第4話 夕暮れの庭園にて

 猛スピードで進んでいた馬車の速度が徐々に落ちて、やっと口を開いても舌を噛まずに済む早さになった頃。セヴァは、乱れに乱れたリリーの髪を手早く結い直した。お転婆な彼女と長く連れ添ってきた彼にとって、この程度のお直しはまさに朝飯前である。


 城の門扉の前に馬車が滑り込み、セヴァの手を借りたリリーが降車する。


 公爵家の面目を保つため、彼女はそれまでの狂騒が嘘のように落ち着き澄ました顔で、ゆったりとヒールの爪先を地面につけた。


 見張りの兵に急ぎ王子に会いたいことを伝えると、暫くして庭園で待つようにと伝えられる。


「セヴァはここで」

「はい」


 彼女はセヴァを庭の入り口に待たせ、一人で奥に進んだ。


 プライベートの要件であるから誰かに聞かれるのも気まずいだろう、という考えはどうやら当たったようで、おずおずと庭に顔を出したフィリップ王子は、彼女が一人であることを確かめると、ホッとして歩みを早めた。


「り、リリー嬢……」


 王子は眩しい金髪と白い肌に夕日の色を溶かし、赤く全身を赤く染めていた。そして透き通る清廉な瞳は、期待と不安でゆらゆらと揺れている。


 対するリリーは冷たい無表情のまま、しかし内心では久しぶりに見た――人間としての――彼の背が記憶にあるよりもまたいくらか伸びていて、立派な大人の男性になっていることにとても驚いた。


 すらりと伸びた腕も足も、細く引き締まった体も均整がとれていて、安定した重心は、彼が腰に下げている剣が飾りでないことを証明している。


「こ……この前ぶりだね。……き、綺麗だ」

「どうもありがとうございます。殿下も、相変わらず麗しゅうございます」


 リリーの口からするりと出た褒め言葉は、決して軽薄なお世辞などではなかった。


「そんなに、堅くならないで……あ、あっちのベンチに座ろう」


 柔らかく手を取られ、リリーも素直にエスコートを受ける。


 色とりどりのユリの花が足元で揺れると、彼女はつい俯いて、その静謐せいひつの美に瞳を奪われた。時折、風に吹かれて二人の髪が揺れる。彼女の伏せた横顔を、王子は人知れずじっと見つめる。


 ベンチに座ると、リリーは早速用件を打ち明けとようと口を開きかけたが、王子がなにやら口ごっていることに気づいて言葉を飲み込んだ。


 彼が話しやすいように、ゆっくりで構わない、という意味を込めて柔らかい視線を向けながら、黙って言葉を待つ。随分と長い沈黙のような気がした。やがてもう一度乾いた秋風が吹き去ったのをきっかけに、王子は膝の上に置いていた手を握って、やっと口を開いた。


「その……この前は、ごめん……。多分、襲い掛かってしまった、よね」

「理性がない時のことなのですから、お気になさらないでください」

「う、うん……次は、次の夜は気を付けるから。でも今日は、なんで突然来たの?」

「今日は、殿下に伺いたいことがあったのです。ベルナデッタ・ベルセリア嬢の事です」

「あぁ……。彼女が、どうか?」


 あまりに呑気な返事に、リリーはぴくりと眉を動かす。


 それを目敏く見つけた王子は、慌てて両手を振った。


「あ、あ、彼女は、あ、明るくて聡明だよね! でも、え、本当になんで? どうしたの」

「今日、ベルナデッタ嬢から、次の満月は殿下と共に過ごすと聞いて……ですが今朝、私も殿下からその、お手紙を頂いたものですから」


 プライベートの手紙を、とまでは言い辛く、それとなく濁す。すると彼も、短いながらも有りっ丈の勇気を振り絞ったあの手紙を思い出したのか、ポッと頬を赤く染めた。


「あ、あ、ああ、うん」

「そこには、次の満月は私と共にと書かれておりました。一体殿下のお心がどこにあるのか、伺いたくて来たのです」


 リリーは続けて、自分はベルの後で構わないと言おうとした。しかし伏せていた顔を上げた時……目前で輝く王子の瞳を見て、彼女は言葉を失った。


 フィリップ王子はいつも闇夜のような冷ややかさを纏う彼女が、自分の気持ちを確かめるためだけに、手紙も寄越さないほど焦ってここまで駆けつけてきたことにいたく胸を打たれていた。

 彼女が、そんなことを確認するために、ここまで? そんな驚きと喜びが王子の胸を甘く焦がす。それは徐々に炎を上らせ、彼の視界の中心にいるリリーをいつも以上にいじらしく、そして健気に見せた。


「っリリー……!」

「!?」


 突然両手を掴まれた彼女は、目を白黒させながら、何やら興奮している王子を伺い見た。そうして自分を上目に見るリリーに、王子は優しく顔を綻ばせる。


 それは慈悲深く愛情に満ち、まさに花が咲いたような満面の笑みであったが、しかしリリーはなぜ突然自分にそのような笑顔が向けられたのか、まったく理解が出来なかった。


「あぁ、リリー……君はどうしてそうひたむきなんだ。中身も昔と変わらないんだね……安心したよ」

「あ、あの、」


 怪訝なリリーの視線に、王子はハッと顔を強張らせた。やってしまった、つい思っていることを口に出してしまった、嫌われたかもしれない。


 そんな彼の表情を見て、リリーは僅かに目を見開いた。また王子が怯えてしまった。不遜な態度だったか? しかしこの場合、どう返すのが正解なんだ? そんな疑問と自責の念に苛まれ、彼女の視線が落ちる。


「……気分を害されたのなら、申し訳ございませんでした」

「あ、あ、えっと、あ、えっと……ベル嬢のことは誤解なんだ!」

「そ、そんな不埒な男性のような言い訳を……。いいのです、殿下」


 リリーがそっと手を抜くと、王子は名残惜しそうにそれを視線で追いかけつつ、ベルと出会った今朝のことを語り始めた。


 とはいえ真実を聞いてしまえばなんてことない、少々間抜けな話である。


「に、日中はちょっとボーっとしていて。ベルナデッタ嬢が訪ねて来てくれたのに失礼だったと、今は思う。それで、彼女の問いに何となく相槌を打っていたんだ。というより……次の満月の夜と聞こえて、つい何も聞かず頷いてしまった。僕にとってその日は、人生で初めての、孤独じゃない夜になるかもしれないから」


「……そう、ですか」


 確かに、彼が次の夜も理性を保てておけるならば、そうかもしれなかった。


「楽しみなんだ。君と、過ごせることが。この前も嬉しかった。僕、い、いつもは逃げてばかりだけど……だからこそあの夜、君がもう一度来てくれるなんて、思わなくて。ずっとやり直したいと、お、思っていたんだ。八年前のあの夜のことも……その、」


 王子はすっかり大きくなった体をもじもじと縮こませ、俯いた。その頃には日もすっかり落ちて薄暗くなっていたが、彼の頬にだけはまだ太陽の名残が燻っている。


 リリーはそんな彼を眺めながら、心底不思議そうに首を傾げた。


「何故です。私がお嫌いなのでは?」


 その言葉に、王子は俯いたまま目を見開いて凍り付いた。


 彼は暫く思い詰めた様子で逡巡したのち、観念したようにもごもごと口を動かす。


 ……九歳の時、リリーに襲い掛かってしまったあの日の絶望は凄まじかった。彼女を傷つけた罪悪感は幼気な王子を蝕み、一時はリリーを見ると呼吸さえままならないほどだった。


 今でも目を瞑ると、自分を見上げる幼きリリーの恐怖に濡れた瞳と、その後すぐに死を受け入れて、諦観を滲ませたあの表情が脳裏に浮かび上がる。恐ろしかった。もしもあの時セヴァが彼女を救出しなかったらと思うと、彼は今でも、まともではいられなくなる。


 更には、リリーが剣技を特訓して猛獣狩りに勤しむようになったと聞いて、彼は自分もいつか狩られるのかと思い怯えた。


 不甲斐ない自分への怒りと彼女への恐怖、そして罪悪感が、どうしても真正面からリリーに向き合う勇気を奪ったのだと、王子は告げる。


 まだどこか視線の合わない王子はもう少し何かを隠しているらしかったが、リリーは、そこまでは深く追求しないことにした。ただ話ながらも後悔で顔を歪ませる王子を慰めるように、優しく諭す。


「私が剣の腕を磨いたのは、大切なものを守る為です。そして、私が王子を傷つけることは今後も一切ありません。陛下と、そして月下に咲くベラドンナに誓って」


 王子を真っ直ぐに見つめて語る彼女の瞳は、とても真摯だった。


 澄んだ空気のように透き通っていて、夜風が淀んだ空気を一掃するかのように、王子の胸に溜まった不安を吹き消していく。彼は彼女の誓いと強く輝く瞳に、強く心を揺さぶられた。


「リリー……」

「王子の呪いを解くことには、私も協力は惜しみません」

「……そ、そう、だね。ベルナデッタ嬢には、僕から断りの手紙を送ろう」


 視線を外してすまなさそうに笑う彼へ、リリーが待ったをかける。


「あの、その事ですが……次の満月は一度、ベルナデッタ嬢と過ごしてはいただけませんか?」

「……え?」

「王子の事を深く気にかけているのは、彼女も同じなのです。どうか、」


 この願いがただの自己満足であることは、リリーも心のどこかで分かっていた。だがそれでもと切に乞う彼女へ、王子はゆっくりと手を伸ばす。


 震える指先が、あの夜のように彼女の頬をか細く撫ぜた。しかし猛獣の爪とはあまりに違う柔らかい感触に、リリーは肩を揺らした。


「っ、ご、ごめん……い、嫌だったかな」

「え、あいえ、決してそんなことは……」

「よかった……あの、そ、それじゃあ……もう少し、いい?」


 そう言って愛おしげに触れてくる王子へ、リリーは我が目を疑った。


 これが、何年も自分から逃げ続けていた王子本人なのだろうか? 彼女は何度も瞬きをしながら、頬をすりすりと撫でる指先のくすぐったさに、困ったように身を捩った。


「ベルナデッタ嬢のことは、分かった。次の晩は彼女と共にいよう。……今日はもう遅いから、王城に泊っていくと、いいよ。客間を用意させる」

「ありがとうございます、お気遣い感謝いたします」


 彼女が頭を下げると、王子の手も自然と頬から離れた。二人は立ち上がり、すっかり暗くなった庭園を散歩しながら城へと戻る。


 その日の晩餐は、王と王妃、そして王子と共に席に着いた。


 だが緊張しすぎてぎこちない王子に影響されてか、或いは若いリリーにはまだ、王族に囲まれて食事をするのは荷が重かったのか、豪勢な夕食は驚くほど喉を通らなかった。


 それに王子も正面に座るリリーを眺めるばかりで、王妃に促されてやっと手を動かしたかと思えばスープを飲めばせ、パンを食べればのどに詰まらせるという、なんとも落ち着きのない晩餐会であった。

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