルはべったりと床へ座り込んで、苦しげにうめく王子を見た。


「ご存じですか、殿下? リリーったら、昔はああ見えて泣き虫でしたのよ。それでも、勇敢で優しいんですの、凄く。言葉は冷たいけれど、それでも元気づけてくれることだって、あるんですのよ」


 彼女の言葉に、王子の瞳が一瞬揺れた。唸り声が途切れ、やがて呼吸が穏やかになる。やはりこの話題が一番いいらしい。ベルは笑いながら、「そりゃそうよね」と俯いた。


「殿下は、昔からリリーのことばかり見てらっしゃいましたよね。ふふっ、私もソニアもとっくに気づいておりましたわ……でもリリーってば、いつも自分を抜きにして物事を考えてしまうから……。知ってました? 彼女って手先が器用で、彫り細工が上手なんですの。昔、一緒に木に模様を彫ったことがあるんですけれど、上手に何かを彫ってたわ、何を彫ってたんだったかしら……やだ、もう昔の事だから……」


 最後の方は独り言のような調子で、彼女は座り込んだままこめかみを指で押さえ、はてなんの模様だったかと記憶を掘り起こそうとした。


 しかし求めれば求めるほど答えは遠のくもので、彼女は笑いながら、「今も続けているようだから、きっともっと上手になっている筈ですわね」とその話を締めくくった。


「リリーの話になると、ちゃんと大人しく聞いて下さるんですのね」


 しかしそう指摘された王子の顔は、獣である筈なのに悲痛に歪み、今にも泣き出してしまいそうだった。


 ウォーーン、と悲しげな遠吠えを上げた王子は、何度かそれを続けた。


 体が痺れて動けない彼の、精一杯の抵抗。ベルナデッタは謝りながら、唯一触れられそうな彼の足を、毛並みを揃えるようにして撫でた。


「悲しい人……。殿下といると、不思議と私まで悲しくなってしまいますわ……だって私、リリーみたいに強くないもの」


 彼女はその時初めて、自分とフィリップ王子は似ているところがあるかもしれない、と思った。


 そして理性があるかも分からない彼へ向けて、ぽつり、ぽつりと胸の内を明かす。


「ねぇ殿下。私、実はずっと前から婚約の話があるんです。ロックウェル伯爵家の、長男なのだそうで。でも、とても不安。……それにね、私、ずっといつか運命の人が迎えに来てくれると思っていたんです。ふふ……でも、そんな事はないんだって。まだ十六歳なのに、私ったら気づいてしまいましたわ」


 彼女は小さく呟いて、王子に視線を向けた。


「また、今度は日中にお伺いしてもよろしいでしょうか? その時は、殿下がお喜びになるリリーの話、沢山教えて差し上げますわ。そうだ、今でも本はお好きですか? もし良かったら、おすすめのロマンス小説もお渡ししますわね」


 そこまで言うと、ベルは静かに立ち上がった。


 扉を開けると、外にいた魔術師や近衛兵などが一斉に彼女を見る。


 ベルの穏やかな独り言は、外には一切聞こえていなかった。沈黙の中から出て来た彼女を見て、彼らは、その瞳に無遠慮な期待を灯している。


 だがベルは皆を見回して、静かに首を横に振った。


「私では駄目でしたわ」


 王子と会話は出来なかったと、彼女は伝えた。


 まさか、しかしやはり……王子の呪いを解くのはあのバラモア嬢なのかと、誰もがそう考えた。


 しかしこの一件からベルは時折フィリップ王子を訪ねるようになり、王子も執務の合間の短い時間ではあるが、彼女の訪問を受け入れた。


 常々声を潜めて楽しそうに笑い合う二人が、一体どんな会話をしているかは誰にもまったく想像がつかない。だが傍目から見た王子はとても楽しげで、ベルも変に萎縮した様子はなく、朗らかに笑っていた。


 ――二人の距離が明確に縮まったことは、勿論ソニアやリリーの耳にも入った。


 しかし王子の本心を知るソニアは王子の心変わりは疑わなかったし、リリーに限っては「そうか」の一言だけで、まったく意に介する様子はなかった。


 そもそもの話、リリーにだけ病的な人見知りを発揮し、長年彼女を避け続けていた王子にまさか好かれているなど、リリー本人は考え付きもしないのであった。

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